帰るための一歩
有馬透の脳内に、冷たいミントを流し込んだような感覚が静かに広がっていた。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、さっきまで胸を締め付けていた絶望は、少しだけ遠ざかっていた。
脳の片隅で、無機質なシステムが『認知耐性パッシブ:微弱発動』と告げた気がした。
透はふぅと溜め息ともつかぬ息を吐き、初めて周囲の「風景」をまともに眺める余裕を取り戻す。
「………………」
そこは、普通の世界の草原などではなかった。
冒険者ギルド。Fランクのギルドカード。
そんな記憶だけは妙にはっきり残っている。さっきまで歩いていた場所は、森だったようにも思える。
だが今振り返ると、その景色は一枚の薄い膜を隔てて、二つの世界が折り重なっているような不思議な空間だった。
空の色はどろりとした紫色と水色が継ぎ接ぎのように混ざり合い、地面の草は視線を外すたびに、まるで生き物のようにユラユラと別の形へ変化している。
――有馬透にとって知る術もなかった。
ここが【M001(ルル)の観測点】。
世界を認識するために作られた、高次元存在の「出先機関」とも呼ぶべき場所であることを。
空間そのものが歪み、現実の物理法則がまともに機能していない。
普通の人間の精神なら一瞬で狂い落ちる場所。だが、透は生きていた。
背後でヌルヌルと蠢く、二つのモザイクの塊を見おろす。
M001の無数の眼球が、じっと透を観察している。周りを警戒しながら守るようにカサカサカサと歩調を合わせ、風が透に当たるたび、眼が紅く点滅を繰り返す。
M002の柔らかい触手が、透が寒がらないように微弱な熱を放ちながら、つかず離れずの距離でゆらゆら揺れている。たまにくねくねと腕を伸ばし、温かなスポーツドリンクのような味の飲み物を渡してくれた。
彼らは不気味だ。正体もわからない。
だが、はっきりと理解できたことがある。
(この“ひとたちは”……俺を助けるためにここにいる)
だったら、進むためにやるべきことは一つだ。
「……えっと」
手が微かに震えている。
拳をグッと握り締め、ゆっくりと深呼吸を一つ――白くなった指先を静かに開いた。
有馬透は、モザイクの塊に向き直り、その「中心」をじっと見据えた。
「俺の名前は、有馬透といいます」
「家に帰りたい」
まっすぐに想いを口にする。
「だから……俺に力を貸してください」
深々と頭を下げて頼み込んだ。
それは奇妙な信頼関係の誕生であり、同時に彼の「生存戦略」の幕開けだった。
透の宣言を聞いた瞬間、二柱のモザイクが激しく明滅した。
無数の色彩片が生き物の細胞のように蠢き、歓喜を示すと言わんばかりに波打ち――空間そのものへ淡い燐光を流し込んでいく。
【システム通知】
パーティー編成を確認
パス構築開始……完了
しばらくして、生命の鼓動を思わせる波が収まると、歪んでいた空間の端に、映画のスクリーンを切り取ったような巨大な「裂け目」が現れた。
向こう側には、こちらとは違うありふれた陽光が射し込んでおり、緑の森が見える。
あそこを越えれば、まともな領域なのか?
(今までいた場所も、森だと思ってた)
(……でも、違う。あれは森の形をした『何か』だったんだ……)
光に向かって透が歩き出そうとした、その時。
裂け目の向こうから、野生の魔物数匹が牙を剥いて飛び出してきた。
透が身構えるより早く、M001の多節棍のような脚部が無音で跳ね上がる。
「(――アリマサマ!)」
脳内に直接、鼓膜が震えるような大音量の念波が響き渡る。
モザイクの身体が、マッハの速度で美しく、そしておぞましく躍動した。
ベギィ!!
飛び出してきた魔物たちを一撃で弾き飛ばす。
「(フフ……♡)」
脳内に響く不穏な笑い声。
さらにM001は追撃を加えるように動く。
ドガッ!!
(チラッ/チラチラ明滅するモザイク)
バキィ!!
(チラッ/こちらを見る無数の目)
ボゴォ!!
(チラッ/「私、活躍してますよ」アピール)
(………………)
「(トドメ……デスワ♡)」
無数の節が一斉に展開する。
(……あ、このパターンって……!)
ゴォォォォッ!!
――どろりとした空を焼き尽くすような閃光。轟音。爆音。
魔物どころか、その背後に広がっていた森まで跡形もなく吹き飛んだ。
静寂。
透はゆっくりと口を開き……そして、静かに閉じた。
(……こいつ……またやりやがった!!)
出口の向こうは、草木一本生えていない見事な更地と化していた。
(森がない……草すら生えてない……)
モザイクのかかった無数の目が、じーっとこちらを向いている。
『褒めて』と言わんばかりに。
(………………)
透は引きつった笑みを浮かべ、パッシブスキルのおかげで辛うじて保たれている理性を総動員して、全力でツッコんだ。
「オーバーキルだから! 空間ごと消し飛んでるから! ……ラノベの勇者かっ!!」
焼け焦げる臭いが、更地から吹き込んできた。
「……絶対に褒めないからね!!」
――パンッと自分の頬を叩き、深呼吸をして前を向く。
有馬透は、帰るための最初の一歩を踏み出した。
その左右には、世界で最も奇妙で、そして誰よりも頼もしい二柱のモザイクが寄り添っている。
まだ彼は知らない。
世界そのものを揺るがす旅の始まりになることを。
―― 第一章『境界の向こう側へ』 完 ――




