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第37話 静かな誇り

 領都グランディア、その市街地の中心部にある小高い丘には領主館がある。

 そして丘の麓、市街地へと繋がる場所に行政府がある。


 人間同士の勢力争いとは別に、魔獣という脅威が存在するこの世界では、男の子の憧れは武官だ。文官志望の子どもなんて見たことがない。

 魔剣を操り、銀嶺の剣姫と呼ばれる美貌の領主に憧れる女の子の夢は、エリザベート様のような女性になること。文官志望の子どもなんて聞いたことがない。


 理由は他にもある。

 文官の仕事は子どもには分かりづらいから。

 

 地味で。

 忙しくて。

 目に見える栄誉はあまりない。


 戦場で剣を振るえば称賛される。

 魔獣を倒せば酒場で武勇伝になる。

 だが帳簿整理の巧みさが街で褒められることはない。


 不足する税収のやり繰りをするため、夜更けまで計算し続けても、誰も英雄扱いなどしてくれないのだから。



 そして今。

 行政府とは名ばかりの古い屋敷の二階は、半ば戦場と化していた。


「だからこの予算配分は先月分と整合性が取れてません!」


「カウム村の改革費用はどこの予算を組み替えたんだ!?」


「鉱山用荷車の製作費、また追加申請がきてるぞ!」


「通行税の増収分、まだ集計が終わってません!」


 誰もが余裕を失っていた。


 忙しさが休息を奪い、睡眠不足が集中力を削ぐ。

 ばらけた思考は非効率を生み、焦りはミスを誘発する。

 その結果が長時間労働へと繋がり、さらに余裕が失われていく。


 紙の擦れる音。

 ペンが机を叩く音。

 積み上がる帳簿。

 乱雑に置かれた書類。


 季節は初夏。

 天上からの陽光が窓の縁をわずかに照らす薄暗い執務室の中には、疲弊した文官たちの呻き声が満ちていた。


 そして、その中心で。

 サラ・レンドルは一心不乱に帳簿をめくっていた。

 フォルスワーグ領の中でも、成績優秀者のみが進学する隣領の領都学校を主席で卒業した才媛にして、この領の物資の売買・補給・管理全般の責任者。


 肩口で切り揃えられ黒に近い濃紺の髪。

 好奇心に満ちた琥珀色の瞳。

 教室で二番目に可愛い顔。

 細身で小柄な身体。


 動きやすさ重視の質素な白シャツと淡い茶色のズボンを身に纏った、この二十代前半の女性は、一見すると入りたての見習い文官のようだ。


 だが、その指先と視線は恐ろしく速い。


 数字を追い。

 誤差を見抜き。

 矛盾を拾い上げる。


 兵士も文官も商人でさえもが知っている。

 サラの前で数字をごまかすのは不可能だと。



「サラさん……」


 若い文官が泣き笑いのような表情を浮かべて近づいてくる。

 若いといってもサラより年は三つほど上のはずだ。


「レオン補佐官から追加申請が……」


「見せてください」

 サラは平静を装いながら、淡々と紙の束を受け取った。

 分厚い書類を持つ手が微かに震える。

 それでも手を止めるという選択肢は、彼女には最初から存在しなかった。


 いつの間にか静まり返った室内に、書類をめくる音だけが響く。

 沈黙が場を静かに包み込む。


 サラのこめかみがわずかに跳ねた。


「街道補修追加工事費」

「貯蔵葉作成時日当」

「鉱山労働者防塵布配布」

「夜間市場治安維持増員費」

「宿場町活性化対策費用」


「……なぜ一度に出して来るんですかあの人は……」


 部屋で息を殺していた文官たちが深く頷く。


「成果出すから余計に困るんですよね……」

「領主様も乗り気だから止められないんだよな……」

「しかも見積もりが完璧で反論できないのが辛い…」


 サラが、目をつぶり眉間の皺をほぐす。

 そのまま額に手を当て、天井を見つめると深々と息を吐いた。

 

 胃が痛い。

 最近ずっと痛い。


 だが。

 彼女自身、分かっていた。

 領地が変わってきていることを。


 ぱらり。

 先ほどまで見ていた帳簿をめくる。


 そこに並ぶ数字は、以前と違っていた。


 市場への出店数の増加。

 隣領への輸出品の増加。

 鉱山関連収益の増加。

 羊毛や羊肉取引額の上昇傾向。


 数字に“勢い”がある。

 税収の伸びを予測しながら先行投資を進める余地がある。


 以前までの帳簿は酷かった。


 削減。

 赤字補填。

 未回収。

 不足。


 どの頁をめくっても、延命処置のような数字ばかりだった。


 どこを削るか。

 どこを諦めるか。


 それしかなかった。


 だが今は違う。

 金が流れている。

 投資が回収され始めている。

 数字が“次へと繋がっている”。



 サラは思索の深みから浮かび上がると、視線を上げた先にある窓を見た。


 開け放たれた窓の向こうには、夕暮れの気配がそっと広がっている。

 赤い陽光が石造りの街を照らしている。

 遠くの市場通りには、人の流れが見えた。


 荷車。

 商人。

 職人。

 そして、行き交う領民たち。


 以前より明らかに多い。

 かつては空き家ばかりだった通りにも、最近は新しく開いた店の看板が増えている。


(本当に変わってきてる)


 すっと心が受け入れた。静かにそう感じた。



 その日の夜。

 仕事を終えたサラは、自宅への石畳を歩いていた。


 領都北区。

 行政官や下級役人が多く住む古い住宅街だ。

 豪華ではない。

 だが最近、この辺りにも少しずつ灯りと活気が戻ってきている。


 家へ着くと、小さな足音が飛んできた。


「おかえりなさい!」

「姉ちゃんおかえり!」


 妹と弟だった。

 まだ十二歳と九歳。

 両親は既に亡くなっている。

 昼は通いの家政婦の助けを借りながら、

 サラが懸命に働き、育ててきた。

 この子たちだけは、絶対に飢えさせない――それがサラの、誰にも言わない誓いだった。



「今日は少し遅かったですね」

 急に大人びた話し方をするようになった妹が、心配そうに問いかけてくる。


「仕事が増えたの」


「またレオンさん?」


「もちろんよ!」

 即答だった。


 小さな家の中には、煮込まれたスープの匂いが漂っている。

 狭いが、暖かい家だった。


 サラが買い物袋を机へ置くと、弟が目を丸くした。


「わぁ……!」


 袋の中には、今日焼かれたであろう香ばしい香りのするパン。

 塩辛い干し肉ではない、熟成された羊肉の塊。

 そして――白いチーズ。


「帰りに市場へ寄ったら、新鮮なカウム村の品が入ってたのよ」


「すごいです!」

「ごちそうだ!」

 妹弟が目を輝かせる。

 お姉ちゃんと同じ琥珀色の瞳が、ランプの光を映して煌めいていた。



 以前なら考えられなかった。


 肉や乳製品は高価だった。

 慢性的な税収不足にあえぐ行政府から出る給金では、責任者であるサラと言えど頻繁に買うことはできなかった。


 だが最近は違う。

 市場への流通が増え、価格も少しずつ安定し始めている。



 遅くなった夕食の席。

 姉と食べるために頑張って起きていた弟が、嬉しそうにチーズを齧る。

「チーズってこんなに旨いんだね!」


「お肉も前より柔らかくて、美味しいです」

 妹が幸せそうに笑う。


 その笑顔を穏やかに見守りながら、サラは静かにスープを口へ運んだ。


 温かい。

 胸の奥にも、同じ温もりが広がっていく。


 昔は、こんな食卓ではなかった。


 固い黒パンだけの日もあった。

 妹弟へ食べさせるため、自分は水だけで寝たこともある。


 家の中も外も、どこもかしこも未来は暗かった。

 努力しても、“減る速度を遅らせる”だけ。

 そんな毎日だった。


 でも今は違う。


 少しずつ。

 本当に少しずつだが。

 領地が豊かになっている。



「……お姉ちゃん?」


 妹が不思議そうに見つめてくる。


 気づけば、サラはそっと微笑んでいた。

 胸の奥に張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていく。


「なんでもないわ」


 そう答えると、サラは小さく息を吐いた。

 その吐息には、安堵の温もりが静かに混じっていた。



 翌朝。

 初夏の陽射しが明るく差し込む執務室で、今日もサラは山積みの書類と向き合っていた。


 コンコン、丁寧なノックとともに、扉が開く。


「失礼します」

 聞き慣れた声。聞き慣れてしまった声音。

 濃い灰色の髪と珍しい漆黒の瞳、レオンだった。


 嫌な予感しかしなかった。

 文官たちが固唾を飲み、補佐役の次の一言を待ち構えている。


「……今度は何ですか」

 覚悟を決め、サラが恐る恐る声を絞り出した。


「新規事業提案です」


「帰ってください」


「まだ何も言ってません」


「その腹の立つ笑顔で十分伝わりました」


 レオンは苦笑しながら書類を差し出した。


 サラが観念した顔で受け取る。


 読む。


 沈黙が部屋に落ちる。



「灌漑事業……」


「はい」


「農地拡張計画……」


「必要です」


「水車導入試験……」


「効率化できます」



 サラは静かに天を仰いだ。


 胃が痛い。

 本当に痛い。


 なのに。

 書類の数字がサラに語り掛けてくる。


 領主様のお気に入りで、私が頼りにしているこの男の計画――その投資が、領地を前へ進めていることを。領民に明るい未来と笑顔を連れてくることを。



 レオンの無茶は、確かに胃に悪い。だが、その無茶が領地を動かしているのも事実だった。

 サラは深々と息を吐き、琥珀色の瞳でレオンを見つめて言った。


「次は何を変えるつもりなんですか?」


 レオンは穏やかに、そして迷いなく笑う。


「もちろん、この領のすべてをです」


 その瞬間、執務室の文官たちは一斉に絶望の色を浮かべた。

 けれどサラだけは、かすかに口元を緩めていた。


 困り果てながら。

 呆れながら。


 それでも……、胸の奥では、この愛するフォルスワーグの地を“前へと進めている”という、静かな誇らしさが温かく息づいていた。

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