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第32話 風が渡る丘で

 カウム村の朝は、風の音で始まる。


 夜明け前、山地から吹き下ろす涼やかな流れが丘陵を渡り、草原を波のように揺らしていく。その音はまるで海鳴りのようで、静かな村の中へゆっくり染み込んでいた。


 東の空が白み始める頃。

 剣の腕が鈍らぬよう、できる範囲で続けている鍛錬を終えたレオンは、代官屋敷の庭にある井戸で顔を洗っていた。


 冷たい水が頬を打ち、心地よい風が熱を奪っていく。

 遠くから羊の鳴き声が聞こえ、家々の煙突からは朝餉の煙が細く立ち昇っていた。



「随分早いな」

 背後から凛とした美しい声がする。

 あえて気配を殺して近寄ってきた人影。

 

 驚いた演技がわざとらしくなかったかと反省しつつレオンが振り返ると、そこにはエリザベートが立っていた。


 白み始めた空が、徐々に色付いていく。

 レオンの熱を奪っていった風が、エリザベートの濃紅の髪を巻き上げ、空の色と溶け合うように揺れた。

 敬愛する領主が近づいてくることは、少し前から分かっていたはずなのに、その美貌と幻想的な光景が言葉を奪い、沈黙が落ちる。胸の奥が、理由もなく熱を帯びた。


 朝焼けの光を浴びた蒼瞳の女性は、いつもの文官姿ではなかった。


 淡い翠の軽装外套に、洒落た装飾の施された長靴。腰にはいつもの魔剣はなく、護身用の短剣だけを下げている。

 艶やかな長髪は、細い革紐で後頭部の高い位置へと固く、厳かに結い上げられている。露出したうなじが朝の光を浴びて、白く淡く輝く。

 彼女が歩を進めるたび、一房の毛並みはまるで草原を駆ける駿馬の尾のように軽やかに、美しく朝焼けの空を払った。


 それは、普段の強くて鋭い領主の姿より少し幼く見える。綺麗でいて可愛らしい。領主ではなく、一人の女性としての彼女がそこにいた。

 レオンの顔に自然な笑みが広がった。


「おはようございます。今日は、カウム村周辺の“視察”でよろしかったですよね?」

 レオンが口角をわずかに上げなから話し掛けると、エリザベートは鼻を鳴らした。


「もちろんそうだ。それ以外に何がある」

 だが、その口調はどこか軽い。

 レオンの漆黒の視線を釘付けにしていたことに気づいているのか、いつもよりよく見える耳が濃紅の髪色に溶け込んで見えた。



 本日の予定は、カウム村周辺の放牧地および岩塩採掘地の視察。


 ……という名目だった。


 昨日、石工たちから「今日は“石塔”づくりのための下準備がしたいので、全体作業はなしでお願いします」と言われていた。

 つまり、珍しく“急ぎの仕事がない”ということだ。

 もちろん、ハインを含む村人たちには日々の仕事がある。明日からの石塔づくりの作業量を考えると、降ってわいた貴重な一日。


 そういう事情もあってか、昨日の夕食の場で、シエルがカウム村周辺の視察をエリザベートに勧めたのだ。エリザベートが頷くや否や間髪入れずに案内役として、すでに村周辺の下見を終えているレオンが適任だと指名された。

 エリザベートの蒼い瞳が光を増し、食卓の下でこぶしがぎゅっと握られる。

 

 レオンとエリザベートは、領内でも有数の剣の使い手である。

 見晴らしがよく、魔獣も肉食獣もほとんど生息していないカウチ村周辺の視察のために、護衛の必要は正直あまりない。

 だが、仮にも領主の視察に護衛が自分一人というわけにはいかないのではと、レオンが同席していたオスカーやリオに声を掛けたのだが、何かに怯えたような表情で強く拒否された。


 二人の目に映るのは、澄んだ四つの青い瞳──エリザベートの深い蒼と、シエルの澄んだ青。

 その視線に射抜かれたように、オスカーとリオは揃って小さく身を固くした。



 きっちりと区分けされた草原と荒野からなる放牧地を、一頭の軍馬がゆっくりと進む。フォルスワーグ領までの旅路を共に過ごしたレオンの愛馬は逞しく、二人乗りでも安定していた。いや、美貌の領主様を乗せている分、丁寧な気がした。


 春用の放牧地では多くの羊たちが元気に草を食み、牧羊犬が時折りレオンたちを警戒の目つきで監視する。


「せっかくですから、あの丘の上まで行ってみませんか」


 レオンがそう提案すると、エリザベートはぱちりと瞬きをして、少し意外そうに眉を上げた。


「丘?」


「はい。以前、この辺り全体を見渡すために登ってみたのですが、とても景色が綺麗でした。風も気持ちよかったですよ」

 レオンは前を向いたまま、自然な声色を装いながらわずかに早口で言う。


「ふうん……お前が景色を語るなんて、珍しいこともあるものだな」

 エリザベートは口元にうっすら笑みを浮かべ、からかうようにレオンの後ろ髪を見上げる。


「景色くらい当然見ます。見る時もありますよ…たまには」


「わかったわかった。どうせ普段は仕事のことしか考えてないだろうに」


「……否定はしませんけど、今日は違うんです」


「そういうところが相変わらず、生意気なやつだ」

 言葉とは裏腹に、エリザベートの声はどこか楽しげだった。



 丘に続く朝露の残る草原を、二人は並んで歩いていた。

 後ろから、木に繋がれた馬の嘶きが聞こえてくる。


 乾いた涼やかな風が吹くたび、草がさわりと揺れる。

 囲いの柱に寄り掛かる羊はまだ眠たげで、仔羊が母羊へ身体を擦り寄せている。


 晴れた初夏の空気は澄んでいた。


 草の匂い。

 土の匂い。

 そして、遠くの林から流れてくる針葉樹の香り。


「……静かだな」

 エリザベートがぽつりと呟く。


 風の音さえ、二人の時間をそっと包むように流れていった。


「領都も嫌いではないが、こういう場所は心が落ち着く」

 その美しい横顔は、どこか柔らかかった。



 彼女は本来、戦う側の人間ではない。

 だが、切れ味鋭い魔剣があり、肉食獣をはるかに上回るどう猛さを持つ魔獣が棲息するこの世界では、貴族女性でも幼い頃から剣を握るのは当たり前だった。

 

 先代の領主──彼女の父が戦死してからは、若くして領主となり、周囲の貴族たちから侮られまいと必死に背筋を伸ばし、強く気高くあろうと努力してきた。


 女だから。

 若いから。

 弱いから。

 そう言われ続け、その全てを実力で黙らせてきた。

 常に最前線で戦ってきた。


 だからこそ、人前では決して弱みを見せない。

 領主として過ごした八年余り。

 腹心のガレスにすら、弱音を吐いたことは一度もない。


 それが今。

 この風の中では、少しだけ肩の力が抜けて見えた。



 丘の中腹まで登ったところで、レオンは足を止めた。


「ここです」


 視界が開ける。

 眼下には、カウム村。

 石造りの家々。

 白や灰色の羊たち。

 新しく作られた放牧柵。

 干し草小屋。

 そして、遠くまで続く波打つ草原。


 朝陽が斜めから差し込み、一面の草が風に煌く。

 村に寄り添うように佇む湖の水面が陽光を浴びて黄金色に染まっていた。


 エリザベートは、双眸を細めて小さく息を呑む。


「……綺麗だな。本当に綺麗だ」

 溢れ出たその声は、心の声を素直に代弁していた。


 重苦しくない、穏やかな沈黙が続く。

 丘を風が強く吹き抜ける。渡っていく。

 濃紅の髪と濃い灰色の髪が近くで揺れる。

 外套の裾が翻る。


 彼女は目を細めながら、眼下に広がる景色を愛おしそうに見つめる。

「この村も変わろうとしているんだな」


「はい」


「カウム村に来て、お前の仕事を目の当たりにして、まだわずかな時しか経っていないのに、もう変わり始めている。人も羊も土地そのものでさえ」


 レオンは、すぐ隣りに立つエリザベートの蒼い瞳をちらりと覗き込むと、頷いた。


 実際そうだった。

 草は痩せ。

 羊は減り。

 人々は諦めていた。


 だが今は違う。

 

 囲いが作られ。

 干し草が積まれ。

 羊が太り。

 石塔が建とうとしている。


 大人の、子供たちの笑い声が聞こえる。

 土地に“命の循環”が戻り始めている。


「お前のおかげだな」

 不意にエリザベートが言った。


 レオンは苦笑する。

「皆が動いた結果ですよ」


「それでも最初に動かしたのはお前だ」

 信頼と親愛の籠った、真っ直ぐな声だった。


 少し気恥ずかしくなり、レオンは視線を逸らす。


 その時。


 エリザベートが小さな包みを差し出した。

「……食うか」


「え?」


「朝、厨房から勝手に持ってきた」


 中には黒パンと干し肉、それから小さな白い塊。

 出来たばかりの羊乳チーズだった。


「領主がつまみ食いしていいんですか」


「視察に必要だからな」


「便利な言葉ですね」

 仲のよさそうな男女の笑い声が風に運ばれ、遠くで牧羊犬の吠える声がした。


 ひとしきり笑うと、二人は小さな岩の上に並んで腰を下ろした。


 風が吹く。

 遠くで羊が鳴く。

 雲がゆっくり流れていく。


 エリザベートはチーズを一口かじり、少し驚いた顔をした。

「……美味いな」


「新鮮なので領都で食べるより癖が少ないですね」


「もっと臭いかと思っていた」


「熟成前ですから」

 レオンも少しかじって笑顔になる。


「なぁ、レオン」


「はい?」


「お前、何者なんだ」

 ふいに発せられたエリザベートのか細い声は、風の中へ溶けるような声色だった。


 レオンは少しだけ黙る。先ほどまでとは違う重苦しい沈黙。


 生まれ育った領、自分の過去、課せられた人生からの逃亡。

 全部を説明する勇気はまだない。


「……ただの文官ですよ」


「ただの?」


「ええ」


「本当に?」


「たぶん」


 エリザベートは呆れたように笑った。

「お前の“ただ”は信用できん」


 二人で笑う。今はここまででいい。いつかもっと……


 優しい風が丘を滑り降りていく。

 その時間は、不思議なくらい穏やかだった。



 見晴らしの良いテラス席での食事が終わると、エリザベートは目の前の草へ寝転がった。

 美しい髪に枯れ草が絡まる。美貌の領主の誰も見たことがない珍しい姿。


 いつも張り詰めている彼女が、完全に力を抜いて空をぼんやりと眺めている。


「……こういう時間は久しぶりだ」

 ぽつりと呟く。


「最近ずっと忙しかったですからね」


「お前のせいでもある」


「否定できません」


 青空が広がっていた。

 白い雲が流れていく。

 風は心地よく、草の香りがする。


 エリザベートは横目でレオンを見る。


「だが、悪くない」


「何がです?」


「忙しいのも、お前と一緒なら」

 勇気を振り絞ったその言葉はあまりにも小さく、風鳴りに溶けて消えていった。


 辺境はまだ貧しい。

 問題も山積みだ。


 だが──


 こうして誰かが誰かと笑える時間が確かに増えていた。


 風が丘を渡る。

 草原が揺れる。

 羊たちが鳴く。


 そしてその丘の上には、ほんの束の間だけ、領主と補佐官ではない二人の穏やかな時間が流れていた。

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