帰郷編・33『故郷にさよならを』
今度こそ、すべての危機が去った。
いくつもの世界線を越えた零の努力はついに実を結び、俺たちの運命は大きく変わった。
三年二組の生徒たちは全員無事で、萌々香も零も傷痕ひとつ残っていない。
これ以上ない結果だと言えるだろう。
そう安心していたら、俺の足元で霊素が活発に動き始めた。
俺と、一神と、鬼塚の足元で複雑な術式を紡ぎ始める。
その動きが意味するものはただひとつ。
「七色くん!」
「ああ。そろそろみたいだな」
ついに仲間たちが俺たちを召喚するのだろう。どこからか、俺たちを呼ぶ声が聞こえた気がした。
一神が鬼塚の手を引っ張って、俺のすぐそばにやってきた。霊素が視れない鬼塚でも何が起こるのかは察しているようで、少しだけ不安そうに俺の服をチョコンと掴んできた。
そして零はもとより、憐弥も何が始まったのかわかっているらしい。
寂しげに語りかけてくる。
「七色、やっぱり向こうに戻っちまうのか?」
「ああ。やりたいことがたくさん残ってるからな」
「そうだよな……あーあ、お前ともっと仲良くしてりゃあ良かったぜ」
「俺もだ。こっちに残った俺も同じように思うかもしれんから、そのときは仲良くしてやってくれ」
「わかった。ならこれからもよろしくな、七色」
憐弥は笑った。
少なくとも憐弥には、あっちの世界の記憶が残り続けるだろう。
この世界で生きていれば到底経験することのできないような思い出が、この先の人生の糧になってくれることを祈ろう。
五百尾憐弥の帝王にまで登りつめた波乱万丈な異世界での物語は、ここに完結したのだ。
悲願の故郷に戻ることができたいま、もう二度とあの世界に足を踏み入れることはないだろう。
ぜひともこの平和な国で、恋人の綿部と幸せになってくれ。
「楽、もう行くのだな」
零がひとつ咳ばらいをした。
車椅子で居住まいを正して、俺を見上げてくる。
俺は頷く。
「悪いな零。時間切れだ」
零とは色々と積もる話はあったのだが、どうやらその時間は残っていないらしい。
「そうか。できることなら神秘術の話をもっとしたかったがな」
「こっちの俺にも記憶が残ってたら、思う存分話せるさ」
「そうだな……。だが記憶がどうなろうと君は君だ。僕は、君を救えたことを誇りに思う」
「ああ」
俺と零は握手を交わした。
幼い頃からずっと一緒にいた友人と、過去一番長いあいだ手を握り合った。
異世界に戻る俺にとっては、零とはこれが金輪際の別れになる可能性が高い。
いままでもたくさん言いたいことはあったし、気恥ずかしくて言えないことも多かった。
だが、別れの言葉くらいは素直に言おうと決めていた。
「いままで本当にありがとう。俺も、おまえを誇りに思ってるよ」
「うむ」
握手を解く。
心残りがないと言えば嘘になる。零は俺にとってたったひとりの親友だった。
知り合いや友人と呼べる相手が増えたいまでも、零は特別なのだ。
もし立場が逆だったなら、きっと俺も、零を失わないように奔走していただろう。
難病を抱え、長くは生きられない体で生まれた幼馴染。だがそのハンデを感じさせないほどバイタリティに溢れていたすごいやつだ。
「そうだ零。絶対長生きしろよ」
「無茶なことを。だが……色々と試してみるとしよう」
どの世界線でも俺たちを助けることを優先し、自分の寿命を延ばそうと努力はしなかったようだが、これからは自分のことにも目を向けてくれるはずだ。
独力で異世界転移の儀式まで成し遂げた天才だ。きっと、不可能じゃないだろう。
それに孤高の天才はもう一人ではないのだ。三年二組の仲間たちや萌々香が、これから支えてくれるだろう。もちろんこっちの俺もいる。一神も、鬼塚も。
「本当に元気でな」
「何を感極まった顔をしている。まだ一人、別れを告げなければならない相手がいるだろう」
そう言って俺の後ろに視線を投げかける零。
そこにいたのは、言うまでもなく萌々香だった。
「七色先輩、ありがとうございました」
萌々香も右手を差し出してきた。
俺は頷いてその手を握る。小さな手の奥に熱く強い想いを感じた。
「たくさん助けていただいてありがとうございました。先輩を遠くから眺めてるだけでも毎日が楽しかったのに、こんなに先輩のことを知れるなんて……三日前のわたしが聞いたら、驚いて卒倒しちゃうかもです」
「俺も驚いてるよ。色々あったけど、萌々香と仲良くなれて本当に良かったと思う」
前回の萌々香のことだけじゃない。
心優しく、愛情深い萌々香は世界が変わっても何も変わらない。
俺はそんな萌々香に救われたんだ。もし他の記憶が消えてしまっても、これだけはこっちの俺の魂にも刻みつけておくつもりだ。
全身全霊をかけて俺を救ってくれた少女のことを、決して忘れるなと。
俺の決意を感じ取ったのか、萌々香は恥ずかしそうに笑みを浮かべながら手をギュッと握り返した。
「わたし、がんばりますね。もうひとりのわたしに負けないくらい、がんばってみせます」
「ああ。でもがんばりすぎないようほどほどにな」
「ほどほどじゃダメです。誰もが認めるくらいに努力して、わたし自身の手で最後の瞬間まで笑っていられるような人生を掴みたいから……だから」
萌々香が、俺の手を強く引っ張った。
不意を打たれて前のめりになる俺。
その頬に、萌々香が背伸びしをして口付けた。
フワリとした甘い香りと柔らかい感触が、頬に残る。
一瞬呆気にとられたが、周囲で見ていたクラスメイトたちの色めき立つ声に気づいて、我に返った。
「萌々香……」
「こ、これくらい覚悟があるってことです」
顔を真っ赤にした萌々香は、長い前髪の隙間から綺麗な瞳を煌めかせて、強い口調で言った。
「先輩がわたしのことを気にかけてくれる理由はわかってます。でも、いつかきっと、先輩のなかにいるもうひとりのわたしより、いまのわたしが大きくなりたいんです。一神先輩や鬼塚先輩もライバルですけど……何より、わたし自身に負けたくないんです」
自分自身へのライバル宣言だった。
俺にとっては前回の萌々香もいまの萌々香も同じ萌々香なんだけど、萌々香にとってはなぜか恋敵になるようだった。
「こっちの俺も、ちゃんと君のことを大事にしてくれたらいいんだけどな。思い出してみたら、自分の気持ちを素直に表現できないガキだったと思うし……」
「大丈夫です。わたしにとってはどっちも同じ七色先輩ですから」
「いや、しかし」
「先輩だって言ったじゃないですか。どっちもわたしだって。だから先輩も、どっちもわたしが好きになった七色先輩なんです」
ああ、そうか。
世界線が変わっても俺がどんな萌々香も萌々香だと思うように、萌々香もどんな俺も俺だと思っているのか。
それなら、これ以上言うのは野暮だろう。
「わかった。なら俺は君に恥じない先輩であり続けられるよう、がんばるよ」
「はい。これからもよろしくお願いします。どんな先輩でもいつか振り向いてもらえるよう、これからがんばります」
「お、おお」
ペコリと頭を下げる萌々香。
ここまで何度もストレートに想いを告げられたら、さすがに背中がむずがゆく感じるのは否めない。
俺は頬をかきながら曖昧な返事をしてしまった。
そんな俺の脇腹を肘で殴ってきたのは鬼塚。
「最後の別れくらいシャキッとするです。内向的な前髪娘がこんな大勢の前で言うなんて、どれだけの勇気を振り絞ってるか、もう少し考えてやるです」
「痛っ……ああ、そうだよな」
俺は今度は目を逸らさずに応える。
「萌々香」
「はい」
「もし……もしこっちの俺が不甲斐なくて、君が努力しても幸せになれない未来があったとしたら、君が涙を流してしまう未来になったとしたら……俺がどれだけ遠い世界にいたとしても、俺は君を救いに戻ってくるよ。何度世界を越えてでも、俺はきっと君を笑顔にするために戻ってくる」
いまの俺にとっての一番は、あっちの世界にいる仲間たちだけど。
萌々香も、同じくらいに大事になってしまったから。
「だから安心して、前に進んでくれ」
「はいっ!」
ガラにもないことを言ってしまった気がするが、紛れもなく俺の本心だ。
するとナギが歯をギリギリと噛みしめていた。
「て、敵に塩を送ってしまったです」
「あら。つるぎも萌々香ちゃんを応援したんじゃないの?」
「これで最後の別れだと思ったからです。まさか世界を越えるなんて言い出すとは……」
「いいじゃない。七色くんの幸せが増えたってことでしょ?」
「あずさは達観しすぎです」
「達観じゃないってば」
「……じゃあママみ?」
「ママはやめてっ」
俺の隣で小声で言い合う二人。
一神のママみについては一考の余地はあるとして、だ。
俺たちの足元にある霊素も、そろそろ召喚が発動するまで形づくられてきたようだ。俺の目にもあと十秒もないことがわかる。
するとそれまで傍観していた九条が話しかけてきた。
「ねえ七色」
「なんだ九条」
「あずさとつるぎのこと、頼んだよ」
短い言葉だったが、その中にある想いは明瞭だった。
九条も途中から察したんだろう。魔物の大群と対峙しても躊躇わなかった一神や鬼塚を見て、いまここにいる親友の二人が、昨日までの二人じゃないってことに気づいた。
そしていまから元の場所に――魔物が蔓延る世界に、戻っていくことも。
そりゃ親友として心配もするだろう。
だから俺は迷わない。
「ああ。こいつらは俺が絶対に守る」
まだ言い合いしていた二人の頭を撫でると、二人ともキョトンとしてから、九条に視線を向けて手を振った。
「またね愛花。元の私に戻るかもだから、フォローよろしくね」
「つるぎは何も変わってないですが。ま、元気でやるです」
「うん。あんたたちも元気でね」
三人はしばし見つめ合い、別れを済ませていた。
霊素の光が強くなり、もはや足元だけじゃなく俺たちの全身を包んでゆく。
転移直前のフワリとした感覚に似た何かが、一瞬だけ全身を駆け巡った気がした。
光に包まれていくそのなかで、最後に見えたのは萌々香の表情だった。
萌々香は満面の笑みを浮かべながら、その瞳の端から一筋の涙を落とした。
「さようなら……七色先輩」
ああ、さようなら。
さよなら。
愛すべき多くの物語を生んだ世界よ。
そして、友人たちよ。
そんな言葉を口にする間もなく、俺はこの世界を去ったのだった。
七色楽としての人生に、別れを告げて。
■ ■ ■ ■ ■
世界は往々にして、思いもよらない偶然を重ねる。
それが幸福を運ぶこともあれば、不運となることもある。
ゆえに運命は予想がつかず、未来を見通すのはとても難しい。
もしその複雑に絡み合った運命を紐解き、望んだ結果を手繰り寄せられるとするなら、それは運命を操る神と言えるだろう。
しかして、神とは何か?
明確な定義があるかどうかは別として、神とは何を以って神と成るのだろう。
その答えのひとつは、概念である。
概念とは厳正たるルールであり、絶対性である。
太古からその法則そのもの――あるいはそれを司る存在を神と呼んできた。
神は人ではなく、人もまた神ではない。
そこには隔絶した違いが存在しているのである。
だが、もしも。
もしも神となり得る存在が、人の身に生まれてこの世にいるとするならば。
多くの偶然や奇跡が重なりそんなモノが在ったとするならば。
その者自身にとって、それは幸福なのだろうか?
あるいは不運なのだろうか?
それこそ、神のみぞ知ることかもしれない。
□ □ □ □ □
――ふと、目が覚めた。
冒険者になってから、かなり寝覚めが良くなった自覚がある。
寝起きにぼんやりすることもなければ、記憶が曖昧になることもない。
召喚される直前の記憶はハッキリしているし、日本に別れを告げたこともついさっきのように憶えている。
俺の予想だと、召喚されたらそのまま仲間たちの元に召喚されると思っていた……のだが。
目の前に広がった光景は、まったく想像もしていないものだった。
「なんだここ?」
地面がなかった。
それどころか空もなければ、雲もない。もちろん太陽や星々も存在しない空間だった。
だが真っ暗というわけでもなく、光源もない不思議な空間。
水中に漂うような感覚の無重力な場所で、俺は浮かんでいた。
どこだここ。また夢の中だろうか?
そう思ったが、霊素があるから違うだろう。ただし薄くて頼りない程度だ。
霊脈も近くには感じられない。
意識がハッキリしているから夢ではないだろうが、明らかにおかしい光景だった。
「おい起きろ、二人とも」
「ん……」
隣で漂う一神と鬼塚をゆする。
触れた感覚はあったが、それもかなりぼんやりとしたものだった。
もしかして、まだ魂なのか?
誰かの魂の器の中に――と一瞬考えたが、それも違う気がする。肉体と魂の中間にあるような、そんな曖昧な感覚なのだ。
肉体でもなければ、魂でもない。
そんな状況、起こりえるのだろうか?
どんどん湧いてくる疑問に少しだけ焦りながら、眠りこけている二人を起こそうとしていると、ふと声が聞えて来た。
「ようやく来たかね」
「誰だ!?」
声をした方に顔を向ける。
少し離れた場所に座禅を組んで浮かんでいたのは、
「……獣人?」
犬耳の生えた男だった。
見覚えがあるようなないような顔だ。見たことがあっても、チラリと見かけた程度の相手だろう。
少なくともあっちの世界でも深く関わった相手じゃなさそうだ。
その犬人族の男は、俺をじっと見降ろして何度か頷いた。
「やはり。我が魔物たちを容易く退けた異界の戦士は貴様の姿だったな。あれほどの神秘術士の心当たりは一つしかなかったが、ようやく答え合わせができた。やはり貴様が〝神秘の子〟ルルク=ムーテルだったのだな?」
俺のことを知っているのか。
何者かはわからなかったが、この口調、その物言い。
まさか。
「四葉の体に入ってたやつか!?」
「左様。此度は本来の姿で挨拶申し上げる」
犬人族の男は、わざとらしく丁寧な口調で言った。
「私は【悪逆者】序列第11位、ビベルディオ。貴様らがここに来るのをいまかいまかと待ち詫びていたぞ。色々と聞きたいことがあるだろうが、まずは歓迎しよう。ようこそ永遠の牢獄――世界の狭間へ」




