第40話 騎士が望む明日
その朝、まだ霧が地表を離れきらぬ頃だった。
領都グランディアの中心にある小高い丘には、領主を守る最後の砦、領主館が静かに佇んでいる。
石造りの城壁は夜露を吸い、薄く白んだ肌を朝の光に晒していた。
ガレス・ヴァレンタインは、その見張り台に上り、ぐるりと周囲を見渡した。
東では昇り始めた陽が大河を照らし、金の帯のように揺れている。
南には整備された街道が関所を備えた宿場町へと伸び、
はるか西の彼方では草原と荒野が風に波打ち、その先の牧草地へと続いている。
北には穀倉地帯が広がり、その奥には“魔の森”と呼ばれる深い森林が続く。
さらに山々の麓には、再興された鉱山からの煙が微かに立ち上っていた。
数年前には想像すらできなかった光景だ。
ガレスは小さく息を吐き、呟いた。
「……変わったな」
見張り番の若い兵士が、不思議そうに振り返る。
「何がですか、隊長?」
「……全部だ」
それだけ告げ、ガレスは階段を降りた。
すべてが変わったのだ。
本当に。
街も。
人も。
そして、
あの日はまだ幼かった領主様も。
⸻
ガレスはエリザベートが生まれた時から知っている。
正確には、生まれる前からだ。
ガレスの父もまた先代辺境伯に仕えた騎士であり、ヴァレンタイン家は代々この地に忠誠を捧げてきた。
だから。
赤子の頃の泣き顔も、
幼い日の笑顔も、
悔し涙も、
剣を握る小さな手も。
すべて、この目で見てきた。
エリザベートは昔から真面目だった。
誰よりも早く稽古場へ来て、
誰よりも遅く木剣を振っていた。
負ければ悔しがり、
嘘をつけば自分で落ち込み、
小さな約束ひとつ忘れなかった。
だからこそ、苦しんだ。
先代辺境伯が魔獣の牙に倒れた時。
領地が疲弊していく時。
民が飢える時。
すべてを自分の責任だと抱え込んだ。
領主を継いだ時には、まだ二十歳にも満たない可憐な令嬢だったのに。
⸻
「馬鹿だよな」
誰にも届かぬ声で呟く。
本当に、馬鹿だ。
普通なら逃げる。
泣く。
投げ出す。
だがエリザベートは違った。
誰も見ていない場所で泣き、
誰もいない場所で苦しみ、
そして翌朝には、何事もなかったように美しく立っていた。
ガレスだけは、その目の赤さに気づいていた。
その姿を、何度も見てきた。
だからガレスは知っている。
あの娘はずっと孤独だった。
誰より強く見えるが、誰より弱音を吐けなかった。
放っておけるわけがない。
年の離れた妹のような存在だったのだ。
⸻
思いに沈んでいたせいか、気づけば館内にも朝陽が差し込んでいた。
その光に促されるように歩いていくと、中庭の方から賑やかな声が聞こえた。
「だから違うと言っているだろう!」
「ですが事実です」
「違う!」
「そうでしょうか」
聞き慣れた声だった。
ガレスは思わず足を止める。
朝露に濡れた芝生。
整えられた花壇。
魔素石で動く噴水の水音。
柔らかな朝陽。
穏やかな景色の中に、二人の姿があった。
エリザベート。
そしてレオン。
どうやら今日は仕事終わりに市場へ視察に行くらしい。
「だから私は別に楽しみにしているわけではない!」
「仕事を早く終わらせるために、こんな早朝から呼び出したのにですか?」
「違う!」
「いつもより早起きだって侍女が言ってましたよ」
「違う!」
レオンが楽しそうに笑顔を浮かべてからかう。
端正な表情を必死に取り繕うエリザベートの耳が赤くなる。
ガレスは思わず吹き出しそうになった。
(……あんな顔もするのか)
かつては決して見せなかった、年相応の表情だ。
頬を膨らませ、怒り、拗ね、照れる。
領主ではなく、一人の若い女性の顔だった。
⸻
ふと、幼い日の記憶がよみがえる。
エリザベートがまだ八つか九つの頃。
その日は珍しく、剣の稽古を嫌がった。
理由を聞いても首を振るばかりで、頑なに口を閉ざしていた。
仕方なくガレスは彼女を稽古場から連れ出し、館の裏手の小さな丘へ向かった。
風がよく通る、彼のお気に入りの場所だった。
「……ここ、好きなの?」
「まあな。嫌なことがあった時は、よくここでサボってた」
「サボってたの?」
「おう。父上には内緒だぞ」
エリザベートは小さく笑った。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女はぽつりと呟いた。
「……私、皆に迷惑をかけてるのかな」
「なんでそう思う」
「だって、私がもっとしっかりしていれば……」
幼い声が震えていた。
ガレスは悩んだ末、こう言った。
「エリザベート。お前は強くなりたいんだろ?」
「……うん」
「なら、強くなるまで俺が隣りにいてやる。兄貴分くらいにはなれる」
「兄貴……?」
「そうだ。困ったら呼べ。泣きたくなったらここに来い。稽古が嫌ならサボれ。俺が隠してやる」
驚いたように目を丸くし、彼女は小さく笑った。
「……ありがとう、ガレス兄様」
その言葉を聞いた瞬間、ガレスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
その日、彼は密かに誓った――この小さな背中を、必ず守り抜くと。
⸻
その呼び方は、その日だけだった。
だが、あの笑顔は今も胸に残っている。
そして今。
中庭でレオンと笑い合うエリザベートは、あの頃よりずっと自然に笑っていた。
肩の力が抜けていて、誰かに頼ることを覚えた顔だった。
(あいつになら任せられる)
心の底から、そう思った。
⸻
二人に気づかれないように中庭を離れ、ガレスは領主館を出て市場へ向かった。
急ぎの仕事がない日の、最近の日課だった。
市場を見るのが好きになった。
かつては足を運ぶ余裕すらなかった場所だ。
人が増えている。
荷車が増えている。
笑顔が増えている。
果物を売る娘。
野菜を並べる店主。
工芸品を売る職人。
香ばしい匂いがする屋台。
どこも忙しそうだ。
そして皆、未来の話をしている。
「来月はもっと仕入れよう」
「新しい服でも買うか」
「息子が大きくなったら職人の弟子に出そう」
⸻
かつては違った。
生き延びる話ばかりだった。
今日は食えるか。
冬を越せるか。
税を払えるか。
それだけだった。
今は違う。
皆、明日の話をしている。
未来の話をしている。
⸻
市場の端で足を止める。
そこには小さな木彫り細工の露店があった。
店主は老人だ。
昔からの顔なじみだ。
「よう隊長」
「元気そうだな」
「景気がいいからな」
老人がにかっと笑う。
「ありがたいもんだ」
そう言いながら老人は空を見上げた。
ガレスもつられて見上げた初夏の空は、どこまでも澄んで青かった。
「エリザベート様も頑張った」
「レオン様も頑張った」
「俺たちも頑張った」
「だから今がある」
その言葉にガレスは深く頷いた。
まったくその通りだった。
誰か一人ではない。
皆で作った今。
だからこそ価値がある。
⸻
夕刻。
領主館の窓に灯りがともる。
エリザベートとレオンがまだ仕事をしていた。
窓越しに見える二人。
何か言い合っている。
だが楽しそうだった。
かつての執務室は違った。
静かで。
重くて。
苦しかった。
今は違う。
灯りが温かい。
人の気配がある。
希望の匂いがする。
ガレスはしばらくその光景を眺めていた。
そして、誰にも聞こえないように小さく笑う。
「……よかったな」
⸻
夏の夜風が吹く。
領都の灯りが揺れる。
その灯りは、以前よりずっと多い。
かつて闇に沈んでいた領都が、今は確かな光を宿している。
そしてその中心には。
もう独りではないエリザベートがいる。
ガレスは静かに微笑みながら、夜の領主館を後にした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆様の応援のおかげで、四十話まで書き続けることができました。本当に感謝しています。
“ガレス兄様”という呼び方は、作者としてもとても気に入っています。
エリザベートが再びそう呼ぶ日が来るのか──ぜひお楽しみにお待ちいただければと思います。
次話からは、内政・改革パートに戻ります。
南端の宿場町レストを舞台にした「第七章:夜明けを待つ街」が始まります。引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。
皆様の反応があると、とても励みになりますので、「ブックマーク登録」や「評価の☆☆☆☆☆(星)」、感想やリアクションなどをいただけると大変ありがたいです。
レオンとエリザベート、そして仲間たちの旅路を、これからも一緒に見守っていただければ幸いです。




