第34話 極上の羊毛
カウム村のすぐ隣りに、冷たい雪解け水が流れ込む湖がある。
神聖さを帯びた蒼い水面は、 周囲の貧しさを忘れさせるほど澄み渡り、風が吹くたびに細かな波紋を広げていく。
その名もなき湖は、今日も村人たちを支えている。
魚などの貴重なたんぱく源となる恵みをもたらし、生きていくために不可欠な生活用水を供給してくれる。湖があったからこそ、カウム村は続いているのだ。
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次の日の朝。
レオンたちは、放牧地を潤す小川の川辺に集まっていた。
静謐な湖から、唯一流れ出る川は、もちろん透明な清流だ。
その豊かな水を使った羊毛づくりを行うための共同作業場の前で、レオンによる説明が始まろうとしていた。
「では、簡単に昨日の復習です。ポイントは“効率化”と“差別化するための価値”を生み出すこと。では、皆で具体的に考えてみましょう」
レオンが落ち着いた笑みを浮かべて、全員を順番に見る。
「牧舎や家庭でやっている作り方の中で、みんなが一番だと思ったやり方を全員でやる」
牧舎頭のハインが口火を切る。
毛の長さをそろえる。
上手に切る。
きれいに洗う。
最初はみんなで相談しながら作る。
作り方を書いて作業場に貼っておく。
村人たちが、口々に話し出す。そこに時折り、シエルやリオの声も混じる。
「皆で協力して“極上の羊毛”を作ればよい」
意見が出尽くしたのを見計らって、エリザベートが笑みを浮かべながら言う。
全員の視線が、神聖な湖面にどこか似た蒼い瞳に吸い寄せられる。
その瞳に映るものすべてを、彼女は真剣に受け止めていた。
「ありがとうございます。皆さんが言ってくれた話、すべて正解です。そして、他領に真似ができない“極上の羊毛”が作れれば、商人と値段交渉ができます」
レオンがエリザベートの言葉を引き取って続ける。
「では、今から四つの方法を教えるので、一つ一つ一緒にやってみましょう」
朝早く連れてこられた“もこもこの羊”が、不安げに小さく鳴いた。
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乾いた爽やかな風のおかげで、初夏の鮮やかな陽射しが心地よい。
「昨日、ハインさんが言ってくれたとおり、餌の改善で羊毛の質は上がります。そのうえで、“極上の羊毛”のために皆さんが今日から取り組むこと、一つ目は…」
レオンが、石塔づくりのときと同じように指を立てる。
一、寝床と散歩道の整備
「羊たちの放牧地をよく見てください。そこに生えているトゲのあるアザミやイバラの草を根こそぎむしり取りましょう。羊の毛にあれが絡まると、せっかくの毛がズタズタに傷ついてしまいます」
二、毛刈りは、ハサミを一文字に迷いなく
「焦ってハサミをパチパチと何度も往復させてはいけません。一度刈ったあとに『あ、少し残っちゃったな』と思って、もう一度短く刈り直す人はいませんか? あれをすると、短い毛くずが最高の毛に混ざってしまいます」
レオンが説明を切って見回すと、村人たちが慌てて目を逸らす。
「そうなると、糸に紡いだときにプツプツと切れますし、その糸で作る服は、格好の悪い毛玉だらけになってしまいます。ですから、ハサミは砥石できちんと研いでおくこと。そして、羊の肌に沿って、根元から一回で滑らかに刈り取るようにします。羊を傷つけて血で汚してしまうのも厳禁です。だって、お互いに痛い思いはしたくないですから」
最後の一言をレオンが付け加えると、村人たちの顔に笑みが戻る。
「では、ハインさん、連れてきた羊で毛刈りの見本をお願いします」
レオンの言葉に数人の村人たちが準備に動く。
億劫そうに羊が前に出る。
爽やかな風でせっかくの羊毛が吹き飛ばされないよう、羊を中心に大きな円ができる。
興味深そうに前へ出たエリザベートの深い蒼と、シエルの澄んだ青が同時に煌めいた。
牧舎頭のハインが、作業小屋から大きな鉄バサミを持って戻ってくると、鮮やかな手付きで毛刈りが始まる。一切の迷いがない動き。あっという間に“もこもこした羊”の本当の姿があらわになる。エリザベートとシエルの瞳が丸くなる。
「ありがとうございます。さすがはハインさんですね」
敬愛する領主様の前で褒められたからか、ハインの口角が嬉しそうに上がる。
「それでは、この刈ったばかりの羊毛を使って、説明の続きをします」
三、欲張る者は、貰いが少ない
「皆さん、刈り取った羊毛はそのまま袋に入れないでください。お尻の周りや足の毛を見てください。泥や糞尿で汚れてゴワゴワしていますよね。この部分は思い切って捨てます」
エリザベートとシエルが、よく見ようとさらに前へ身を乗り出す。
羊を抑えていた村人たちが、慌てて美し過ぎる女性たちから羊を遠ざける。
「もったいねぇ…」
誰かの呟きが漏れる。
「もったいないと思うかもしれませんが、ここは思い切って捨てましょう。私たちが売るべきなのは、羊の背中や脇腹から採れる、最も柔らかくて、細くて、長くて美しい毛だけにします。この部分を選別して、絡みついた藁や草や種を手作業で優しくはたき落とす。このひと手間で、“極上の羊毛”がぐっと近づきます」
レオンはここで説明を一区切りさせると、村人たちの顔を見渡した。
ここ最近では珍しく、不満げな表情が垣間見える。
自分の出番だとばかりに牧舎頭のハインが手を挙げた。
「今よりも仕事が増えるのは、ちょっとばかししんどいな」
だが、その声にはどこか期待も混じっていた。
レオンは、ハインに感謝の視線を送ると、静かに見守っていたオスカーに目線を移す。
(サラさんがいれば、彼女に説明させたいところですが、今はいないですし)
領都に戻ったら予算調整で苦労をかけることが確定している琥珀色の瞳を、ふと思い出す。なぜか冷汗が背を伝う。
「オスカーさんは、どう思われますか?」
「不要な毛を捨てることで、袋詰めの作業が減る。そして、減った分の時間を選別に充てる。後は、この先全体の羊毛量が増えた場合は、選別の作業を手が小さな子どもにさせてもよいと思う。そして、何より大事なことは、商人の買値がかかった手間以上になることだと思う」
村人たちに納得が広がる。ハインが頷きながら、レオンに視線で続きを促す。
四、仕上げ洗いは魔法の水で
「では続きです。選別して残した毛にこびりついた“脂と汚れ”を、この魔法の水を使って落とします。では、実際にやってもらいましょう」
レオンは、リオに持たせていた壺をハインへと渡す。
村人たちが作業場から大きなたらいを持ってくる。
「羊毛をこの魔法の水に浸したあと、小川の清流で、泡と匂いが消えるまで優しく、徹底的にすすぎます。……どうですか?ベトベトした脂が綺麗に落ちましたよね」
ハインの作業を見守るために、全員が川辺に移動する。
エリザベートとシエルが身を乗り出し過ぎて川に落ちないか、オスカーが珍しく焦った様子で見守る。
「 羊毛が乾いたら、後で皆さんで触ってみてください。まるで雲を掴んでいるかのように、ふんわりと白く、柔らかいですよ」
楽しみにしてくださいねと、レオンが笑いながら村人たちに話しかける。
作業を終えたハインが、まだ信じられない様子で洗った羊毛を見つめている。
瞳に鋭さを宿したエリザベートが、濃紅の髪を翻しながら詰め寄ってくる。
綺麗で可愛らしい口元に、どこか獰猛な笑みが浮かぶ。
「レオン、私は聞いていないのだが。魔法の水とやらのことを」
レオンは、予想していたかのように、自然な動きで懐から折りたたんだ紙を取り出すと、惚けていたハインを呼び出し、エリザベートとハインに“声を出さずに”読むよう伝えた。
紙の内容は⸻
『魔法の水の作り方』
・魔法の水の正体は、木灰の上澄み液
・薪ストーブやパン焼き窯から出る“木の灰”を水と一緒に大きな桶に入れる
・よくかき混ぜ、そのまま一晩そっとしておくと灰が底に沈む
・上の方に少しぬるぬるした透明な“上澄み液”ができる。
・この上澄み液だけをすくい取って、必ず水で薄めて羊毛を浸す
・混ぜた液が、触って少しツルッとするくらいの手触りになるとよい
・ぬるま湯で薄めて使うともっと効果が出る
「皆さん」
二人が読み終わったのを見て、レオンがいつになく大きな声で村人たちへ呼びかける。
「魔法の水の作り方は、領主様と牧舎頭のハインに伝えました。他領に真似されないよう、この製法だけは秘伝扱いにします。知っているのは、領主様と私とそして牧舎頭だけです。ハインさん、この意味がわかりますね」
レオンの冷たい声音に、顔面蒼白となったハインが小刻みにうなずいた。
「では、最後におまけです」
一瞬で切り替わるレオンの顔、そこにはいつもの笑顔が浮かぶ。
「もし、毛の色が混じり気のない“純白”の羊が生まれたら、その子を特に大切に育てて、次の世代の親にしてください。染め物師たちがどんな色にでも美しく染めることができる真っ白な毛は、とても貴重で王都でも重宝されます」
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夕暮れ。
風が丘を渡る。
草原は茜色に染まり、羊たちの灰色の毛並みが夕陽に輝いて赤く映える。
新しく区切られた放牧地。
積み上げられる干し草。
新たな製法が始まる川辺の共同作業場。
村は劇的に変わり始めていた。
ハインは丘の上でその景色を見ていた。
隣りには、レオンが立っている。この景色を見せたくて、ハインが村民しか知らないとっておきの場所へと誘ったのだ。
「……なぁ」
「はい」
「なんで、そこまでやれるんだ」
ハインの口から絞り出された低い声。
「普通の役人なら、文官なら、税だけ取って終わりだろ」
風が二人の外套をそっと揺らした。
遠くで羊の鳴き声が聞こえた。
「豊かにならないと、守れませんから」
「守る?」
「土地も、人も、その笑顔も」
レオンの声は静かで、だからこそハインの心に染み込んでいく。
二人の間に沈黙が落ちる。
やがて、響く小さな笑い声。
「変わった奴だな」
「よく言われます」
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夕陽が沈んでいく。
空は赤から紫へ変わり、冷たい夜風が草原を撫で始めていた。
だが、カウム村の空気は以前とは明らかに違う。
もう諦めの村ではない。誰にもそう呼ばせない。
まだ小さい。
だが確かに、“積み上がる未来”がそこに生まれ始めていた。
その未来を、今度は自分たちの手で守っていくのだと、誰もが静かに感じていた。




