第30話 羊たちのご馳走
草原と荒野の区分け作業に目途が立った次の日の朝。霞のない空はどこまでも青く澄み渡っていた。
遠くで仔羊の形に似た雲が一つ、気持ちよさそうに流れている。
初夏の空と、春の爽やかな風が交差する幸せな朝の時間。
牧舎頭のハインを含めた顔馴染みの村人たちが、今日も門の前、草原が目の前に広がる場所に集められる。
すっかり牧童たちと仲良くなったリオはもちろん、オスカーとシエルも村人たちの側に混ざっている。
村人たちの表情は一様に明るく、当初あった猜疑心や諦めの表情はどこにも見当たらない。昨日までの不安が、少しずつ期待へと変わり始めているのが分かった。
エリザベートは、相変わらず違和感しかないサラを思わせる文官の格好で、レオンのすぐ後ろに控えていた。
全員がそろったことを確認したレオンは、村人たちの前に一歩進んで、今日の作業について説明を始めた。
「今日からは、新しいことをやります」
「草を刈って干し草を作りましょう」
「今?」
ハインが驚く。村人たちも同じ表情で口を開けている。
まだ季節は春真っ盛りだ。贔屓目に見ても初夏だ。
毎日驚くほど伸びるこの時期の青々とした牧草は、羊へ直接食わせるのが今までの当たり前で、干し草は晩夏から秋に作るのが常識だ。
「牧草の生育を小麦のように丁寧に管理すれば、干し草は年に二回作ることができます。初夏に行う“一番刈り”と、晩夏から秋に行う“二番刈り”です」
レオンは広々とした草原と荒野のうち、門前に広がる手前の草原を指差した。
「皆さんに区画分けしてもらった、この秋用の放牧地の牧草を使って、今から“一番刈り”の干し草を作りましょう」
「干し草なんざ、今までも秋に作れるだけ作ってるだろ」
ハインが村人たちの考えを代弁する。
「その結果、餌の量が足りず、羊が増えていないのですよね」
レオンは、穏やかな表情で静かに返す。
何となく空気が張り詰める中、おもむろにエリザベートがレオンの隣りに歩を進め、手を挙げた。艶やかな長髪が揺れる。
「皆、本当にすまない。私にもわかるように、今までの干し草の作り方を教えてくれないか」
興味津々な気持ちが真っ直ぐ伝わってくる蒼い瞳は、朝陽を受けて柔らかく煌めいていた。
エリザベート様へ話し掛けたい一心で、口々に説明を始めた村人たちの話をまとめると、要するに今までの干し草作りは驚くほど雑だった。
エリザベートは真剣に頷きながら、村人たちの言葉を一つも聞き漏らすまいとしていた。
放牧地のあちこちに点在する余った牧草を刈ってきては、適当に乾かすだけ。
だから作業効率が悪く量が少ない。
牧舎の一画に適当に山積みにしているだけだから腐る。
雨で駄目になる。
栄養も落ちる。
「皆の説明でよくわかった。ありがとう」
「レオン、すまんが続きを頼む」
エリザベートが一歩後ろに引く。村人たちの視線が名残惜しそうにレオンへと戻ってくる。
「では、まず“一番刈り”の干し草の作り方です……」
レオンの声は落ち着いていたが、その説明はまるで長年この土地を見てきた者のように的確だった。
牧草の“刈り取り”は、向こう数日間晴れが見込まれる日の午前中にする。
次に、刈った草を地面に広げて陽光と風に当て、数時間おきに“上下をひっくり返して”均一に乾かす。
最後に、しっかり乾いた牧草を一纏めにして、雨や夜露が当たらない屋根のある場所に保管する。
「ここまでは大丈夫そうですか」
レオンが全員の顔を見渡す。
エリザベートが頷きながら、またゆっくりと手を挙げた。
「我儘を言ってすまんが、実際の保管場所を見せて欲しい」
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村の門から一番近い牧舎に、ぞろぞろと移動する。
エリザベートの案内役を買って出たハインのぎこちなさを、後ろから付いていく村人たちが、右手と右足が同時に出ていたと笑っていた。
「乾燥場所は必ず周りよりも高くします」
レオンは干し草の保管場所を見るなり、話し始めた。
風が抜ける場所を使う。
干し草の下には、大きさの異なる石をざっくりと敷き詰める。
地面へ直接置くことは禁止。
村人たちがひそひそ話を始める。
そんな細かいこと考えたことない。
ざわめきが収まり、村人たちの目に理解の色が灯ったことを確認したハインが、牧舎頭の仕事だと割り切ったのか、レオンに振られる前に自ら話し始めた。
「これからは、まだ羊たちに食い荒らされていない区画の牧草で干し草を作れるから、効率よくばんばん作業ができるってわけだな」
「草をどんどん刈っていく奴らと、ひっくり返して干す奴ら、こりゃまた、男も女も子どももない、俺ら全員でいっぺんにやってみるか」
最後は笑いながら仲間たちを見渡す。村人たちの笑顔が返ってくる。
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まだ数日は晴天が続くと、皆が口々に言っていたとおり、翌日の空も青かった。
乾いた爽やかな風が、西の山地から降りてきて、湖面に柔らかな波紋を広げていく。
朝の涼やかな空気を熱するような陽射しは、すでに初夏のものだった。
村人総出で、干し草作りが始まった。
干し草作りについても、レオンの指導で行う今回に限って平均的な日当が貨幣で支払われる。
この地の領主、すなわちフォルスワーグ領の最高決定者が隣りにいるので、予算支出の決裁は一瞬だった。笑顔で作業を始める村人たちを見て、エリザベートが満足げにうなずいている。
レオンの脳裏に、わずかに獰猛な琥珀色の瞳が見えた気がしたので、承認済みの決裁書は、サラが帰った後にそっと机の上に出しておくことに決めた。
日当がもらえるからか、お祭りみたいに楽しんでいるからなのか、それとも将来への明るい兆しを無意識に感じ取っているのか、作業をしている村人たちは総じて笑顔だった。
村人たちと一緒に牧草を刈るオスカーとリオの向こうに、“春囲い”の中で元気に牧草を頬張る羊たちが見える。その周りを、今日も職務に忠実な牧羊犬たちが元気に走り回り、迷子になりそうな羊を追い立てていた。
村人たちが刈った牧草が、荷車に積まれて次々と村内へ運ばれてくる。
広場にきれいに並べられた牧草は、置かれた順番に二~三時間おきにひっくり返してまた干される。
「どこまでひっくり返したか、見失わないように気をつけてね」と笑顔で注意しながら、シエルが子供たちと楽しそうに手伝っている。
レオンは、全体の監督者としてあちこちを見回りながら指導していた。
「シエルもやっているんだ、私も手伝って良いよな」
レオンの隣りにずっと張り付いていたエリザベートが、領主として圧力を掛けていたが、補佐役の文官にあっさり断られていた。
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雨が降りませんようにという皆の祈りが通じたのか、作業開始から三日間続いた晴天のおかげで、ついに干し草が完成した。
皆で作った干し草が、それぞれの牧舎に荷車で運び込まれていく。
ハインも村人たちも、大量の干し草がいつもより楽にできたことに満足していた。
だが、本当に驚いたのは、干し草を羊に食べさせてからだった。
レオンの指導の下で作った干し草は、羊の食いつきがまるで違った。
羊が干し草に口をつけたその瞬間、村人たちの顔に驚きと喜びが同時に広がった。今までなら顔を背けていた干し草を、まるで別物のように美味しそうに食べるのだ。
放牧ができない雨の日でも、食欲が落ちない。無理やり食べさせる必要がない。
風通しの良い場所で丁寧に乾かした草は腐りにくい。
石を敷いた保管場所は湿気が溜まらない。
水分が抜けた牧草は、栄養の流出が減り、しかも羊が好きな香りが残る。
放牧地に置いた岩塩の効果もあり、食欲の増した羊たちが栄養のある美味しい干し草を腹いっぱい食べる。効果はすぐに目に見える形であらわれた。
まず、母羊たちの乳の量が多くなった。味も濃い。
身体の小さな仔羊は、肉付きが良くなり出していた。毛並みにも艶が出てきた。
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効果を実感したハインと村人の代表たちは、すぐに代官屋敷で状況を整理していたエリザベートとレオンを訪ねた。
「ありがとうございます。おかげさまで仔羊たちが元気に育っています」
「これで夏の暑さも乗り切れそうです」
「エリザベート様とレオン様のおかげです」
狭い応接室に口々に感謝の声が響く。エリザベートが笑顔で受け取る。
いつもと変わらない穏やかな表情でその光景を見つめていたレオンは、興奮が収まった応接室の皆に聞こえるように一歩前へ出た。
部屋の空気が、次の言葉を待つように静まり返った。
レオンは、そこでようやく口を開く。
「次に、実際は秋の作業にはなりますが、“二番刈り”の干し草の作り方です……」
予想と違う内容に呆気にとられたハインは、すぐに顔を引き締めると、レオンの言葉を聞き洩らさないようにと、その漆黒の瞳を見据えた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
おかげさまで、三十話まで物語を続けることができました。
読者の皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。
レオンとエリザベート、そして仲間たちと紡ぐ物語を、今後とも共に見守っていただければ幸いです。




