誰にも届かなかった「ごめんね」
十一月に入り、山から吹き降ろす風は氷のように冷たさを増していた。
アリスは革鞄のポケットに入った一通の手紙を前に、途方に暮れていた。
その封筒は、長年の月日に晒されたかのように黄ばみ、角がボロボロに擦り切れていた。
さらに困ったことに、雨に濡れたような痕跡があり、宛名欄の文字が大きく滲んで判別不能になっていたのだ。
「坂の……あ……の……様へ」
解読できるのはそれだけだった。
差出人の名前はもちろんない。
郵便屋として、宛先の分からない手紙を持ち続けることは、胸を引き裂かれるような苦痛だった。
誰かが誰かを想って綴った大切な言葉が、迷子になったまま届かないのだから。
アリスはすっかり陽の落ちた街を彷徨い、坂道の途中に灯りを点す古道具屋「黄昏堂」へと足を運んだ。
ガラス越しに見える店内には、古時計やランプ、古い本が所狭しと並んでいる。
「おや、見習いのお嬢ちゃん。そんなに暗い顔をして、どうしたんだい?」
カウンターで古い時計の歯車を調整していた老店主が、眼鏡を押し上げて声をかけた。
アリスが事の経緯を話し、滲んだ手紙を見せると、店主はピンセットで手紙を慎重に受け取り、拡大鏡でのぞき込んだ。
「ふむ……この独特の文字の癖、インクの滲み具合……間違いない。これは三十年も前に亡くなった、この街の古い詩人・セルバンさんの文字だね」
「詩人さん……? では、この手紙は三十年も前のものなんですか!?」
「ああ。セルバンさんは気難しい男でね。若かりし頃、喧嘩別れした親友に謝りたいと言いながら、ついに素直になれず、手紙を投函できないままこの世を去ってしまったんだ。きっと、その親友も遠い昔にこの街を去ってしまったのだろう」
店主は静かに首を振った。
受取人もおらず、差出人もすでにこの世にはいない。
完全に『届かない手紙』だった。
アリスは手紙を胸に抱きしめた。
冷たくなった封筒から、微かに掠れた古紙の匂いと、拭い去れない悔恨の気配が伝わってくる。
「いいえ……届かないなんてことはありません。想いは、きっと届きます」
アリスは古道具屋を飛び出し、街で一番高い丘の頂上へと駆け上がった。
そこからは、漆黒の夜空と、遠くで眩たく街の明かりが一望できた。
アリスは震える手で黄ばんだ封をしずかに解き、月光の下で手紙を広げた。
『風よ、私の代わりにこの声を届けておくれ。
意地を張り、あなたを傷つけてしまった愚かな私を許してほしい。
言えなかった「ごめんね」と、共にあってくれた日々への「ありがとう」を。
あなたがどんなに遠い場所にいても、この想いが一筋の光となってあなたを包みますように』
アリスは溢れる涙を拭いもせず、澄み切った秋の夜空に向かって、手紙の言葉を声の限りに読み上げた。
彼女の声は冷たい秋風に乗り、夜の街へ、遠くの海へ、そして星々の瞬く天空へと解き放たれていった。
その瞬間、街中の木々が一斉にサワサワと葉を揺らし、まるで世界全体が三十年越しに届いた「ごめんね」を優しく受け止めたかのように、静かな安らぎに包まれたのだった。




