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第35話 黄金色の夕焼け

 カウム村を発つ日の朝。

 湖面には淡い霧が静かに漂っていた。


 放牧地は夜露を含んで銀色に輝き、朝陽を受けた羊たちが、吐息を漏らしながら囲いの中をゆっくり歩いている。


 吹き抜ける風は相変わらず強く、レオンたちが訪れた日と同じ風鳴りが響く。


 だが、同じなのは風の音だけ。

 カウム村は変わった。最初に訪れた頃とは明らかに空気が違う。


 村人の表情が違う。

 声色が違う。

 会話の内容が違う。

 

 村には、“明日”の話が増えていた。


「春に生まれた仔羊、去年より多く残せそうだ」

「干し草庫、もう一棟作れねぇかな」

「あんな綺麗でふわふわな羊毛なら、街で高く売れるかもしれねぇぞ」


 そんな会話が、自然と聞こえる。

 活気のある明るい未来の話。頑張ったら報われるという期待。


 以前のカウム村には見られなかった、希望に満ちた光景だった。



 シエルの指示を受け、兵士たちが代官屋敷の前に止まっている荷馬車へ積み込みをしている。

 ぼんやりとその様子を眺めながら、レオンは静かにこの村での出来事を振り返っていた。


 放牧地の柵。

 積み上がった干し草。

 肉付きの良くなった羊。

 羊毛の共同作業場。

 清流に漂う白い羊の毛。

 すでに子どもの背丈ほどに伸びた石塔。

 

 どれもまだ粗削りだ。


 だが確かに、仕組みが未来へと“回り始めている”。


「レオンの旦那」

 思考が勢いよく現実に戻ってくる。

 声をかけてきたのはハインだった。


 相変わらず熊のような大男だが、最初に会った時より顔色が良い。

 血色だけではない、険しい顔つきが和らいだ気がする。


「本当にたくさん、たくさん世話になったな」


「こちらこそお世話になりました。無茶も色々言いましたが、ハインさんに協力してもらったおかげで、やりやすかったですよ」


「正直、最初は胡散臭ぇと思ってた」

 ハインが大きな声で笑う。


「でしょうね」


「だが」

 ハインは少し照れくさそうに頭を掻く。


「あんたのおかげで、村の連中が最近よく笑うようになった」


 風鳴りの村に風が吹く。

 薄手の外套がはためく。

 濃い灰色の前髪が、心地よさそうに揺れる。


 その言葉に、レオンは少しだけ目を細めた。

 漆黒の瞳に映る視界がぼやけた気がして、慌てて空を仰ぎ見る。

 澄み渡る青空に浮かぶ雲が、楽しげに母と戯れる少し太った仔羊に見えた。


 数瞬後、ハインに視線を戻したレオンは静かに言った。


「……豊かになるって」


「たぶん、“余裕ができる”ことなんだと思います」

 

 衣服。食べ物。住処。

 時間。

 金。

 そして未来。


 どれか一つでも余裕が生まれると、人は少しだけ笑えるようになる。

 これまでの人生で嫌というほど見てきた。


 逆に、余裕を失った人間は、どんどん追い詰められていく。

 周りが気づかないうちに、自分で自分を追い込んでいく。


 ハインはしばらく黙っていたが、やがて大きく頷いた。


「また来てくれ」

「本当はエリザベート様にも来てほしいが、我儘は言えねえ。お前で良いからいつでも来てくれよな」


「もちろんです。“貯蔵葉”を作るために、秋には戻ってきますよ」

「それまでに“石塔”もしっかり完成させておいてくださいね」

 レオンの声音が珍しく弾む。


「今度は肉を腹いっぱい食わせてやる」


「期待してます」


 お互いの手を固く握りあい、ハインが牧舎へと向かっていく。

 その大きな背中は、カウム村の未来を映すかのように頼もしく見えた。



 出発前。

 時間の経過とともに、爽やかな風に熱が乗ってくる。


 挨拶のために馬車を降りたエリザベートが、村人たちに囲まれていた。


 男の子が珍しそうに彼女の蒼い瞳を見上げている。

 女の子が憧れのまなざしで、風に揺れる濃紅の長髪を見つめている。


 最初は、村人たちと距離があった。敬愛に混じる畏怖があった。


 当然だ。


 辺境伯。

 剣姫。

 魔獣殺し。


 そんな異名を持つ、誰もが見惚れるほど美しい領主様なのだから。


 だが今は違う。


「エリザベートさま!」


 可愛らしい少女が笑顔で駆け寄ってくる。

 拙い“編み紐”を、落とさないように慎重に運ぶ。


「これ!」


 エリザベートが驚いたように目を瞬いた。


「……私にか?」


 少女は勢いよく頷く。


「お礼!」


 エリザベートは少し戸惑いながら、少女と目線を合わせるために腰を落とし、両手でそれを受け取った。


 粗い毛糸。

 不格好。


 だが、一生懸命作ったのが伝わってくる。


「……ありがとう。大事にする」


 その声は、驚くほど柔らかかった。

 少女の目を真っ直ぐに見つめながら微笑む領主様に、周りの大人たちが息を飲んだ。かつて“剣姫”と呼ばれたその人が、今はただ優しく微笑んでいた。



 馬車が動き出す。

 来た時とは違い、レオンが操る軍馬の後ろにエリザベートが乗る。

 以前二人でカウム村の周辺を視察した時と同じ形。


 村人たちが大きな声で別れを惜しみ、力いっぱい手を振る。

 風が草原を揺らし、羊の鳴き声が遠ざかっていく。


 レオンの腰に片手を添え、名残惜しげに振り返ったエリザベートの蒼い瞳には、遠ざかり小さくなっても、まだ手を振り続ける村人たちの姿が焼き付いていた。



 帰路。


 荒野は夕焼けに染まり始めていた。

 黄金色の光が草原へ流れ、雲の影がゆっくり地面を滑っていく。


 馬上からの景色に目を細め、エリザベートはひとつ、かすかな吐息を漏らした。


「悪くなかったな」

 その声音には、ほんのわずかな名残惜しさが混じっていた。


「カウム村の改革ですか?」


「……まぁ、もちろんそれもある」


 少しだけ間が空く。

 心地よい風が馬上の二人を包み込む。


「丘の上も」


 レオンの背中が少しだけ驚いたように固まる。


「また二人で視察に行きましょうか」


「そうだな。暇があればだけどな…」

 少し素っ気なく言いながら、彼女の横顔は嬉しそうに黄金色に輝いていた。



 数日後。


 少し傾き出した陽の下で、領都は活気にあふれていた。

 石畳の街路には荷車が行き交い、市場には人々の喧騒が戻っていた。


 鉱山の麓にあるザルツ村から南へと運ばれていく魔鉱石と魔素石。

 北の穀倉地帯で収穫された新鮮な野菜。


 羊毛や乳製品。

 干し肉などの食料品。


 最近は領都の西にあるカウム村から来る品も少しずつ増えている。


 街が確実に変わり始めている──そんな中で。

 レオンは街の中央部にある行政府にいた。屋敷内の執務室の前で立ち止まっていた。


 重い。

 非常に重い。

 空気が。


「……入りたくないです」


 この扉の向こうにいる“彼女”だけは、魔獣より手強い。

 初めて見るレオンの弱気な顔に、


「じゃあ、一緒に逃げるか?」

 斜め後ろからエリザベートが面白そうに言う。


「無理ですよね?」


「無理だな」


 レオンは深く息を吸い、笑顔を取り繕いながら、いつもどおり扉を開けた。



 部屋の奥。

 大量の帳簿と山積みの書類に埋もれた若い女性の姿が見える。


 サラがいた。

 静かに帳簿をめくっている。


 執務の邪魔にならないように、黒に近い濃紺の髪は肩口で切り揃えられている。

 落ち着いた琥珀色の瞳が、勢いよく文字を追う。


 扉が開く音はしっかりと鳴ったはずなのに。


 静かすぎた。


 ……怖い。


「お帰りなさいませ」


 にこりとした笑顔。

 

 怖い。


「ええと……ただいま戻りました」


 レオンが機嫌を伺いながら切り出す。

 エリザベートが、自然な足さばきでレオンの影に隠れる。


「はい」


 ぱたん。

 

 領主様とその補佐役が来るということで、サラの部下たちは別部屋へと退避している。静かな執務室に、響く音。


 帳簿が閉じられる。


「では」


 サラは柔らかく微笑んだ。

 琥珀色の瞳の光が陰る。


「カウム村の改革費用について、お話を聞かせていただけますか?」


 沈黙。


 レオンはそっと視線を逸らしながら、予算の決裁書の束を手渡す。

 最高権力者であるエリザベートの署名済みの部分をもちろん一番上にして。


 「巻き込むな…」

 レオンの影から、小さく不満げな声が漏れた気がした。



「……必要経費でした」


「村人への大量の日当支払い」


「はい」


「石塔の建設費用」


「必要でした」


「石工たちの秋までの滞在費」


「必要です」


「女性文官警護のための兵士増員」


「必要でした」


「干し草庫の増設補助費用」


「必要でした」


「エリザベート様との丘の上への視察」


「…………」


 エリザベートが思わず吹き出した。


「レオンさん?」


 楽しそうなお仕事ですね…、サラの笑顔が深まる。琥珀色の瞳からさらに光が失われる。


「これは?」


「いや、あの……領主様との意見交換のためと言いますか」


「丘である必要あります?」


「……楽しそうだったので」


 サラは、二人に聞かせるように大きく深く息を吐いた。


 そして額を押さえる。


「あなたは、どうして毎回予算を組む前に仕事を始めるんですか……」

「予算の言葉の意味知ってます?王都では違う意味なんですかね?“あらかじめ”見積もられた金額や計画のことですよ」


「サラさんのおっしゃるとおりです…ですが成果は出ています」

 レオンが小さな声で付け加えると、サラがじろりと睨む。


 だが否定はしない。


 実際、カウム村の収益予測は大きく改善している。


 羊毛の品質。

 肉や乳製品の生産量。

 仔羊の生存率。

 

 全部、結果が数字として出始めていた。

 事実、領都の市場に出回るカウム村産の品物は増えている。


「……分かっています」


 サラは小さく息を吐く。


「だから困るんです」


「はい?」


「成果を出されると……怒りづらいんですよ」


 エリザベートが肩を震わせて笑っている。

 カウム村に行く前の領主は、こんなにわかりやすく機嫌を表に出さなかったのに。

 サラが驚いたように目を瞬かせた。

 かつては決して見せなかった柔らかな表情が、今は自然に浮かんでいた。


「まぁ、いいじゃないか」

 エリザベートが空いた椅子へ腰掛けながら言った。


「今回も未来への投資だ」


「領主様がそうやって甘やかすから……」

 サラが呆れたように、でも少し楽しげに笑った。



 夕陽が窓から差し込んでくる。


 赤い光が執務室を染める。

 忙しさは相変わらずだ。

 問題も山積みだ。


 だが、それでも。

 この場所には以前より、ずっと温かな空気が流れていた。

 それは、確かに積み上がり始めた“輝く未来”の気配だった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「第五章:風鳴りの村」は今話で一区切りとなります。

次話からは「第六章:愛おしい日常」と題して、領都へ戻ったレオンたちの穏やかな日々を描いていきます。引き続きよろしくお願いいたします。


皆様からいただく【ブックマーク登録】や【評価の☆☆☆☆☆(星)】の一つひとつが、物語を進める大きな力になっています。

ご感想や反応をいただくことが、作者にとって何よりの励みです。


レオンとエリザベート、そして仲間たちの旅路を、これからも温かく見守っていただければ幸いです。


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