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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第六章:愛おしい日常

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第39話 家路を照らすともしび

 その日、領都グランディアには柔らかな雨が降っていた。


 夏の始まりを告げるような少し温もりを含んだ雨だった。

 石畳はしっとりと濡れ、灰色の空を映して鈍く光っている。

 雨粒は屋根を叩き、樋を伝い、小さな水音となって街のあちこちで響いていた。


 それでも人通りは途絶えない。

 むしろ以前より多いくらいだった。


⸻


 中央市場から少し外れた旧市街地。

 そこに小さな食堂がある。


 店の名前は“煤けたランプ亭”。

 決して立派な店ではない。

 石造りの二階建ての一階部分だけを使った狭い店。


 古びた看板。

 何度も修繕された壁。

 窓枠も少し歪んでいる。


 それでも、この辺りでは評判の良い店だった。


 店主の名はミレナ。

 三十代半ばの女性である。

 栗色の髪を後ろで束ね、いつも白い前掛けを身に付けている。


 優しく穏やかな雰囲気で、よく笑い、そしてよく働く。


⸻


 だが、その人生は決して穏やかなものではなかった。


 夫は八年前、北方の魔獣討伐で帰らぬ人となった。

 残されたのは、幼い息子と、小さな食堂だけだった。


 あまりにも突然で、遺体は戻らなかった。

 手元に届いたのは、使い古された一振りの剣だけ。


 幼い息子をおんぶ紐で背に括りつけ、彼女は店を守り続けた。


 朝から晩まで働き、何度も頭を下げて借金をした。

 その日一日を生き延びることに必死で、涙を流す余裕すらなかった。


 そして何より辛かったのは……、

 愛した夫と出会い、そして夫が守ったこの街、グランディアそのものが、ゆっくりと貧しく沈んでいくことだった。


 客が来ない。

 人が金を使わない。

 市場に物がない。

 夜になると街は闇に沈む。


 客が二人しか来ない日もあった。


 心を込めて煮こんだスープが売れ残る。

 早起きして焼いたパンが固くなる。

 しかも、それを翌日も並べるしかなかった。

 悔しかった。


 (もう、店を畳むしかないのかもしれない)


 そう思った夜は、一度や二度ではない。


 それが。

 最近は、ほんの少しだけ違ってきた。


「ミレナさん!」


 扉が勢いよく開き、若い鉱夫たちが雪崩れ込むように入ってくる。


「いつもの三人前!」

「今日はチーズも頼むぞ!」

「給金をしっかり貯めて来たからな!」


 雨で濡れた外套。

 洗っても染みついている煤で、わずかに黒くなった頬。

 それでも皆、どこか誇らしげに笑っていた。


「はいはい、わかったよ」


 ミレナも思わず笑みを返す。


 以前なら考えられなかった。

 鉱夫たちが領都まで出てきてチーズを頼むなんて。

 そんな贅沢をする余裕など、どこにもなかったのだ。


 だが、鉱山改革が始まってから、鉱夫たちが暮らすザルツ村は変わった。

 仕事が増え、賃金が安定し、人々が“食べたいものを食べる”ようになった。

 今日もこうして若い鉱夫たちが、魔鉱石や魔素石の運搬を手伝いがてら領都まで出てきている。


⸻


 店の奥では、大鍋から湯気が立ちのぼる。


 羊肉の煮込み。

 野菜の甘い香り。

 香草の爽やかな匂い。


 そこへフォルスワーグ領の西端にあるカウム村産のチーズを削り落とす。

 最近、この店で一番の人気者だ。


「美味い!」

「やっぱこれが一番だよな」

「ザルツ村にも、この店できないかな」


 鉱夫たちが子どものように顔をほころばせて食べる。

 温かいものをお腹いっぱい食べている。

 

 その表情を見るたび、ミレナは胸の奥がじんと温かくなる。

 頑張ってきた日々が無駄ではなかったと思うことができる。


 (本当に……変わったんだねぇ)


 窓の外では、雨が途切れることなく降り続いている。

 それでも、街は動いていた。


 新しくできた店や屋台。

 荷運びを請け負う人夫たち。

 羊毛を扱い始めた商人。

 領内の各地をつなぐ行商人。


 以前よりも、はるかに多くの人が行き交っている。


⸻


 昼過ぎになると、今度は商人たちが店へと入ってきた。


「席、空いてるかい?」


「どうぞ!空いている席に座って」


 主人と思われる中年の男と、手代や人夫と思われる若い男たち。

 商売が順調なのか、席に着くなり明るい雰囲気で雑談を始める。


「羊肉の煮込み、お待ちどうさん!」

「最近は何か変わったこととか、あるかい?」


 店の注文が落ち着いたのか、店主のミレナが、好奇心に目を輝かせながら話し掛ける。


「最近は助かるよ」


 中年の商人がスープをすすりながら言う。


「街道が安全になって、前より荷が傷まなくなった」

「予定どおり着くってだけで、こんなに違うもんなんだな」


「本当かい?」


「昔なら、自前で専属の護衛を雇う必要があったからな。信用できる護衛なんてなかなか見つからないし、いても高い。」


 商人は肩をすくめ、笑った。


「今は、よほど高価なモノを扱わない限り必要なくなった。元義賊の連中が兵士になって街道を見回りしたり、隊商を護衛したりしてるだろ」


「しかも、あいつら強いぞ」


 若い男たちも頷きながら、話し出す。


「魔獣も追い払うしな」

「地形や天気にも詳しい」

「ほんと頼りになるよ」


 ミレナは静かに耳を傾けていた。


 昔なら、考えられない話だった。

 街道が安全になるなんて――そんなのは夢物語だった。


 だが今、その夢が現実になりつつある。


⸻


 夕方になる。

 雨が上がり、雲の切れ間から柔らかな陽光が差し込んだ。


 雨雲が流れ、空の端に淡い青がのぞく。

 まるで街そのものが、長い眠りから目を覚ましたようだった。


 濡れた石畳が金色に光り、屋根からは雫がぽたりと落ちる。

 子どもたちが歓声を上げて駆けていく。


 その光景を窓越しに眺めながら、ミレナはふと昔を思い出した。


 夫がよく言っていた。「街は人でできているんだ」と。

 その言葉が、今になって胸に沁みる。


⸻


 数年前の冬。


 息子が高熱を出した。

 頬は真っ赤で、息は荒く、呼んでも返事が弱々しかった。


 薬代を払う金はなかった。

 金庫の中を何度確かめても、手に触れるのは冷たい銅貨ばかり。

 食堂も赤字続きで、仕入れすらままならなかった。


 外では雪が降りしきり、

 店の中は冷え込み、

 煮込み鍋の火も弱くなっていった。


 あの時は。

 本当に、すべてが終わると思った。

 息子の命も、店も、未来も、指の間からこぼれ落ちていくように感じた。


 それでも店は残った。

 街も残った。

 どうにか冬を越え、春が来た。


 そして今。

 少しずつ、確かに良くなっている。


⸻


 夜になる。

 食堂は今日も満席だった。


 その中には、最近新たに常連となった兵士たちの姿があった。


 深い青に近い藍色の外套を羽織った兵士たち。

 元義賊と若い兵士で最近設立された護衛哨戒隊の若者たちだ。


「ミレナさん!注文いいですか」

「今日も羊肉の煮込み、お肉多めでお願いします!」


 義賊と聞いた時は正直不安だったが、彼らは礼儀正しく、酒癖も悪くない。

 代金をきちんと払い、仕事にも励んでいる。


 そして何より、街を守っている。

 私の夫が命をかけて護ったこの街を。


「お待たせ」


 ミレナが優しく微笑みながら料理を置く。


「ミレナさんの料理、相変わらず美味い!」

「昔、母さんが作ってくれた味に似てるんだよな」


「ありがと、なんか照れるねぇ」


 それは、ごく自然な会話だった。

 ミレナは瞼の奥から溢れてくるものを必死でこらえながら、笑顔で答えた。


 人は変われるのだ。

 そんな当たり前のことを、ようやく信じられるようになってきた。


⸻


 閉店後。

 店の掃除を終えたミレナは、住居になっている二階の窓を開けた。

 夜風がそっと流れ込み、昼の熱気をさらっていく。

 寝返りを打った息子にそっと布団を掛け直す。


 遠くには市場の灯り。

 賑やかな人の声。

 酒場の明かり。

 通りを歩く人影。


 昔に比べ、明らかに灯火が増えている。

 街が、生きている。


 その景色を眺めながら、ミレナは静かに呟いた。


「エリザベート様のおかげだねぇ……」


 若くして領主となり、騎士隊長のガレスとともに、幾度となく魔獣の脅威から領地を守った英雄。


 そして最近ではレオンという、不思議な補佐役がそこに加わった。

 本人に自覚はなさそうだが、領都ではすっかり有名人になっていた。


 義賊を改心させ、魔獣を倒した男。

 鉱山を立て直し、魔素石を作った男。

 街道を作り直した男。

 羊を増やし、太らせた男。


 金を使いすぎて、行政府の可愛い文官を泣かせた男。

 その噂だけは、なぜか特によく広まっていた。


 “煤けたランプ亭”でも話題にならない日はない。


 ミレナは、色々な噂話を思い出しては、小さく笑った。


「本当にありがたいことだよ」


 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。


 夫が生きていた頃。

 未来は明るく見えていた。


 夫が死んだ後。

 未来は霧の向こうに消えてしまった。


 それが今はどうだろう。

 久しぶりに思うこの気持ち。


 こんなことを考えられる日が来るなんて、少し前までは想像もできなかった。


 (明日は、今日より少し良いかもしれない)


 それは決して派手な希望ではない。

 けれど、人が生きていくには十分すぎるほどの光だった。


⸻


 窓の外では、領都グランディアの灯りが夜空の下で揺れている。

 一つ一つが、人々の暮らしであり、笑い声であり、温かな食卓であり、働く者たちの明日だった。


 そしてその灯りは、今も少しずつ増え続けている。


 エリザベートが守り、レオンたちが育てている領地。

 辺境領フォルスワーグの領都、グランディア。


 その光景を見つめながら、ミレナは静かに微笑んだ。


「いい街になってきたねぇ」


 その声は夜風に溶け、無数の灯火が瞬く領都の空へと静かに消えていった。

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