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第12話 森より来たるもの

 この国の北西端にあるフォルスワーグ領は、北と西を連なる山々に遮られている。その山間のわずかな隙間を抜けた先には、どこまでも続く海が広がっていた。


 一方、山裾に目を向けると、魔獣や獣、鳥、虫たちなどの人間以外の領土である広大な森林が広がり、その森から領都までの間には、今を生きる民の祖先たちが、文字どおり血と汗を流して切り開いてきた穀倉地帯が横たわっている。

 

 何事もなく豊作であれば、この辺境の地はもっと栄えていることだろう。

 

 だが、厳しい生存競争が繰り広げられる魔の森で、生命の階層ヒエラルキーが低い草食動物たちがこの無償で提供される安全な食事場を放置するわけはなく、実りは常に荒らされる。

 そして、草食動物を狙う獣たちに農地は踏み固められ、死骸から流れ出た血は土を濁し、作物を枯らしてしまう。


 この辺境の地では、人間こそが余所者なのだ。だから肩身の狭い思いを、ひもじい思いをするのだ。それが嫌なら勝つしかない、戦い続けるしかないのだ、この生存競争を。



 それは、音から始まった。

 最初は、ごく小さな違和感だった。


 虫の音が止まる。

 鳥の声が消える。

 ざわめく葉と枝の揺れが風と同化する。

 不自然なほどに──静かすぎる。


 その“静けさ”が、逆に耳を打つ。風の流れがべったりと肌に張り付く。


 魔の森と呼ばれる辺境の森林は、本来もっと騒がしい。

 虫の羽音、鳥のさえずり、獣の気配、風に揺れる枝葉のざわめき。

 それらが重なり合い、絶えず何かが動いていることを告げている。


 だがその日、まるで森そのものが、何かを恐れて息を潜めているようだった。



「……来るぞ、得体の知れない何かだ」


 最初にそれを口にしたのは、オスカーだった。


 彼は森の縁に立ち、低く身を落としていた。指先が地面に触れ、わずかな振動を確かめるように動く。


 かつて、ここではない辺境の地を守護する高潔な「辺境守備隊」の副隊長だった経験と、義賊として森や街に潜んできた鋭敏な感覚。五感を超えた何か。


 それが、はっきりと告げていた。


 近づいてくる…“生命の階層の上位者”が。


 しかも“群れ”だ。それも小さくない。


 背後で、茨の聖域が解散した今でも忠実な副官然としたシエルが、青い目を細め顔をしかめる。


「……どのくらいだと思われますか」


「多い」

 いつも冷静なオスカーの短い答えが、却って逼迫感を引き立てる。


「すぐに、ガレス殿に、領主様に知らせろ!」

 声が聞こえるや否や、伝令役の部下が何の躊躇も見せずに領都方面へ向かって駆け出した。

 その言葉に含まれる重みを、そこにいる誰もが理解した。

 茨の聖域だった若者たちは、今は奪う側ではない。護る側なのだ。


 オスカーほどの男が断言する“多い”という言葉、それは命に関わる事態ということだ。

 シエルが念のため確認する。

「人の気配だったりは?」


「ない。盗賊だった方がマシかもな……だが、この振動、気配、魔獣で決まりだ」


 最後の言葉を聞くと、シエルは天を仰いだ。短く切り揃えた銀髪が揺れ、整った顔に影を落とす。

 ため息を吐いて顔を戻した時、表情が、空気が変わる。

 元副官の厳しい気配に、部下たちの顔が引き締まる。


 人ではない。

 交渉も、威嚇も通じない。


 ただ──襲ってくるのだ。

 この地の支配者は、残念ながら人間ではないのだ。



 魔獣の森と穀倉地帯の境目、人が勝手に設けた境界線に建てられた外縁警戒の拠点は、森へと繋がる道からの侵入を防ぐための砦も兼ねている。

 深く掘られた空堀と、その土砂で作られた土塁は、これまで幾度となく森からの侵入者に犯されてきた。


 伝令から瞬く間に伝わった凶報を受けて、兵たちは訓練どおりに動き出す。

 空堀に掛かった橋を上げる者、ありったけの燃料をくべて狼煙を上げる者、連絡漏れの可能性を消すために領都まで馬を駆けさせる者。残った者は、予備の武器と食糧をありったけ出して臨戦体制を整える。


 誰かの喉がゴクリと音を立てた気がした。



 その日、レオンはサラと街の中心街にある行政府で働いていた。

 行政府とは名ばかりの簡素な屋敷の一室で、狼煙を確認した当番兵からの報告を受けたレオンは、サラに自分の分の軍馬や兵装等の準備を頼むと、冷静さをかなぐり捨てて領都の北門にある詰所へと駆け出した。


 詰所についたレオンは、荒い息を鎮めるのもそこそこに、大きな机に広げられた地図の上に指を滑らせ、視線を走らせる。


「森の外縁……ここから、北の砦までどれくらいかかりますか」


「騎馬のみを襲歩で先行させれば四半刻(30分)ぐらいだな」

 レオンより少し早く詰所に駆けつけていた騎士隊長のガレスが答える。

 そして、息を切らせながらサラが飛び込んできた。


 すぐに状況が共有される。

 兵の配置。

 人の流れ。

 すぐ動かせる物資の量と中身。

 領主であるエリザベートへの報告と護衛。

 そして、最悪を想定した退避案。


 すべてがレオンのガレスのそしてサラの、三人の頭の中で組み立てられていく。


「民の避難は?」

 ガレスが吠える。


「間に合いません」

 即答。

 答えたサラの眉がわずかに動く。

 自分の回答に間違いがないか再確認する。

 だが、それでも否定はできない。

 

 事実だ。

 今から人を散らせば、かえって被害が広がる。茨の聖域にいた者たちを加えてもなお、守る側が圧倒的に少ないのだ。兵も武器も物資も。

 そして、生身の人間は魔獣よりはるかに弱く、遅い。


「……なら」    

 レオンは顔を上げた。

 いつもの穏やかな笑みは消え、漆黒の瞳は一点を射抜いている。


「北の砦、ここで受け切るしかない」

 その声には、恐れよりも覚悟があった。


 その判断は、重い。

 だが正しい。そう信じるしかないのだ。



 その頃、高台にある領主館で狼煙に気づいたエリザベートは、すぐに厩へと走り出し、愛馬にまたがった。紺の外套が風を裂き、濃い紅色の髪が陽光を受けて燃えるように揺れた。


 剣を腰に、紺色の外套と濃い紅を纏った長い髪を翻しながら、北門の詰所へ向かう。非常時にのみ許される、軍馬での市街地疾走に驚いた市民たちは、その輝く美貌に再び驚かされる。すれ違った領主館へと報告に向かう兵士が、慌てて踵を返して追いかけた。


 フォルスワーグ領の前領主だったエリザベートの父親が亡くなった日も、今日と同じ濃い狼煙が砦から立ち上っていた。

 彼は魔獣討伐で亡くなったのだ。

 

 その日から、エリザベートはずっとフォルスワーグの領主をしている。

 あの日、敬愛する父が守ったこの地と民が、大好きだから。

 多くの兵士を失った、あの日と同じ悲劇を、何もできなかった自分の後悔を、二度と繰り返したくないから。

 ただ、無心に前だけを向き、馬を走らせた。


 北門の前では、兵士たちが集まり、隊列を組み始めている。

 ガレスが先頭に立って命令を下す。サラは後方で物資を運ぶ荷馬車の隊列に指示を出す。そして、レオンは出陣する兵、北門に残す兵、物資の量、馬の数、すべてをすさまじい速度で記録していく。


 まだ昼間にもかかわらず、防衛のために閉じられていた門がいきなり解き放たれると、力強い馬のいななきと蹄の音が、各々の作業に集中していた全員の耳に一気にあふれた。


 乾いた風に乗って、兵士たちのざわめきが漏れる。領主様だ…


 少し前から近づいてくる馬蹄の音で予想していたのであろうガレスが、苦い顔を一瞬浮かべて、声を発しようとした。が、その声が前に出ることはなく、口の中でかみ殺され、唇を強く噛んだ。


 蒼い瞳をきらめかせ、濃い紅色の髪をはためかせ、エリザベートは剣を抜いて天に掲げる。

「私が先頭に立つ、全員、必ず生き残って、また顔を見せてくれ」

 そして、そのまま北の砦へ向かって真っすぐに駆け出した。

 慌てて、ガレスとレオンが、そして十数名の騎乗した兵士が後を追う。


 反射的に走って追いかけようとした若い兵士の肩を、壮年の男が強い力で引き戻す。  

 歩兵隊をまとめている、中年の兵士、ドーガンだ。

「騎馬相手に競争してどうする、俺らは俺らにできることをやらんとな」

 熟練の兵士の声に迷いはない。


「サラ様、何人か護衛に残しますので、補給部隊のことはお願いできますか?」

 ドーガンは、返事を聞くまでもなく、速足で一歩を踏み出した。

 

「全員慌てず、騒がず、そして疲れを残さず、前を向いて歩け」

 尊敬していた前領主の愛娘である、エリザベートの後ろ姿が、はるか彼方にわずかに見えた。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


皆様からいただく【ブックマーク登録】や【評価の☆☆☆☆☆(星)】の一つひとつが、この物語を先へ進めるための何よりの糧となっております。

反応をいただけることが、作者にとっては非常に大きな励みです。


レオンとエリザベートの旅路を、今後とも共に見守っていただければ幸いです。

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