第38話 藍色外套の護衛
朝霧が、整備された街道を白く覆っていた。
風は初夏にしては珍しく冷たく、湿り気を含んだ空気が丘陵の草花を静かに揺らしている。
領都グランディアの南方街道。
北と西を山々に囲まれ、東を大河で遮られているフォルスワーグ領の南方を、森林と丘陵を縫うように走るその道は、古くから物流の要衝だった。
鉱山から産出される魔鉱石などの鉱物資源。
カウム村の羊毛。
北方に広がる穀倉地帯の農産物。
魔獣の森の希少な木材。
数少ない他領からの行商人。
すべてがこの街道を通る。
領都と、他領との玄関口である宿場町レストを繋げるこの唯一の道は、だが、同時に危険な道でもあった。
⸻
領都の南門を抜け街道をしばらく進むと、道沿いの草原は次第に姿を変え、やがて緑深い森林へと続いていく。
緩やかな丘陵には木々が折り重なり、風が枝葉を揺らす音だけが耳に残る。
ここは、人の支配がまだ行き届かぬ辺境の地。
魔獣が現れることも珍しくなく、日が落ちれば闇が視界を奪い、野営地では獣や魔獣に襲われる危険もある。
かつては、そこへ他領から流れてきた盗賊まで加わっていた。
以前の街道は、常にどこか刺々しい気配が漂っていた。
それが今は、街道を満たす空気が以前とはわずかに違っていた。
昔は怯えた顔で足早に通り過ぎる者ばかりだったが、今はどこか表情に余裕がある。
張りつめていた緊張が薄れ、ほっと息をつけるような空気が漂っていた。
複数の荷馬車が列を成して、ゆっくりと街道を進んでいく。
鉱物を山と積んだ荷車。
覆布に包まれた毛織物を運ぶ行商人。
木材や、麻袋に包まれた羊毛を載せた馬車。
領都から関所のある宿場町レストまでは、隊商の足で二日から三日かかる。
辺境の街道を単独で進むのは自殺行為であり、南門を日の出とともに出発する商人や領民は、原則臨時の隊商を組むことを強く推奨されている。
そして、このフォルスワーグ領において、エリザベートの指示を無視する領民は皆無だ。
この道を行き交う人と物の流れは、以前よりも明らかに増えていた。
そしてその周囲を、深い青に近い藍色の外套を羽織った兵士たちが、油断なく周囲に気を配りながら護衛している。
⸻
「前方、異常なし!」
隊商の先頭で斥候役を務める若い兵士の、甲高い声が聞こえた。
「順調だな。みんな、この先の開けた場所で昼休憩にしよう。そこまでもうひと踏ん張りだ」
軍馬にまたがり、護衛たちを率いている長身の男の声が、街道に力強く響く。
オスカー・レビン。
かつて義賊“茨の聖域”を率いた男は、今ではフォルスワーグ領の護衛哨戒隊隊長だった。
軍馬の上から周囲を見渡す深い灰色の瞳には、以前にはなかった落ち着きと頼もしさが宿っている。
装備は、他の兵士たちとは違うものを身に着けていた。
背負われた大振りの剣。
紋章部分を削り落とした鉄の胸当て。
そして唯一、統一して身に着けている外套は、深い青に近い藍色だった。
新設された護衛哨戒隊の外套は、深い藍色で統一されていた。
副隊長シエルの瞳の色だと言う者もいれば、敬愛する領主様の瞳の色だと言う者もいる。
理由はどうあれ、彼らはその外套を誇りを持って身に着けていた。
⸻
昼食を摂った一行は、今日の野営地に向けて進み始めた。
朝からの湿った風は、昼を過ぎても乾くどころか益々重くなり、纏わりつくように吹き付けてくる。
暗く分厚い雲が陽光を遮り、濃い霧が丘陵を下って森林へとたどり着く。
「シエル」
オスカーが隊商の反対側で警戒に当たっていた兵士に声を飛ばす。
巧みに馬を操りながら、隊商の間を縫って駆け寄ってくる女性の姿。
シエル・バイス。
かつてオスカーの腹心として“茨の聖域”を支えた彼女は、今では護衛哨戒隊の副隊長として隊をまとめている。
肩まで伸びた透き通るような銀髪。
華奢な体躯からは想像できないほど軽やかな馬さばき。
周囲を鋭く観察する青い瞳。
端正な容姿も相まって、最近は酒場で噂になることも多い。
「隊長、何かありましたか」
シエルが、オスカーに問いかける。
自分が呼ばれるときは、必要とされる時だとわきまえた端的な言葉。
「すまないが、馬で先行してこの先の隘路を確認してきてくれ」
「霧が濃くなってきそうだ。くれぐれも深追いはせずにな」
承知しました。
その声が聞こえてきた時には、すでにシエルを乗せた馬は駆け出していた。
日暮れまでまだ猶予があるはずなのに、もう日没間近と錯覚する空の色だった。
今日の目的地である野営地まではあと二時間といったところか。
近くにいた兵士を呼び寄せ、隊商全体に少し急ぐよう指示を出す。
漠然とした不安が漂う。
兵士も商人も人夫たちも、無言で先を急いだ。
隘路に入る手前で、シエルがちょうど戻ってくるのが見えた。
上下に揺れる銀髪が後ろへとたなびく。
「この先に目立った異常は見当たりませんでした」
「ただ、獣道に新しい足跡が……灰牙狼だと思います」
オスカーは小さく息を吐いた。
灰牙狼だけなら対処できる。
問題は、群れの中に魔獣が混じっている時だ。
オスカーの鋭い視線が、隘路の奥へ吸い込まれるように向かった。
白い靄の向こう、黒い木々が沈黙の壁のように立ち並ぶ。
――狼だけなら何とかなる。問題は魔獣が出てくるかどうか。
⸻
「荷馬車の間隔を詰めさせろ」
「総員第一種警戒体制!歩兵は全員槍を準備しろ」
低く、鋼のように揺るがないオスカーの声。
その一言で、空気が変わった。
「今日は霧が濃い。油断するなよ」
かつて仲間を率いていた頃とは違う。
今の彼の声には、守る者としての責任が宿っていた。
商人たちが慌ただしく動き出す。
御者が馬やロバを巧みに操る。
最近雇われた人夫たちは、初めての経験に動揺を隠しきれない。
「あの隊長、元盗賊だって聞いたぞ……」
「信用していいのか……」
そんな囁きが、霧の中に溶けていった。
⸻
オスカーやシエルにとって、隘路での動きはお手の物だった。
危険地帯の見抜き方。
伏兵が潜む地点の察知。
逃走経路の確保。
霧の日の警戒。
すべて、かつて“自分たちが獲物を狩るために使っていた技術”だからだ。
「隊長」
シエルが指示を出すために離れていったのを見て、若い兵士が駆け寄ってくる。
緊張のせいか、息が少し上ずっている。
「どうして……そんなに自然のことが分かるんです?」
オスカーは、霧の中で微かに笑った。
「昔、こういう場所で何度も潜んでた」
「……潜む?」
「木々のざわめき、鳥の鳴き声、虫の音色、森には色々な音や気配が満ちている。その変化を掴めば、人や獣の動きが何となく分かる」
オスカーが当たり前のように話す。
若者の顔が引きつる。
指示を出し終わって戻ってきていたシエルが吹き出した。
「安心しろ」
オスカーは肩を竦める。
「今は守る側だ」
「確かに」
若い兵士が笑いながら持ち場へと走っていく。
その瞬間。
森の奥で、鳥が一斉に飛び立った。
羽音が、霧の天井を叩く。
空気が、一気に張りつめる。
「総員!戦闘態勢」
オスカーの声は、刃のように鋭かった。
兵士たちの表情が一瞬で変わる。
荷車が止まり、商人たちが息を呑む。
霧が揺れた。
風が止まった。
世界が音を失った。
そして。
低い唸り声。
「……来たな」
茂みが爆ぜた。
灰色の影が、霧を裂いて飛び出す。
灰牙狼。
興奮で赤く充血した目が、血のように光った。
「五……いや七!」
「多い!」
荷馬が暴れ、商人が悲鳴を上げる。
だが、オスカーたちは微動だにしない。
「隊列を崩すな!」
「槍、前へ!」
「荷車を真ん中へ寄せろ!」
指示が飛ぶ。
動きに迷いがない。
義賊だった若者と、故郷を守るために兵士となった若者が、毎日死に物狂いで磨いた連携。
それが今、領民と自分の命を守るための力となる。
⸻
獣が地を蹴る鋭い音とともに、一匹が飛びかかる。
オスカーが素早く踏み込む。
大剣が霧を裂き、銀の軌跡を描いた。
獣が吹き飛び地面へ転がる。
「右!」
シエルが叫ぶ。
二匹目が側面から飛び出す。
近くにいた兵士の槍が、震える穂先でそれを何とか貫いた。
若い兵士は震えていた。
恐怖が足をすくませる。
「踏ん張れ!」
オスカーの怒声が霧を震わせた。
「お前の後ろには守るべき民がいる!」
その言葉に、若者は歯を食いしばり、槍を押し込む。
泥。
血。
咆哮。
霧。
世界が戦いの音だけになる。
気が遠くなるほど長く思えた数分間が過ぎ、
街道に静寂が戻った。
七つの獣の死体が転がり、霧の中で人と馬とロバだけが荒い息を吐いている。
つい先ほどまで命を奪い合っていたとは思えないほど、静けさは唐突に訪れた。
「……終わったか」
オスカーが剣を鞘に納める。
怪我人が出ていないことを確認し、顔に笑顔が戻る。
念のため、斥候兵に野営地までの道を偵察に行かせると、副隊長であるシエルを呼び、今後の動きについてすり合わせる。
指示出しへと向かうシエルの背中を目で追いながら、オスカーはそっと息をついた。
群れに魔獣が混じっていなかったのは不幸中の幸いだった。
少しだけ霧が薄くなり、空の明るさが、わずかに本来の時刻を取り戻す。
ふと気配を感じたオスカーが振り返ると、今回の隊商の中で一番大きな商家の主人が近づいてきた。
彼は震える手を握りしめながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……お陰様で助かりました」
「以前なら、商品も命も諦めるしかなかった」
オスカーは困ったように眉を寄せる。
お礼を言われることに、まだ慣れない。
「これが仕事なので」
もう一度深く下げた頭を上げると、商人の男が袋を差し出した。
燻製肉と干し果実。
ぎっしり詰まった袋は、はち切れそうだった。
「受け取ってください。賄賂じゃないですよ。みんなからの感謝の気持ちですから」
心からの笑顔は、冷たい霧の中でとても温かかった。
⸻
山風が吹き、霧が少し晴れる。
オスカーは、根負けしてその袋を受け取った。
かつては奪うために使っていた手。
今は、人を守るために剣を握る手。
「……なんか不思議なもんだよな」
いつもより砕けた口調で、ぽつりと呟く。
いつの間にか元副官としての定位置へと戻ってきていたシエルが微笑む。
「とっても素敵な顔してますよ」
「……勘弁してくれ」
⸻
荷馬車が再び動き出す。
車輪の音が霧に溶けていく。
霧の向こうへと続いていく街道。
まだまだ危険は残る。
魔獣も獣も、荒れた森も。
けれど、
少しずつ。
本当に少しずつ。
この街道は、“人が笑顔で通れる道”へと変わり始めていた。
オスカーとシエルは、残党に備えて“殿”として遠ざかる荷車を見つめていた。
昔、襲っていた荷馬車。
今、守っている荷馬車。
その違いを噛みしめるたびに、胸の奥に静かな熱が灯る。
「……悪くない」
「ほんとですね」
シエルが微笑む。
オスカーは、遠ざかる荷馬車を見つめたまま小さく頷いた。
「そうだな」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
オスカーとシエルの出会いについても、いつか物語として形にできればと思っています。
レオンとエリザベート、そして仲間たちの旅路を、これからも温かく見守っていただければ幸いです。




