帰郷編・34『世界の狭間にて』
「世界の狭間?」
【悪逆者】の第11席、犬人族のビベルディオが放った言葉を反芻する。
俺たちが辿り着いたこの場所には、地面も空もなく、重力や光源もなかった。触覚は意識すればある気がするし、かといって意識しなければ体がなくなりそうなほど軽い。
夢の中と言われたほうが説得力があるほど、明らかに異常な空間だった。
ビベルディオは大きく頷いた。
「左様。ここでは神々が定めた法則が不安定で、多くの概念が欠けているようでな。肉体や魂は同じものとして認識され、生命活動をおこなうための要素もない。私の理解が正しければ、世界と世界の合間にあるほんのわずかな間隙。それがここだ」
本当に世界の狭間かどうかはさておいて、確かにどれだけ見渡してみても何もない場所だった。
重力もないのでふわふわと漂ってるだけだから遠くを確かめることは難しそうだが、まともな場所ではないことは確かだ。
せめて普通に歩ければいいんだけど。
「動きづらいだろう。だが安心したまえ、ここでの動き方にはコツがある。重力や地面は存在しないが、足の裏に地面があると信じることで地を蹴ることができるのだ。やってみるがいい」
なぜか親身になってアドバイスしてくるビベルディオ。
気のせいか、敵意よりも好意を感じるぞ。
【悪逆者】の一員ってことは敵のはず……なのに、なんだろう。この不安になるほど穏やかな視線は。
ちょっと鳥肌が立つので、気のせいってことにしておきたい。
「そんなことより、なんで俺たちがこんなところにいるんだ」
「なぜ私に聞くのかね?」
「おまえの仕業なんだろ」
推理する必要もない。犯人じゃなければこうも余裕綽々に説明しないだろう。
ビベルディオは手をパチパチと叩いた。
「ご明察。では私が何をしたか当ててみたまえ。ヒントならいくらでも出そう」
「チョーシに乗るなです!」
鬼塚が見えない地面を三角飛びのように蹴って、ビベルディオのもとへ真っすぐに駆け上がる。
速い。
というか俺はまだふよふよ漂うしかでないのに、もう動き方を習得したらしい。さすが鬼想流の麒麟児。
だがビベルディオの顔面に叩き込んだ鬼塚の拳は、スルリとすり抜けた。
「なっ」
「無駄だ。ここでは暴力など何の意味も持たないのだよ」
「ちっ……厄介です」
すぐに俺たちの元まで戻ってきた鬼塚。
余裕綽々なビベルディオを睨みつけて、
「説明するです! こんな空間、すぐに破ってみせるです!」
「不可能だ。ここには元より固定化された空間という概念はない。距離も広さも、我々の意識がそう見せているだけのようでね」
「勿体ぶるなです。空間じゃないなら、いったいなんの――」
「だから世界の狭間だと言っただろう?」
いつの間にか、ビベルディオが俺たちのすぐ目の前にいた。
光のような速度だった。いや、速度という連続性のある変化じゃない。
まるで転移のように初めからそこにいたような気さえする移動だった。あるいは移動とも言えないのかもしれない。
「ちっ」
「待ってつるぎ」
またも手を出しそうになった鬼塚の肩に一神が手を置いた。
冷静に、ビベルディオに話しかける。
「つまりここは物理的な場所ではないのね? ってことはもしかして私たちのこの体も、本当は形のないものじゃない? 自意識を保つために自分の形をとっているだけみたいな」
「ほう。貴様、相当な慧眼を持っているな。私ですらそれに気づくのに長い時間がかかったというのに」
「長い時間ね……あなた四葉くんの体に入っていた人でしょ。さっきからはたいして時間は経ってないはずなのに、態度も雰囲気もまるで違ってる……もしかして時間の流れも外とは違うの?」
「そうらしい。私も貴様らが来るまで確信は持てなかったがな」
「そう」
じっと考え始めた一神。
頭が良い一神のことだ。何か脱出する算段を立てているのかもしれない。
とはいえ、ビベルディオが俺たちを待っていたというのなら、俺たちがやってくることは想定通りだってことになる。
ここが本当に世界と世界の狭間なのだとしたら、つまり。
「俺たちを元の世界に戻させないのが目的か?」
「その通り。御大の邪魔をする貴様たちを、この永遠の牢獄に閉ざすことが私の目的だった」
やはり。
四葉の体から弾き出されたコイツは、おそらく権能の力を使って魂をこの空間へと戻した。そして本来ならこの空間を越えて戻れるはずだった俺たちを足止めしている、ってことか。
「なら、おまえを倒せば」
「無駄だ。私の仕事はとうに終えている。貴様らにもはや帰路はない」
「誰がそれを信じると?」
「ふむ、確かに信じぬが道理か。ならば順を追って説明しよう」
ビベルディオは、また座禅を組んで語り始めた。
「私が神より授かった権能は『融合』。この力で、貴様らを呼び寄せるため賢者ミレニアたちが構築した儀式陣と融合し、貴様らの世界に魂を送り込んだ。そうして貴様らの友人の体に憑依したのだ。無論その目的は、予言の対象者をすべて殺すためだ」
素直に話し始めたビベルディオ。帰り道がないから、隠しても意味はないと思っているのだろう。
しかし、なるほど。
異世界からどうやって来たのか疑問だったが、ミレニアたちが俺たちのために組み上げた術式を利用したのか。
「結果は貴様らが知っての通り失敗。だがまだ私の運は尽きていなかった。再び魂だけとなった私は、かろうじて魂に繋がっていた術式を辿って戻り、この場所へと行きついたのだ。そして残る力で権能を用い、貴様らの帰路を閉ざして待っていた。とはいえすでに権能は失われ、何もできなくなってしまったがな」
「ただの人に戻ったです? それでよくも余裕な態度を……」
「落ち着け鬼塚。ここで戦っても意味はない」
また飛びかかろうとする鬼塚の腕を掴んだ。
何が起こるかわからない場所だ。少なくとも、挑発まがいの話に乗って動き回ったり、リスクを冒す必要はない。
俺は鬼塚を引き寄せてガッチリと抱えながら、
「その言い方、おまえも脱出しようとしたんだな?」
「うむ。貴様らの仲間はまだ何人か残っているのでな。だが権能を失ったうえ、地脈も通っていないこの場所では、世界を越えるような複雑難解な儀式陣などまず構築不可能。どれほど熟達した術士でも使えたとて初級術式が精一杯だろう。私もまた牢獄に囚われてしまったのだ」
「……確かに、霊素も薄いな」
試しに操ってみたが、ほんの少し操作しただけで霊素が尽きる。
使えたとして召喚法の一部くらいか。世界の壁を突破するのはかなり難しそうだ。
「諦めたまえ。世界の外から誰かが救いに来れたとしてもどれほどかかることか……少なくとも、私たちにできることはない。それより背の低い少女よ、貴様は剣士ナギだな? 私もいっぱしの剣士として、有数の評価を受ける貴様の話を聞いてみたかった」
「知るかです。べーだ」
鬼塚が子どもみたいに俺の後ろに隠れる。
明らかに敵意を向けられたビベルディオだが、何も動じなかった。
「まあ良い。ここには時間だけは飽きるほどある。私も御大のためにと貴様らを憎んでいたはずだが、烈火のような感情はかような場所では続かないものだと思い知った」
悟ったように言うビベルディオ。
随分長い時間をここで過ごしていたらしい。だから俺たちへの悪感情がまるでなくなっていたのか。
「ルルク=ムーテルよ。神秘術士の貴様とも話はしてみたかった」
「おまえも神秘術士だったのか」
「端くれだがな。幼い頃に世話になった者が神秘術士だったゆえ、私もいずれ立派な神秘術士にと幼心に志したのだ。まあ才能は無かったがな」
獣人にも神秘術士がいたのは驚きだ。肉体派の獣人社会では、爆炎のマルケリルのような純魔術士や、神秘術士はかなり珍しいのだ。
同志とは言えもちろん【悪逆者】は明確な敵。それくらいで心を許したりはしない。
「俺のほうはおまえと話すことはないぞ」
「だろうな。だが〝退屈〟とは想像していること以上に、私たちヒトの心を蝕んでいくものだ。憎しみも、愛も、何もかも、そう長くは続かないものなのだ」
「……何年だ?」
俺はビベルディオに問いかけた。
「四葉の体から弾き飛ばされたあと、ここについてから、体感で何年ここにいた?」
「五十年ほどだ」
「……冗談だろ」
信じられない。
なんせ俺がビベルディオを四葉から弾き飛ばしたのは、現実時間ではわずか十分ほど前の出来事だ。
それがこの場所だと、体感で五十年?
なら、ミレニアたちがもう一度俺たちの居場所を見つけ、どうにかしてこの場所に召喚を繋いでくれたとしても、ここで待っていたら何年かかるのか。
たった丸一日で世界の狭間から俺たちを見つけ出してくれたとしても、ここでの体感時間は――
「4800年……か」
気がおかしくなりそうな年月だ。
さらに一日過ぎるたびに、その倍の時間をここで過ごすことになるのか。
この、まったく何もない場所で。
「ようやく状況が理解できたかね、ルルク=ムーテル。まずは思う存分私を憎むと良い。その憎しみの炎が消えていく感覚を味わって、ようやく私の言葉が理解できるだろう。もはや私は御大のためにやり尽くし、この心に憎しみはひとかけらも残ってはいない。さて、貴様もそうなることを静かに待つとしよう」
そう言って、座禅を組んだまま目を閉じたビベルディオ。
悟り切った僧侶のような物言いに少しばかり苛立ちを憶えたが、怒っても仕方ない。
それよりも。
「鬼塚、一神。コイツにできなかったからって、俺たちが諦める理由にはならない。俺たちはまずここから脱出することを目指そう」
「もちろんです」
「……そうね」
感覚的におそらくスキルは使えない。魔素もなさそうなので魔術もムリだろう。
使えるのはわずかな神秘術だけだが、試行錯誤で何か糸口を見つけだしたいところだった。
少しだけ歯切れの悪い返事をした一神が気がかりだが、とにかく動かなければ始まらない。
「思いついたことはどんどん試すぞ。体力の限界とかもなさそうだからな」
「まかせるです!」
俺たちは世界の狭間から脱出できないか、色々と試し始めたのだった――
□ □ □ □ □
俺たちは試した。
動くコツを掴んで、この場所を探し回った。
だがどこまで行っても同じ景色が続いていた。そして意識すればすぐに元の場所に戻ってくる。空間と呼ぶには距離という概念があまりに薄い場所だった。
何か月もかけて出口を探したが、何も見つからなかった。
□ □ □ □ □
俺たちは試した。
一応、薄くとも霊素は繋がっている。
精神を研ぎ澄ませて世界の壁の向こうにいる仲間たちに問いかけようとした。
体感で何か月、何年か瞑想を重ねてみた。
だが、何も起こらなかった。
□ □ □ □ □
試した。
魂も肉体も同一というのなら、ロズとも対話できるかと思って語りかけた。ロズの知恵や発想に頼ろうとするなんて自分の弱さを認めているようなものだったが、サーヤとナギのためにもなりふりは構っていられなかった。
だが何の返事もなく、答えも見つからなかった。
神々の加護を感じることもなく、まるで神々の死角に落ちてしまったかのような感覚だった。
□ □ □ □ □
試した。
思いつく限り。
あらゆることを。
試して。
試して。
試して――――
□ □ □ □ □
長い時間が過ぎていった。
もう千年は経っただろうか。
試行錯誤を繰り返し、変わらない風景の中、この場所から脱することができないか試し続けた。
そして。
「ルルク……ルルクぅ」
最初に耐え切れなくなったのは、鬼塚だった。
朝も夜もないこの空間には、何もない。
俺たち四人以外に誰もいない。
腹も好かなければ喉も乾かない。もちろん眠くもならない。
生命活動が必要のないこの場所では、生きることに対する刺激が、何もなかった。
ただ闇雲に出口を探し、方法を探った。
何も見つからないことは覚悟していた。
だが、それでも。
毎日、毎日、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日……。
ただ何も起こらない日々を過ごすのは、苦痛に満ちていた。
「ルルク……ルルク……」
「大丈夫だナギ。俺はここだ。ここにいるから」
あのナギですら不安に飲み込まれてしまい、赤ん坊のように俺の腕にすがって日々を過ごすようになってしまった。
一神が予想した通り自意識が姿を形づくっていたのか、鬼塚はいつの間にかナギの姿に戻っていた。しかも俺たちが出会うよりも少しばかり小柄な――幼少期のナギのような姿になっていた。
敬愛していた兄様と過ごした日々を思い出してしまったのだろうか。まるで家族に甘える幼児のように、俺にくっついてくるようになった。
ナギをあやし、不安を取り除いてやるのが俺の最近の仕事だった。
まともに脱出方法を探すこともできないが、ナギを放っておくわけにもいかない。
……いや、違う。
本当はもう、できることを思いつかなかった。
先の見えない状況が、俺の心にも重くのしかかっていた。
そんななかで守ると決めた仲間が弱っている姿を見るのは、なかなか心に来るものがある。
不安、迷い、苛立ち。
そう言った感情が湧いてくる。なんて不甲斐ないんだ、俺は。
その焦りが顔に出ていたのか、
「ルルク、大丈夫?」
「あ、ああ」
サーヤが気を遣って声をかけてくれた。
一神の姿もサーヤに戻り、俺もルルクに戻っている。
現実世界ならまだしも、いつ心が破綻するかもわからない世界のなかでは、自分が強いと思う姿を保つのが一番だと、心が勝手にそう解釈しているようだった。
サーヤは幼児退行したナギを心配そうに見てから、俺の頭を撫でてくる。
「ずっとナギの面倒見させてゴメンね。私の近くじゃまだ不安みたいで……」
「気にするな。サーヤも大丈夫か?」
「私は大丈夫。ルルクが近くにいるだけで平気だもん」
気丈にそう言うサーヤ。
とはいえ顔色は悪い。いくら心がしっかりしているとはいえ、サーヤも終わりの見えない日々に精神が蝕まれているはずだ。
「でも諦めないで、きっとなんとかなるよ。私たちが自力で出るのが無理でもミレニアやエルニネールたちがいるしね。みんなを信じましょ」
「そうだな」
確かにそうだ。仲間が、待ってるんだ。
そう考えればまだ耐えられる。
だが、まだ体感で千年程度。
外の世界ではおそらくたった数時間しか経っていない。
ミレニアたちが俺たちを見つけ出すまで、あと何千年、あるいは何万年こうして過ごせばいいのだろう?
終わりの見えない持久戦を強いられているようで、気が滅入る。
「ルルク君」
と、言葉を挟んできたのはビベルディオだった。
意外にもビベルディオはいくら時間が経とうと平然としていた。自らの手で招いた結果だからか、もともとこういったことも覚悟していたからか、あるいは俺たちの様子を見ているがゆえに落ち着いているからか。
どうかはわからないが、千年という体感を過ごしてなおあまり精神に変化はなさそうだった。
人の強さは見かけには寄らない。そう言われている気がする。
「どうしたビベルディオ」
「実は私も子どもがいた身でな。あやすときのコツだが、体にはより安らぐ利き側というものがある。右を下にするか左を下にするかどちらかはわからんが、どちらかのほうが落ち着くものだ。試してみたまえ」
「そうなのか」
言われた通り、ナギの体を反対に向けてみる。
すると左を下にした状態なら少し落ち着くのか、安心した状態で目を閉じた。眠れはしないが、不安がかなり遠ざかるようだった。
俺は息をついた。
「助かったよ」
「気にするな」
短く言葉を交わすと、ビベルディオはまた目を閉じて瞑想に戻った。
ちなみに悔しいかな、長い時間を過ごす中で図らずもビベルディオの言ったとおりになった。
こいつのせいで俺たちはこんなことになっているのだが、千年も過ごしているといつの間にか敵愾心が消えており、友人とはいかないまでも、運命共同体として話し相手になることも多かった。
話してわかったが、ビベルディオは意外にも義に厚い男だった。
俺たちへの敵意が消えても、決して仲間の情報を漏らさなかった。もちろん俺たちにとっては良いことではないが、ビベルディオという男を知るきっかけにはなった。
彼は恩のある頭首やギルティゼアに忠誠を誓い、その目的のために命を賭す覚悟をしたのだという。自分のためではなく、恩人のために人生を賭けることを誓ったらしい。
敵ではあるが、どことなくガトリンを彷彿とさせる筋の通った男だ。
出会い方が違っていれば、きっと友人になれたのだろう。
ただしサーヤは、ビベルディオとは関わろうとしなかった。
近くにいても会話することもなく、黙々と俺とナギの様子を見つつ脱出の機会を探り続けていた。
そうやって、世界の狭間にて先の見えない日々は続いた。
弱ったナギを支える目的がなければ。
サーヤと話して未来に希望を持てなければ。
俺の心はとっくに朽ち果てていただろう。
いまならわかる。
一万年以上生きていたロズが、終わりを求めるようになった気持ちが。
だが、それでも。
俺たちは、諦めるわけにはいかなかった。
仲間たちが待っている。
そう思うだけで、どこまでもがんばれる気がした。
□ □ □ □ □
もはや何年経ったかわからなくなったとき。
世界を通り過ぎる何かが、この狭間をかすめた。
別段大きな変化があったわけじゃない。
だが、ほんの些細な変化――霊素がほんのわずかに増した。
とはいっても、使える術式などほとんどないに等しかった。
世界の壁を越せるほどの神秘術なんてそう簡単には使えない。
例えるなら、乾ききった喉を潤したいのに、砂漠に降ってきたのはたった一滴の水だった――そんな些細な変化だった。
その変化にはすぐに気付いたが、俺の鈍い脳味噌では、その変化をチャンスだと捉えることはできなかった。
期待外れの変化に肩透かしを食らって、何もせずに終わるところだった。
――だがサーヤは違った。
「来た!」
その変化をずっと待っていたかのように。
虎視眈々と、何千年も待ち続けていたかのように。
弾けるように動いて、霊素をかき集めた。
手が届く範囲のすべての霊素を操り、術式を練り上げて。
そして。
「装備召喚っ!」
一本のペンを、その手に召喚したのだった。




