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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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18/40

親ガチャをもう一度

「さあ、親ガチャをはじめましょう」


その男は、真っ白な、けれど果てが見えないほど広い空間の真ん中でそう言った。

声はスピーカーを通したように平坦で、それでいて鼓膜に直接へばりつくような妙な湿度を持っていた。男の衣服は、仕立ての良いスーツのようにも見えるし、ただの黒い布を巻き付けただけのようにも見えた。顔の造作は、見る角度によって老人にも、子供にも、あるいは女にすら思えた。


彼を囲むようにして、ちょうど百人の人間が立っていた。

いや、「人間だったもの」と言うべきか。


時任ときとうは、自分の胸のあたりをそっと触った。

触覚はある。けれど、妙に軽い。ついさっきまでそこにあったはずの、じっとりと湿った不快な汗の感覚や、アスファルトに叩きつけられたときの、あの臓器がひっくり返るような衝撃の残痛は、嘘のように消え失せていた。


「死んだんだな」


口に出してみると、乾いた乾いた音が空間に吸い込まれていった。

トラックの鋭い制動音が耳の奥で一瞬だけ蘇り、すぐに消えた。あの雨の夜、居酒屋のバイトからの帰り道、視界を真っ白に染めたヘッドライト。それが時任の、二十三年の生涯の幕切れだった。


未練はなかった。

ただの一欠片も。


時任の脳裏に、実家の、あのカビ臭い居間が浮かぶ。

いつも安物の焼酎の匂いをプンプンさせながら、理不尽な理由で拳を振るってきた父親。殴られた母親の悲鳴。そして、その父親が借金を作って蒸発した途端、今度は別の男を家に連れ込み、時任を完全に「いないもの」として扱った母親。冷蔵庫にはいつも何も入っていなかった。時任が中学生の時、母親は男と荷物をまとめて消えた。


『親ガチャ失敗だわ、俺』


それが、時任の口癖だった。ネットの掲示板でその言葉を見つけた時、まるで自分のために誂えられたような言葉だと思った。自分の人生がこれほどまでに惨めで、底辺を這いずるようだったのは、自分のせいではない。最初に引いたカードが、最悪のハズレだったからだ。そう思い込まなければ、十九の時からいくつもバイトを掛け持ちし、すり減っていく日々に耐えられなかった。


「ここには、ちょうど百人の彷徨える魂がいます」


中央の男が、細い指をパチンと鳴らした。

すると、百人の前に、それぞれ奇妙なオブジェクトが浮かび上がった。

それは、ゲームセンターで見かけるようなカプセルトイの筐体だった。ただし、プラスチック製ではない。大理石のような、あるいは鈍く光る金属のような、見たこともない質感の「ガチャガチャ」だった。


「あなた方は全員、親に対して強烈な不満、あるいは憎悪を抱いたまま、この世界にやってきました。自殺、事故、事件。死因は様々ですが、共通しているのは一つ。全員が、最初のカードを掛け違えた、ということです」


男の言葉に、周囲の「魂」たちがざわめいた。

若くして死んだ者、やつれた顔の者、手首に包帯を巻いた幻影を残したままの少女。誰もが、一様に暗く、鋭い目をしている。


「明日、この世界には約三十六万人の人間が生まれます」

男は両手を広げ、慈悲深い神のような笑みを浮かべた。

「あなた方は新しい命へ転生し、まったく新しい人生を始めることができます。条件は平等。過去の記憶はすべてリセットされます。つまり、これは真の意味での『やり直し』です。さあ、親ガチャをはじめましょう」


男が背後の空間を指差すと、そこに入道雲のような巨大な数字の羅列が浮かび上がった。


アフリカ地域:約31人

南アジア地域:約25人

東アジア・東南アジア地域:約17人

中東・北アフリカ地域:約9人

ラテンアメリカ(中南米):約7人

ヨーロッパ・北米地域:約11人


「合計百人。これがこのガチャにある転生先の国、そのおおよその割り振りです。

どの国の、どんな両親のもとに生まれるのかは、完全にランダム。王族の子となるか、大富豪の跡取りとなるか、あるいは――。すべては、あなたの引くカプセルの中にあります」


時任は、目の前のレバーを見つめた。

冷たい鉄の感触が、手のひらに伝わってくるようだった。

(ランダム、か)

それは、公平という名の、究極の不条理だ。けれど、あの地獄のような実家に生まれる確率に比べれば、どこへ行こうがマシなはずだった。少なくとも、あの父親と母親の血を引かないというだけで、このゲームには乗る価値がある。


「では、順番にガチャを回してください」


男が促すと、最前列にいた、ひどく痩せ細った男が、怯えるようにレバーに手をかけた。


   *


ガコン、と重々しい音が響いた。


静まり返った空間に、カプセルが転がり出る。男がそれを拾い上げると、カプセルが弾け、眩い光の文字が宙に踊った。


【アフリカ / モザンビーク共和国】


回した男の顔が、恐怖か、あるいは諦念かで歪んだ。彼はそのまま、光の渦に巻き込まれるようにして足元から消えていった。


「次の方、どうぞ」


案内人の声はどこまでも事務的だ。


ガコン。

【南アジア / インド】


ガコン。

【東アジア / 中国】


次々と、魂たちがレバーを回していく。文字が浮かび上がるたびに、時任の胸の中に、冷たい計算機が起動したような感覚があった。


【アフリカ / ナイジェリア】

【南アジア / パキスタン】

【アフリカ / コンゴ民主共和国】


時任はそれらを見つめながら、自問自答を始めていた。

(俺は、どんな国に生まれたいんだ? どんな親がいい?)


大富豪。先進国のホワイトカラー。不自由のない暮らし。

頭では、そういった「当たり」の条件を並べ立てる。だが、イメージが湧かない。時任にとって「親」とは、殴ってくる存在か、無視する存在のどちらかしか選択肢がなかったからだ。愛される、という状態がどういうものか、物理的に想像できない。


ガコン。

【ヨーロッパ / ロシア】


ガコン。

【東南アジア / ベトナム】


ガコン。

【東アジア / 中国】


目の前を通り過ぎていく国名を見るたびに、時任の奥歯が自然と噛み締められた。

不思議なことに、周りの連中がどんな国を引こうが、羨ましいとも、気の毒だとも思わなかった。ただ、彼らの顔に刻まれた「生前の傷」だけが、嫌というほど同族のそれとして伝わってきた。


ある者は、腕の火傷の痕をさすりながらレバーを回した。

ある者は、うわ言のように「ごめんなさい、お母さん」と呟きながらカプセルを開けた。


みんな、壊されていた。

親という、人生で最初に立ちふさがる圧倒的な壁によって。


時任は、自分の父親の、あの赤黒く濁った目を思い出した。

パチンコで負けて帰ってきた日、玄関のドアが開く音だけで、家の中の空気が凍りついた。時任はいつも、押し入れの隅で息を潜めていた。見つかれば、理由もなく蹴られた。

母親は、そんな時任を見て見ぬふりをした。鏡の前で何度も口紅を塗り直し、香水をきつく振り撒いて、夜の街へ消えていく。彼女にとって、時任は「自由を奪った邪魔者」でしかなかった。


「クズどもが」


吐き捨てた言葉は、自分自身の過去への呪詛だった。

あの二人のせいで、学校にもまともに行けず、友達も作れず、ただ生きるためだけに金を稼ぎ、そしてあっけなく死んだ。


ガコン。

【アフリカ / タンザニア】


ガコン。

【東南アジア / インドネシア】


ガコン。

【北米 / アメリカ合衆国】


「アメリカ」の文字が出たとき、周囲から小さなどよめきが起きた。引いたのは、身なりのいい、けれど酷く怯えた目をした少年だった。彼は救われたような顔をして、光の中に消えていった。


(やはり、もう一度日本がいいのか?)

時任は考える。言葉が通じる、見知ったインフラがある。それだけで、少しはマシなスタートが切れるかもしれない。しかし、日本を引き当てる確率はそうとうに低そうだ。

(それとも……まったく知らない国がいいのか?)


言葉も、文化も、肌の色も違う場所。

そこなら、あの忌々しい記憶の残滓から、一番遠くへ逃げられるような気がした。時任という存在を構成していたすべてを、完全に消去できるかもしれない。


「次の方」


案内人の目が、時任を捉えた。

いつの間にか、順番は彼の番になっていた。


   *


時任はゆっくりと歩を進め、自分のガチャ筐体の前に立った。

錆びひとつない、完璧な金属のレバー。これを回せば、終わる。あの薄暗いアパートも、バイト先の怒鳴り声も、空腹で水道水を腹に溜めた夜も、すべてが別の誰かの物語になる。


【中央アジア / ウズベキスタン】

【南アジア / インド】

【中東 / シリア】


背後で、残りの魂たちが引いた結果が、次々と空間を染めていく。

だが、時任の耳にはもう、その音は届いていなかった。


レバーに手をかける。

冷たい。だが、驚くほどしっくりと馴染んだ。


「これでお別れだ」

時任は呟いた。誰に言うでもない。あの、自分を捨てた父親と母親にだ。

あんたたちが俺にしたことを、俺は絶対に許さない。けれど、もうどうでもいい。俺は別の人間になって、あんたたちとは何の関係もない人生を、勝手に幸せになってみせる。


レバーを、右へ回そうとした。


その時。

指先に込めた力が、不意に抜けた。


(待てよ)


脳裏に、一つの記憶が、ノイズのように割り込んできた。

それは、父親から殴られた記憶でも、母親に見捨てられた記憶でもなかった。


もっと古い、まだ時任が五歳か、六歳の頃の記憶。


熱を出して、布団の中でガタガタと震えていた夜。

激しい雨が降っていた。外ではカミナリが鳴っていた。

いつもなら居酒屋で泥酔しているはずの父親が、なぜかその日は家にいた。そして、不器用な手つきで、冷たいタオルを時任の額に乗せてくれた。

父親の手は、ゴツゴツして、ひどくタバコ臭かった。けれど、その時だけは、信じられないほど優しかった。


『……強くなれよ、翔太』


父親が、時任の本名を呼んだ。その声は、いつも怒鳴り散らす時のものとは全く違う、ひどく掠れた、今にも消えそうな声だった。


母親は、台所で何かを煮込んでいた。

お世辞にも美味いとは言えない、味の薄い、ただネギが浮いているだけのクタクタのお粥。それを、母親は「ふー、ふー」と息を吹きかけながら、時任の口元へ運んでくれた。その時の母親の顔には、化粧っ気が全くなくて、ひどく疲れて見えた。けれど、時任がそれを飲み込むと、ほんの少しだけ、本当に一瞬だけ、安心したように笑ったのだ。


(なんで、あんなことを思い出すんだよ)


時任は、レバーを握ったまま硬直した。

そんなものは、その後に続いた何年もの地獄に比べれば、砂漠に落ちた一滴の水のような、無意味な一瞬だ。あの二人がクズであるという事実は変わらない。俺を壊したのはあいつらだ。それは絶対に揺るがない。


なのに。


なぜか、視界が歪んだ。

ぽつり、と、レバーを握る時任の手の甲に、冷たい雫が落ちた。


「え……?」


涙だった。

死んだはずなのに。魂だけになったはずなのに。

どうして、今になって、こんなものが流れる。


時任は気づいてしまった。

自分が本当に欲しかったのは、大富豪の親でも、アメリカの市民権でも、恵まれた環境でもなかった。


ただ、あの夜の、タバコ臭いタオルの冷たさと、味の薄いお粥の温かさが。

それだけが、ずっと、ずっと欲しかったのだ。

あの一瞬が、まやかしではなく、本物として続く人生が欲しかった。


「俺は――」


憎んでいた。心の底から憎んでいた。

けれど、それと同じくらい、いや、それ以上に。


俺は、あの二人に、普通に愛されたかった。


その猛烈な、そして二度と叶わない渇望が、時任の胸の奥から溢れ出し、喉をかきむしった。

涙が止まらない。視界が完全にぼやけ、目の前の筐体すら見えなくなる。


「さあ、お引きなさい」

案内人の声が、遠くで響いた。


時任は、涙で濡れた顔のまま、叫ぶようにしてレバーをへし折るほどの力で回した。


ガコン!!


ひときわ大きな音がして、カプセルが転がり出た。

時任はそれを確認する間もなく、台座から溢れ出した圧倒的な光の濁流に、全身を飲み込まれた。


「ああ、あああ――!」


光の中で、時任の二十三年の記憶が、凄まじい速度で剥がれ落ちていく。

父親の暴力の痛み、母親の香水の匂い、バイト先の冷たい床、そして、あの雨の夜のヘッドライト。

すべてが、白い光の中に溶けて消えていく。

最後に残ったのは、あの、味の薄いお粥の温かさだけだった。


(次は、次はどうか――)


祈るような思いも、光の爆発にかき消され、時任の意識は完全に途切れた。


   *


「おぎゃあ!! おぎゃあ!!」


激しい痛みと、息苦しさの中で、彼は大声で泣いていた。

自分の意志とは関係なく、肺が空気を吸い込み、それを絶叫に変えて吐き出している。


視界は、まだ混濁していて何も見えない。

ただ、やたらと眩しい光と、周囲の慌ただしい気配だけが伝わってくる。


「生まれましたよ! 元気な男の子です!」


誰かの声が聞こえる。それは、生前に聞いたどの言語とも違っているようだったし、あるいは、ただの音の塊のようにも思えた。

ここがどこなのか、時任にはわからない。

アフリカの乾燥した大地なのか、アジアの喧騒の中なのか、あるいはヨーロッパの冷たい街並みなのか。

ガチャの結果を見る前に、彼の記憶は消え去ってしまったからだ。時任という名前も、あの白い空間のことも、もう思い出せない。


ただ、圧倒的な「生」の感覚だけが、彼の小さな身体を支配していた。


「よしよし、頑張ったね……」


不意に、彼を包んでいた硬い布ごしに、誰かの両手が伸びてきた。

その手は、ひどく慎重に、まるで壊れやすい硝子細工を扱うようにして、彼を抱き上げた。


温かかった。


肌と肌が触れ合う場所に、じわりと、懐かしい熱が広がる。

その手は、決してゴツゴツしていなかったし、タバコの匂いもしなかった。

けれど、彼を抱く腕の震えと、トントンと背中を叩く規則正しいリズムには、確かな、祈るような必死さが籠っていた。


「私の、赤ちゃん……」


上から降ってきた声は、ひどく掠れていて、疲れ果てていた。

けれど、世界中の何よりも優しい響きを持って、彼の鼓膜を震わせた。


彼――もう時任ではない、名前も持たない新しい命――は、その温もりの中で、なおも大声で泣き続けた。

それは、過去のすべての悲しみを洗い流すための涙のようでもあり、これから始まる、新しい不条理と祝福に満ちた世界への、最初の挨拶のようでもあった。


どこか知らない国の、どこか知らない親の元で。

新しいガチャの景品は、今、確かに開かれた。

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