番外編 局長さんの若いころ
山頂に立つ夕焼け郵便局の局長室の壁には、退色した一描の油絵と、すっかり皮の表面が乾ききった青い革鞄が大切に飾られている。
五十年前、まだ夕焼け郵便局が建てられたばかりのころ。
現在の局長・エドワードは、「青いかばんの青年」と呼ばれる若き郵便屋だった。
長身をなびかせ、どんなに険しい山道であっても飛ぶように駆け抜ける彼は、仕事に人一倍の情熱と誇りを抱いていた。
しかし当時の彼は、「手紙とは一刻も早く宛先へ送り届けるべき荷物である」と信じ込み、効率と正確さばかりを追い求めていた。
手紙に込められた差出人の吐息や涙の重みなど、考える余裕すら持っていなかったのだ。
ある年の十一月、季節外れの大嵐が街を襲った。
雨は滝のように叩きつけ、山道は濁流となって削られ、木々は激しく悲鳴を上げていた。
そんな極限の状況の中で、青年に一通の手紙が託された。
宛先は、山頂の先にある孤立した古い療養所。
「こんな嵐の中を行くのは無謀だ! 明日にしなさい!」
と周囲の制止を振切って、青年は青い革鞄を抱えて飛び出した。
彼の頭にあったのは「配達の遅延は郵便屋の恥だ」という頑ななプライドだけだった。
道中でぬかるみに足を取られ、膝を強く打ち、爪先からは血が滲んだ。
それでも青年は走り続けた。
途中で強風に煽られ、鞄の金具が弾け飛んだとき、彼は反射的に自分の上着を脱ぎ捨て、手紙を自らの体温で包み込むようにして抱きかかえた。
全身傷だらけになり、寒さで唇を紫に染めながら辿り着いた療養所の扉を叩いたとき、青年は限界を迎えて膝から崩れ落ちた。
迎えたのは、ベッドの上で蒼白な顔をした幼い少女だった。
青年が命がけで守り抜いた手紙を差し出すと、少女は手紙を胸に抱きしめ、ぽろぽろと涙を流した。
『ありがとう、若い郵便屋さん……この手紙にはね、遠く離れたお母さんからの「愛している」が書かれているの。私、病気で負けそうだったけれど……この手紙のおかげで、明日も生きていける』
少女の言葉と涙に触れた瞬間、青年の胸の中にあった「誇り」という名の傲慢さが、音を立てて崩れ去った。
手紙とは、ただの紙切れではない。
運んでいるのは文字の形をした「命の光」なのだ。
自分が命がけで渡したのは、少女が明日を迎えるための希望そのものだったのだと、青年は雨の音の中で初めて知ったのだった。
青年が老いて局長となった今も、あの時ずぶ濡れになりながら守り抜いた青い鞄は、郵便屋としての原点を忘れないための宝物として、静かに壁で見守り続けている。




