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第36話 視察の夜に

 この国の北西端に位置する辺境領フォルスワーグ。

 美貌の領主が治めるこの地の中心、領都グランディアの黄昏は、いつの間にか以前よりもずっと明るい色を帯びるようになっていた。

 

 それは単純に、街灯の数が増えたという話ではない。

 人の気配が増えたのだ。


 石畳を踏み鳴らす足音。

 酒場からこぼれる笑い声。

 鍛冶場の奥から響く鉄槌の音。

 炭火の匂いと、焼けた肉の香り。

 行き交う領民たちに声をかける商人たち。


 夜と昼の境目が、こんなにも“生きている時間”だったのかと、最近のグランディアを歩く者は少し驚く。


 ほんの数か月前まで、この街の逢魔が時はもっと静かだった。


 沈み込むように。

 冷え切るように。


 誰もが早く家へ帰り、扉を閉ざし、暗闇をやり過ごそうとしていた。


 だが今、日暮れは終わりではない。

 新しく金が動き、人が集まり、商いが続く時間へ変わり始めている。



 薄暮。

 空が朱に溶ける頃。


 中央市場通りの入口で、レオンは深いため息を吐いていた。

 いつもの穏やかで自信に満ちた表情とは違う。


「……やっぱり無理があります」


「何がだ」

 不満げな美しい声が返ってくる。


 目の前には、灰色の外套を羽織った女性が立っていた。


 エリザベート・ル・フォルスワーグ。


 辺境伯にして魔獣防衛の要。

 銀嶺の剣姫。

 戦場では魔剣使いと恐れられる文武両道の領主。


 その本人である。


 そして今、彼女は“変装”しているつもりだった。


「ですから、目立ちすぎなんですよ」


「なぜだ」

 悪気のない澄んだ声。

 

 小首をかしげる仕草が、意外なほど可愛らしい。


「自覚がないんですか……」

 レオンが額を押さえ、深くため息をつく。

 本当に困った時にだけ出る、重い息だった。


 確かに装いは地味だ。

 装飾の少ない旅装束。

 武具も最低限。

 貴族特有の刺繍もない。


 だが問題はそこではない。


 まず、顔立ちが整いすぎている。

 濃紅の長髪は何とか外套のフードに押し込んでいるものの、見るものを魅了する端正な美貌は隠しきれない。


 次に、立ち姿が美しすぎる。

 上級貴族であり一流の剣士である彼女の佇まいは、どう取り繕っても隙がない。


 そして何より──蒼い瞳が目立ちすぎていた。


 夕暮れの灯火を受けるたび、淡く煌めき、人混みの中でも異様な存在感を放っている。


 隠れるどころか、むしろ目立っていた。



「あれは誰だ?」

「旅の貴族様か?」

「すげぇ綺麗だな……」


 通りの人々がちらちら視線を向ける。

 当の本人はまったく気づいていない。


「あきらめて帰りましょう」


「嫌だ」

 即答だった。


「今日は視察だ」


「夜市見物ではなく?」


「視察だ」


 妙に力強く言い切る傍若無人な領主様。

 その心から嬉しそうな表情に、レオンは抵抗することを早々に諦めた。



 二人は市場通りへ足を踏み入れる。


 日暮れの風はほんのり暖かく、初夏特有の湿り気を含んだ空気に炭火の香りが混じる。

 道の両脇には露店が並び、吊るされたランプの火がゆらゆら揺れていた。


 新しい鍋を売る鍛冶屋。

 羊毛織物を吊るす店主。

 干し肉を積み上げる食料店。

 果実や野菜を並べる露店。


 どの店にも、以前より多くの人がいた。


 そっと外套の端を掴んでくる白い指に気づかないふりをしながら、レオンはゆっくりと周囲を見渡す。測り、観察する。


 以前の市場とは明らかに違う。


 “止まっていない”。


 人が流れ、金が流れ、声が飛び交う。

 街に循環が戻り始めている。


「増えたな」

 隣りでエリザベートが呟く。


「はい、明らかに増えています。人も物も」


 短い言葉を交わす。

 ふと、熱いものが二人の双眸にあふれてくる。

 この時ばかりは、互いの視線は交わらなかった。



 領地経営とは、戦争のように結果がすぐ見えるものではない。


 街道を整え。

 治安を維持し。

 鉱山を立て直し。

 牧畜を改善し。

 

 そして、商人や領民の不安を取り除く。


 その積み重ねがようやく“街の熱”として現れ始めている。



「おっ、レオンの旦那!」

 不意に大声が飛んだ。


 見ると、羊串焼きの屋台の親父が大きく手を振った。

 炭火の前で汗だくになりながら、顔を真っ赤にしている。


「この前紹介してもらったカウム村の羊肉、評判いいぞ!」


「それは良かったです」


「脂が違うんだよ脂が!」


 じゅう、と肉汁が炭へ落ちる。

 香ばしい煙が立ち昇り、美貌の旅人を含む周囲の客の鼻先をくすぐる。


 小さく腹を鳴らした誰かが、蒼い瞳をそっと伏せる。


「あの村の羊か……食べておく必要があるな」

 エリザベートが真顔で言う。

 フードの中に垣間見える頬が、ランプの灯りのせいか赤く見えた。


「念のための確認ですが、今日は視察ですよね?」


「もちろんだ。カウム村改革の成果の確認だ」

 

 便利な言葉だった。



 エリザベートは串焼きを受け取ると、少し離れた石橋の方へ向かって歩き出す。

 変装しても人混みに紛れられないと、ようやく理解したらしい。


 焼きたての羊肉は熱くて旨かった。

 岩塩と香草だけの味付けだが、噛めば肉汁が溢れ、炭火の香りが鼻へ抜ける。


「……美味い」

 エリザベートが少し驚いたように呟く。


「前よりかなり良くなってますね」


「脂が乗ってるな」


 カウム村の改革成果が、こうして街へ流れ込んできている。


 放牧地の管理。

 干し草の改良。

 保管場所の改善。


 地味で地道な努力。

 だが、その積み重ねが確実に味を変えていた。


 その時、小さな兄妹が駆け抜ける。


「急げ急げ!」

「揚げ黒パンがなくなるー!」


 お世辞にも綺麗とは言えない粗末な服だ。

 でも、顔色は悪くない。

 目に生気がある。顔に笑みがあふれている。


「最近は陽が沈んでも怖くねぇんだってさ」


 近くの露店商が客と笑いながら話していた。


「兵士が増えて、見回りが増えただろ?」

「“茨の聖域”の連中な」

「あいつら案外真面目だよ」


「この前なんか、酔っ払いに絡まれている女性を助けてたんだぜ……」


 そこへ、別の客が会話に加わった。


「あいつら、昔は悪さしてた連中だろ?」

「そうだよ。けど今は兵士だ。夜警も真面目にやってる」

「最初は怖かったけどな……今じゃ頼りにしてるよ」


 エリザベートは黙ってその話を聞いていた。


 “茨の聖域”と名乗っていた義賊たち。

 かつて貴族や豪商たちの積み荷を襲っていた集団は、今では新入りの兵士として夜警や護衛、領内各地の警戒任務にあたっている。


 最初は誰もが半信半疑だった。


 当然だ。


 だが彼らは誰よりも懸命に働いた。

 泥臭く。

 不器用に。

 少しずつ信頼を積み重ねた。


「変われてよかった。報われてよかった」

 エリザベートの端正な唇から、思わずこぼれた本音。


 その声は小さかった。

 だが、深く心に響いた。



 肩が触れそうで触れない、そんな距離感の男女が雑談をしながら石橋へと辿り着く。橋の下では、レオンの瞳に似た漆黒の川がゆっくり流れ、夜の灯りを揺らしていた。

 

 対岸には、新しく増えた露店の火が並んでいる。


 橙色の光。

 笑い声。

 微かに香る酒の匂い。


 以前よりずっと“人の温度”がある景色だった。


 このまま帰るのがもったいないな、不思議な声がふと心をよぎる。

 今まで感じたことのない気持ちが足を止め、エリザベートが欄干へ寄りかかる。

 穏やかな夜風が気持ちよくて、フードから髪を解き放つ。

 濃紅の長髪がふわりと揺れた。


 あらわになった美しい横顔に、レオンが思わず息を呑む。


 領主としての鋭い表情が、今はどこか柔らかい。

 遠くの灯りを映した蒼い瞳が、静かに細められている。


「レオン、私はな」

 不意に彼女が口を開く。


「この領地は、“減らさない”ことしかできないと思っていた」

 静かな声だった。


 守ること。

 耐えること。

 失わないこと。


「それだけで精一杯だと思っていた。いや、自分にはそれしかできないと思い込もうとしていた」


 父を失い。

 若くして領主となり。

 飢饉。

 魔獣。

 盗賊。

 中央や周囲の貴族からの圧力。


 常に“悪化を防ぐ”戦いばかりだった。



「でも、お前は違った」


 エリザベートは、生まれ育った街を静かに見つめる。


「増やしている」


 仕事を。

 人を。

 笑い声を。

 灯りを。


 レオンは少し困ったように笑う。


「皆が頑張っていますから」


「またそうやって誤魔化す」


「事実ですよ」


「領主命令だ、半分だけでも認めろ」


 エリザベートが楽しそうに小さく笑う。

 その笑顔を見た瞬間、レオンは視線を逸らした。


 綺麗だと思ってしまったからだ。

 胸の奥が、かすかに熱くなる。

 この感情に名前をつけるのは、まだ早い。

 だが、確かに何かが動いた。



 普段の彼女は、あまりに凛々しい。

 近寄り難く、強く、美しい。


 だが今は違う。

 夜風の中で見せる横顔には、年相応の女性らしい柔らかさが滲んでいた。


「……どうした」


「いえ」


「変な顔だぞ」


「領主様も普通に笑うんだなと」


 じろりと睨まれる。


「喧嘩を売ってるのか?」


「違います」


 遠くの屋台の灯りが、彼女の頬と耳を赤く染めていた。

 沈黙が落ちる。

 でも、その空気はどこか心地良かった。



 橋の向こうでは、まだ市場の喧騒が続いている。


 行き交う人々の足音が石畳に響く。

 笑い声が夜気に溶けていく。

 子どもたちのはしゃぐ声が遠くで跳ねる。

 店先の暖簾が擦れる音。

 銅貨が触れ合うかすかな金属音。


 生きている街の音だった。


 エリザベートは夜景を見つめたまま、小さく呟く。


「……悪くないな」


「何がです?」


「こういう夜も」


 二人の肩が、遠慮がちにそっと触れ合った。



 風が吹く。


 濃紅と濃い灰色の髪が揺れる。

 街の灯りが川面に映る。


 そしてその夜、領都グランディアには、

 以前よりずっと多くの“生きる熱”が確かに灯っていた。






最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今話のレオン&エリザベートから「第六章:愛おしい日常」として、登場人物たちを深掘りする話を書いていきます。

サラ、オスカー、シエル、ガレス、そして領都で暮らす人々の視点での物語を楽しんでいただければ嬉しいです。


皆様からいただく【ブックマーク登録】や【評価の☆☆☆☆☆(星)】の一つひとつが、この物語を先へ進めるための何よりの糧となっております。

感想や反応をいただけることが、作者にとっては非常に大きな励みです。


レオンとエリザベート、そして仲間たちの旅路を、今後とも共に見守っていただければ幸いです。

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