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第9話 奪う手、差し出す手

「そして、お前らが侵入したこの土地の領主だ」


 為政者の落ち着いた声が、大きさ以上の意味を持って夜陰に響く。


 エリザベートがさらに一歩、前に出る。

 護衛としての仕事を思い出したのか、さすがに止めようと身じろぎをするガレスの気配を後ろ手に制する。


「お前たちの名前をあらためて聞いても?」

 美貌の領主から放たれたその問いに、集団の先頭に立つ男は一瞬だけ迷い──


「……さっきレオンとかいう奴が言ったとおり、頭をやっているオスカーだ、そして、こいつが副官のシエル」

 それは、意外なほど素直な返答だった。

 オスカーの脳裏にいつもこびりついて離れなかった霧が少しだけ晴れたように思えて、なぜか真っ直ぐに答えないといけない気がした。


 二人のやり取りを、エリザベートの隣りにいつの間にか寄り添って聞いていたレオンが、当たり前のように頷き、戦場になるはずだった場所で、上質な装丁の帳面に忙しなく何やら記録している。


「オスカー。では提案です」

 顔を上げたレオンがもう一度、視線を合わせる。


「あなた方の損失を、減らします」


 その言葉に、オスカーの眉が大きく動いた。


「奪うのではなく、“組み込まれる”形で」

 静かな声。

 だがそこには確かな自信がある。


「……レオン」

 エリザベートの整った唇が、低く名を呼ぶ。


 相変わらず剣を抜いてはいない。

 だが、その声、その存在だけで場の重さが変わる。


「ちゃんとわかるように説明しろ」

 その声には、ごくわずかな笑みが混じっている気がした。


「はい」

 レオンはエリザベートの方を振り返ることなく、オスカーとシエルに向けて答える。


「彼らはこの土地にとって、敵にもなりますが、味方にもなりうる明確な“未活用の力”です。この何もかも足りない辺境の地で活用しないことは、取り得ない選択肢だと考えます」


 その一言に、エリザベートの目がわずかに見開かれる。


「使わないのは、あまりにもったいない。この領にとって大損失です」


 オスカーが、ゆっくりと笑った。大きくはないがよく通る笑い声。

 その笑みには、長く背負ってきた重荷がわずかにほどけた気配があった。

 

 そして、今度ははっきりと。

「レオンと言ったか……面白いな、お前」


 その目に、わずかな変化が生まれる。

 敵意ではない。

 純粋な興味。

 

 そして──

 可能性。未来。変わる予感。

 

 もう一度大きな声で笑うと、シエルを、部下たちの方を振り返り、満面の笑みで伝えた。

 「今日で茨の聖域は解散だ」



 いつの間にか薄くなっていた雲の裂け目から、うっすらと月光が差しこんでくる。

 一歩間違えればすぐに血が流れる、戦場となり得た場所が青白く照らされる。


 緊張と弛緩が入り混じる中で、レオンはただ静かに立ち、いつも通りの口調で穏やかにオスカーとシエルと話を続ける。

 構成員の名前を聞き、顔を把握し、得意なことを尋ね、為人を測り、エリザベートに不足がないか確認し、いつものように記録する。

 

 彼が来てから毎日見られる日常の光景がそこにある。


 ガレスとサラは、並んでその背中を見ていた。


(こいつは)(この人は)


 理解はしているはずだ。

 今起こり得た危険を、損失を。


 それでも、前に出る。


(……本当に)


 その選択は──

 正しいのか。

 まだ見ぬ未来の答えは今は出ない。


 だが一つだけ、確かなことがあった。

 彼が来てからずっと、そうこの瞬間も、この領地は、確実に変わり始めている。



 黄昏れ時からどれくらいの刻が流れたのか、青白い月が照らす世界では人の営みが静まり、獣たちの支配する時間――“獣の世”が始まる。

 遠くで魔獣なのか獣なのか、遠吠えに似た何かが微かに響く。


 交渉というものは、成立した瞬間に終わるのではない。

 むしろ──そこからが始まりだった。


 物理的な心理的な様々な混乱の中でなされた『茨の聖域と呼ばれる集団の取り込み』は、血を流さずにその場を収めるという意味で、確かに一定の成果をもたらした。


 だがそれは、あくまで“衝突を先送りした”に過ぎない。不要な火種を抱えたともいえる。


 本当の問題は、その後に顕在化する可能性が高いからだ。

 領主が認めたとして、フォルスワーグ領での被害が鏃の刺さった積荷だけだとして、それでも、誰が、どこまで、何を許容するのか。

 その線引きが曖昧なままでは、いずれ必ず軋みが生じる。


 そして──

 その軋みは、思っていたよりも早く表面化した。

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