第10話 綻びと選択と
翌朝、空は重く濁っていた。
大陸の北西端にある辺境の地では当たり前の晩冬の空。
澄みきった青とは対照的に、低く垂れ込めた雲が光を遮り、地面に落ちる色彩を一様に鈍らせている。
湿った風が吹き抜け、まだ乾ききらない泥をかき混ぜるようにして、どこか憂鬱な匂いを広げていた。
いつもと変わらない雲の下、街道の一角では奇妙な光景が広がっていた。
荷車の列の近くに、兵士と──そして装備が不揃いな若者が並んで立っている。
完全な混成ではない。
距離がある。
明確な線が引かれているわけではないが、互いに踏み込まない空間が存在している。
その集団の前に、レオンがいた。
濃い灰色の髪と漆黒の瞳をした青年。
相変わらず帳面を手にしながら、順に視線を配っている。その表情は、視線の先のぎこちなさに比べて、明るく穏やかだった。
「今朝お伝えしたとおり、本日から暫定的に皆さんの役割を分けます」
声は変わらず落ち着いている。そして、その内容は明確だった。
「護衛、監視、補助、そして警戒の四つです」
レオンの視線が少し離れた場所に立っていたオスカー・レビンとシエル・バイスへ向く。
そこにはいまだに戸惑いを隠せない、深い灰色と青色の瞳が二つずつ。
「あなた方、元『茨の聖域』の皆さんには、まずは街の外縁の警戒を担当していただきます」
一方、領の兵士たちを率いる隊長でもあるガレス・ヴァレンタインの深緑の瞳にもまた、戸惑いの色があった。
枯れた色気と威圧感が同居する長身の男は、かつて美青年だった面影を残した顔に無表情を作り、腕を組んだまま、ずっと沈黙を保っていた。
その背後で、サラがわずかに眉をひそめる。
「……信用するのですか?」
物言わぬ兵士たちの視線が集まる。
珍しく低い声で発せられた、物資運搬の責任者でもあるサラ・レンドルの問いは、誰に向けたものでもないようでいて、確かに場全体に投げられている。
レオンは即座に答えた。
「完全にはしません」
相変わらず落ち着いた、しかし、場全体に聞こえる音量の声。
その言葉に、兵士の何人かが小さく頷く。
同時に、不揃いの若者たち、元『茨の聖域』側の空気がわずかに硬くなる。
「ですが」
レオンは声音を変えず当たり前のように続ける。
「役割を持たない状態よりは、明確に位置づけた方が損失は減ります。効率的になり、疑念の生まれる余地が狭まります」
そこにあるのは、合理的な説明。
だが、それだけでは足りない。
この場にいる人間たちにかかわらず、人は理屈だけで動くわけではない。魔獣や獣よりも、よほど感情で動くのが人間という生き物だ。
「報酬は、なぜその金額なのかを説明できるように、感情に左右されない“記録”で支払います」
帳面を軽く持ち上げ、笑顔で続ける。
「目立つ成果だけを記録するつもりはありません。与えられた役割を地道に行うこと、困っていた誰かを助けること、そして助けられたことを、オスカー、シエル、ガレス、サラがしっかり見て、私に報告してもらいます。」
名前を挙げた四名の顔へ順に視線を送る。
「ちなみに、組み合わせは、オスカーとサラ、シエルとガレスです。だって、その方が偏りがなく、平等で合理的、損失がないですから」
レオンにしては珍しく、楽しみや期待の色が少し混ざった声。
「もちろん四人は、私に報告する前、記録に残る前に、対象者である皆さんへ内容を確認します。事実と異なっていれば、反論することも罪には問いません」
その具体性が、場に変化をもたらした。
そもそも、この国に、これまでの人生にそんな評価方法は存在しない。
大多数の平民は、雇われる側で一生を終える。
雇い主の、親方の、隊長の、好き嫌いで評価や報酬が決まり、そして貴族の機嫌で人生が変わる。
レオンの話は、できもしない甘い誘惑にありがちな、曖昧な約束ではない。
実直に頑張ってきた兵士たちはもちろん、今まで搾取されるだけだった若者たちの労苦が、これからは形になる可能性があるのだ。
過去ではなく、今の努力を見てもらえる──それは虐げられてきた者たちにとって、確かな希望だった。
それでも──
「……所詮盗賊だったやつなんて、信用できるか」
兵士の一人が呟く。
レオンの言葉を必死に咀嚼しようとする空気の中で、その波紋は驚くほど明確に広がる。
中年の男だった。
名はドーガン。
この領地で、エリザベートの父親の代から長く兵士として働いてきた男だ。
ドーガンには、かつて家族がいた。いるのではなくいたのだ。妻と生まれたばかりの赤子が。今はもういない。領主であるエリザベートがまだお嬢様だった時代に、盗賊の襲撃で命を落としていた。
その記録はもう古い。だが、彼の記憶ではまだ新しいのだ。
ドーガンの視線は、オスカーたちに向けられている。
憎しみと、警戒と、抑えきれない感情が混じっている。
「そいつらは……奪う側だ」
低く、押し殺した声。理性が感情をねじ伏せようとあがく。
「あの時、何人が死んだ、傷ついた。どれだけの人が、家が、家畜が、財産がやられたと思ってる」
空気が凍る。
誰もすぐには言葉を返せない。
それは、まごうことなき正論だった。
そして、感情で生きる人間の、どうしようもないほどに正しい吐露。
凍てつく空気の中で、サラが一歩前に出る。
このままではいけないと、言葉にならない何かを言おうとする。
だが──
「その通りです」
レオンが先に言った。そこに焦りはない。
ドーガンの視線が向く。
鋭く、刺すように。
「彼らは奪ってきた側です」
否定しない。
曖昧にしない。
「そして、実績のない彼らが、また奪う側に回る可能性を心配するのは当然です」
その言葉に、場の緊張がさらに高まる。
「なら──」
ドーガンが声を荒げかける。必死に歯を食いしばって言葉を選ぼうとする。
だが、レオンは続ける。そこに一切の迷いはない。
「だからこそ、“奪わない方が当たり前の状況”を作るのです。役割を分け、正当に評価し、相互に助け合い、そして記録に残すのです。全員とは言いませんが、多くの人間はできれば真っ当に生きていたいんですよ」
静かに。
だが、逃げずに。
ドーガンだけでなく、その場の全員の視線を真正面から受け止めながら。
ドーガンの拳が小刻みに震える。
怒りか。
迷いか。
その両方だったのか、それとも、他の何かだったのか…
⸻
ドーガンの心の底から吐き出された言葉は、元「茨の聖域」側にも伝わっていた。
拒絶されるのではないか、いや、そもそも自分たちに護る仕事ができるのか、続けられるのか。
「……本当にやるのですか」
シエルが隣りに立っているオスカーに言葉を投げる。
短く切り揃えられた、透き通るような銀髪が風の動きに合わせて揺れる。
一緒に苦楽を共にした若者たちに視線を向け、そして、青い瞳でオスカーを鋭く見つめながら、さらに言葉を重ねる。
「常に監視され、囲まれているも同然です」
「そんなことは、わかっている」
オスカーは短く答える。
だが、その声に迷いはない。
彼の視線の先には、自分が保護し、守りたかった若者たちがいる。
その一人、まだ十代半ばほどの少年──名をリオという──が、不安げに周囲を見回していた。
痩せた体。
継ぎ接ぎが目立つ、大きすぎる外套。
それは元々、彼の父親のものだった。
父親は、冬の初めに病で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
母親は、ずいぶん昔に土の下に還っていた。リオのために、限界まで食を削り、酷使した結果であることを、当時、小さかったリオは知らない。
残されたのは、働く術もなく、ただ生き延びるために彷徨い、あがき、幸運にも『茨の聖域』に出会うことができた少年だけだった。
「……腹減ってるんだよ」
ぽつりと呟く。
「怯えずに眠りたい、ただそれだけなんだよ」
誰に向けた言葉でもない。
そこにあるのは事実のみ。
その一言に、シエルの表情がわずかに曇る。青い瞳の光が弱くなる。
オスカーは、何も言わなかった。
副官であるシエルにも、答えは出ているのだから。




