第11話 空が青く、風が穏やかな日
その日は、久しぶりに風が穏やかだった。
強くもなく、乾きすぎてもいない、やわらかな風がフォルスワーグの地をゆっくりと撫でていく。空は淡く霞み、白く薄い雲が高く流れていた。陽射しは強すぎず、だが確かに暖かく、地面に落ちる光は柔らかい。
この辺境の地にしては、珍しい“優しい日”だった。
街道沿いでは、荷車がいつもよりゆっくりと進んでいる。
いや、実際の速度は変わらないのだろうが、陽だまりを楽しんでいるように見える。馬の歩調も穏やかで、車輪が土を踏む音もどこか軽やかだった。
「今日は……少し、空気が違いますね」
サラが呟く。
彼女は、領都をぐるりと囲む丈夫な柵の途中に作られた、門に隣接する補給拠点の一角に立ち、人の、馬の、物資の流れを眺めていた。
先日王都から来た同僚を真似て持ち歩いている帳簿を手には持っているが、ページは開かれていない。
こんな日は、数字を追うより“変わりつつある町の呼吸”を感じたかった。
記録や数字、理屈や仕組みも大切ではあるが、現場を見て、人々の表情を見て、数字と数字の行間を見つめることも、必要だと思う。
サラの隣には、レオンがいる。
相変わらず地味な灰色の外套に身を包み、その漆黒の瞳は、忙しなく周囲を観察してはいるが、その視線もどこか柔らかい。
「はい」
レオンが少し遅れて短く答える。
「損失が減っています」
続けて、いつもの彼のお決まりの文句…
暖かい風が心地よいからか、眉間にしわを寄せるでもなくサラは小さく笑った。
「風情のない言い方ですね」
「まあ、事実ですから」
相変わらず飾り気のないその返答が気に入ったのか、サラの顔に、今度ははっきりと笑みが浮かぶ。
以前なら、こういうやり取りはなかった。
そもそも、レオンが赴任してくる前は、部下とは仕事の話以外をする余裕はなかった。
頭の中は、毎日停滞し、薄くわずかに衰退し続けていく現状を嘆いてばかりいた。
レオンが赴任してきた直後は、お互いに距離を測り、言葉を選び、どこか一歩引いた位置で話していた。
だが今は違う。
完全に打ち解けたわけではないけれど、
それでも──
同じものを見ている、という感覚がある。
それが、サラの眉間のしわを取り、言葉を少しだけ軽くしていた。
⸻
少し離れた場所では、子どもたちが走り回っていた。
土埃を上げながら、笑い声を響かせている。
その様子を、『茨の聖域』で最年少だったリオが、ぼんやりと眺めていた。
交代で昼の休憩を取っていた彼の左手には、粗末な木の器。
中には、温かいスープが入っている。そして右手には雑穀が混ざったパン。
量は多くはない。食べ盛りには少し足りないだろう。
だが、それでも、今までとは全く違う。
大げさではなく天と地ほど違うのだ。
“確実にもらえる”という安心がある。ささくれだった気持ちに少しだけゆとりが生まれる。陽射しの暖かさを、昨日との天気の違いを、楽しむことができるのだ。
彼はゆっくりとスープを一口飲む。
塩気は薄い。
具も少ない。
それでも、身体に染みていく温かさがあった。
かつては、食べ物の匂いがするだけで警戒し、誰かに奪われる前に口へ押し込む癖が抜けなかった。
今は──ゆっくり味わえる。
「……どうですか、この街に来てみて…」
声をかけてきたのは、茨の聖域で副官をしていたシエルだった。
元下級貴族としての名残りなのか、相変わらず姿勢がいい。
柔らかな陽射しが映えて驚くほど輝く銀髪は、つい先日まで流浪していたことを想像もさせないほど美しかった。
青い瞳の視線は相変わらず鋭いが、今日はどこか穏やかで、柔らかく感じられた。
「……毎日食べられる、雨も風も気にせず寝られてる」
リオは小さく答える。
ふと、初めてシエルに会った時にかけられた言葉が脳裏をよぎる。
(泣くのは後。今はただ、このパンの味と匂いを忘れないで)
「シエルさん、このパンおいしくはないけど、スープに浸すと温かいんだ」
リオは笑って続けた。あの時助けてくれたシエルへの感謝を込めて、少し大きな声で伝えた。
「そうですね、温かいのは大切ですね」
短い言葉で返したシエルの口元は、わずかに緩んでいた。
彼女自身も、同じものを口にしている。
味も量も中身も変わらない。
でも──
(奪ってない)
その事実が、心を温める。
茨の聖域に入ってからの自分には、こんな状況は考えられなかった。
必要なら奪うしかなかった。それが当たり前だった。
もちろん、奪う相手は事前に情報を集め、裕福な悪徳商人や貴族を優先したし、できるだけ傷つけないように配慮もしたつもりだ。
だが今は違う。
“ここにいる理由”がある。“毎日の働きが報われる実感”がある。
シエルは空を見上げた。
今日の空の雲は高いところにあった。
そして、静かな空だ。
(……こんな日が続いてほしいですね)
その問いに、まだ答えは出ない。
だが少なくとも今は、今日は、こんな日が続いているのだ。
そっと隣りにいるリオに、自分のパンの残りを渡すと、シエルは立ち上がって歩き出した。
次の仕事が待っている。
⸻
その少し先で、ドーガンが荷の確認をしていた。
かつて盗賊によって家族を失った壮年の兵士は、ようやく作業が終わったのか、腕を組み、目を細めている。
相変わらず厳しい表情だ。
だが、以前ほどの棘はない。
視線が、ふとリオたちの方へ向く。
ほんの一瞬。
そして、すぐに逸らす。
(……子供か)
胸の奥に、何かが引っかかる。
思い出すのは、かつての息子の姿だ。
あのまま成長していれば、同じくらいの年頃になっていたはずだ。
同じように、腹を空かせていたかもしれない。
自分は守れなかったのだ。
その事実は、今も変わらない。
あの日、守れなかった悔いは、今も胸の奥で燻り続けている。
ドーガンは小さく舌打ちし、視線を戻す。
(……だからって)
あの日の盗賊と『茨の聖域』が関係ないことは理解している。
でも、心が、頭が、その理屈を許してはくれない。
割り切ることができない。
だが──
以前のように、ただ拒否すればいい、切り捨てればいいとも思わなくなっている自分がいる。
それが、何よりも厄介だった。
憎しみだけで生きてきた自分が、変わり始めている──その事実が怖かった。
⸻
夕方。
陽はゆっくりと傾き、空は淡い金色に染まり始めていた。
領主館がある丘の上に、エリザベートは立っていた。濃い紅を纏った艶やかな長い髪が空の色を映し、乾いた風が紺色の外套を揺らす。
視線の先には、街道と、そこに生きる領民や荷車。まるで今までとは別の生き物のように、止まることなく流れていく。
動きは穏やかだ。
まだ、完全に整っているわけではない。
それでも、明らかに“以前より良い”。
(……静かだ)
それは周りの音なのか、心の中なのか。
だがそれは、不安ではなかった。
今までと少しだけ違う。
落ち着いている。
そんな感覚。
ふと、夕陽が遮られ、背後に気配が近づく。
振り返らずともわかる。
「珍しいな」
エリザベートの端正な唇からこぼれる。
「何がですか」
レオンの声。穏やかで心がさらに静かになった気がした。
「何も起きていない」
その言葉に、レオンは少しだけ考える素振りを見せながら微笑んだ。
「起きていますよ」
そして答える。
「変化が」
レオンの方を振り返ると、夕陽の光にエリザベートは、わずかに目を細めた。蒼瞳が煌めく端正な顔には笑みが浮かんでいるように見えた。
「……そうか」
短く返す言葉は相変わらず素っ気ない。
しばし沈黙が続く。
風の音だけが、二人の間を流れる。
だが、その沈黙は不快ではない。
むしろ──
どこか心地よかった。
エリザベートはふと、自分がこの時間を“悪くない”と思っていることに気づいた。
領主として、必死に生きてきた、駆け抜けてきた時の中で、戦いも、判断も、迫られていない時間は、初めてな気がした。
ただ、同じ景色を見ているだけの時間。
(……らしくないな)
内心で苦笑する。
だが、その感覚をエリザベートは最後まで否定はしなかった。
「レオン」
「はい」
「もし」
言葉が、少しだけ止まる。
珍しいことだった。
彼女が言い淀むことは、ほとんどない。
「これが続くなら」
視線をレオンに向けたまま。
「……悪くない」
それだけ言った。
短い。
だが、その言葉には、これまでにはなかった温度があった。
レオンは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、
「はい」
と答えた。
それ以上は言わない。
だが、その声もまた、わずかに柔らかかった。
⸻
空はゆっくりと色を変えていく。
金から橙へ。
そして、やがて薄い紫へ。
穏やかな時間は、静かに過ぎていく。
だが──
それは永遠ではない。
この場所において、“何も起きない日”は、長くは続かない。
それでも。
このひとときがあったことは、確かだった。
そしてその記憶は、これから訪れる“変化”の中で──
きっと、何かを支えることになる。
第一章『辺境伯領フォルスワーグ』をお読みいただき、本当にありがとうございました!
これにて物語のプロローグ、そしてレオンとエリザベートの出会いと足がかりを描く第一章が完結となります。明日朝7:00からは、いよいよ第二章へと突入します!次章『最後の砦』では、辺境の地を襲う新たな脅威との戦いが始まります。
ストックはまだまだありますので、明日からも変わらず【毎日 朝7:00 / 夜18:00】の1日2回、全力で更新を続けてまいります!
───【作者からのお願い】───
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引き続きレオンとエリザベート、そして仲間たちの物語を温かく見守っていただけると嬉しいです。
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