第29話 濃紅の髪、蒼い瞳
次の日の朝も、空には穏やかな晴れ間がのぞいていた。
羊や家畜たちの世話に区切りをつけた村人たちが、広場に集まってくる。十数人の村人の先頭にいるのは、もちろん牧舎頭のハインだった。
集まった村人たちを前に、レオンが一歩前に出る。
変装のつもりが逆に目立っている、文官の格好に外套とフードを被ったエリザベートを、オスカーがその大きな背の後ろへと隠し、シエルがさりげなく側に付く。
ハインを迎えに行っていた十五歳という年齢よりも幼く見えるリオは、村人の中に年が近い牧童を見つけたらしく、笑顔で話し掛けている。
レオンは、昨日ハインに伝えた今回の訪問の趣旨を、村人たちに再度丁寧に説明することから始めた。
街道整備や鉱山改革のように、カウム村の畜産業を発展させていく。
簡単に言えば、今よりも飯が食えて、死ぬ家畜が減って、今日より明日の方がマシだと思える、そんな想いとその実現の為に一緒になって具体的に働くことを。
懐疑的な顔、諦めた顔、藁にも縋る思いで見つめる顔。
ただ、事前に概要は牧舎頭から伝わっていたようで、オスカーやシエルが警戒するような大きな混乱は起きなかった。
「……では、ここから皆さんにやっていただきたい具体的な方法を説明します」
レオンは、準備していた棒で広場の地面へ太い線を引き、門の前に広がる草原と荒野を模した大きな絵を描く。
半信半疑な村人たちが周囲に集まって、目を凝らし、耳を傾ける。
「ここからここまでを”春用”にします」
「その隣りからこの小川までを”夏用”に」
「そして門前に広がるこの部分、草原の西側は”秋”まで使わない」
レオンの説明が進むにつれ、村人たちがオスカーの背負う大剣にちらりと目を向けながら、遠慮がちに隣りと話し合う。小さな声が集まり、どよめきが広がる。
周りを見渡したハインが、眉をひそめながら代弁するかのような大きな声で、レオンへ声を掛ける。
「草なんざ、どこも同じだろ。勝手に生えてくるものを、羊が好きなように食べさせてやれば……」
「違います」
レオンは、強い口調にならないように気を付けながら、即答した。
「草原も生きているんです。休ませない土地は死にます」
「牧草は人間が食べないだけで小麦と同じ立派な農作物なんです。計画的に種を播き、肥料を与えて育てないと、当たり前に豊作とはなりません」
ハインが眉間の皺を深めて、レオンの言葉を反芻する。
その後ろでは、村人たちが顔を見合わせ目で会話する。
“牧草地を休ませる”。
“家畜、ましてや羊が食べる草を人間が育てる”
そんな発想はなかった。
知っている限り、祖父母の代から今と同じ方法でやってきた。
何年かに一度交代で来ては去るだけの代官に、そんな指導をされたこともない。
ざわめきが収まらない村人たちを前に、レオンはなおも続ける。
羊が同じ場所ばかり食べると、葉が育たず根まで弱る。
葉や茎が育たなければ、花や実も付かない。
すると、次の草が育たない。増えていかない。
「だから、区分けして順番に使うんです。人間が計画的に土地を休ませ管理し、土を肥し、牧草を小麦のように大切に育てていくのです」
理路整然としたレオンの言葉と力強く気持ちのこもった声が、村人たちの脳裏で咀嚼される。
理屈はわかる。だが、いくら過去の政策が成功したとはいえ、フォルスワーグ領に来て間もないこの文官の言葉を全て信じてよいのか。徒労に終わるのではないか。
理解と葛藤、そしてその後ろに続く否定したくなる気持ち。人は新しいことに抵抗感を持つ。今までの経験則に縋りたくなるのが人間なのだ。
エリザベートは、レオンから少し下がった場所で、その一部始終をその蒼い瞳に焼き付けていた。
「また私の知らない知識だ。だが、理にはかなっている」
彼女が腕を組み、小さく呟いたその声には、どこか期待も混ざっている。
ふいに山裾から流れてきた強い風が、辺りの草と共にフードを巻き上げる。
あらわになった濃紅の長い髪が、風に揺れて艶やかに広がった。
濃紅の艶やかな髪と蒼い瞳。
領主様だ。エリザベート様だ。
誰が最初に気づき、誰が最初に呟いたのか、瞬く間に静かな畏怖と熱狂が村人たちを包み込む。
その空気は、長い停滞の中で忘れかけていた“希望”に似ていた。
「エリザベート様が、俺らのためにしてくれることに、間違いはないだろ」
牧舎頭のハインが、再び村人たちを代表して声を上げる。
努めて低くはっきりとした声を発したその顔は、確かに熱を帯びていた。
圧倒されて言葉を失ったレオンは、具体的な説明をいつ始めたらよいか、珍しく迷いながら、エリザベートとハインの間に所在なさげに立っている。
いつもは何でもお見通しな余裕のある態度を崩さない文官の姿を、オスカーとシエルが笑いを噛み殺して見守っていた。
⸻
翌日から、村人総出で柵作りが始まった。
もちろんただ働きではない。村のための仕事なのだからと、無償でさせる領主や代官が当たり前なこの国で、平均的な日当を貨幣で支払うことを約束していた。
大人たちはもちろん、しっかりと働けば子供でも半額がもらえる。
レオンは“やりがい搾取”の弊害を理解していた。
荷車の両輪と同じで、やりがいと“対価”は、両方が揃って初めて目的地まで真っ直ぐ進むことができるのだから。
男性陣が槌を振るう。オスカーとレオンも率先して木杭を打ち込み、女性たちが縄を丁寧に張る。
さすがに手伝わせるわけにはいかないと、蚊帳の外にされたエリザベートとその護衛に残ったシエルの周りには常に子供たちが集まり、魔獣討伐の話をせがんでは、母親たちに叱られている。
乾いた大地へ杭を打ち込むたびに、鈍い音が風を伝って荒野に響き渡る。
よく見ると、子供たちまで拙い小さな手を使って手伝っている。
笑顔で頼まれた縄を持ち、目的の杭まで走っていく。
普段静かな村に、降ってわいたお祭りのような、活気ある人々の声が満ちていた。
「本当に変わるのかねぇ」
そんなお祭り騒ぎの中、老婆が不安そうに呟く。
隣りで次に打ち込む杭の位置を調整していたレオンが、その声を拾う。
「もちろんです。みんなで変えるんですよ」
端的で短い言葉。
笑顔で老婆に向けたその声には、いつもどおり妙な説得力があった。
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今日も昨日と変わらず、陽が陰りだすと風が少しだけ冷たくなる。
村人総出で頑張った甲斐もあり、荒野と草原には家畜たちの“囲い込み”ができる環境が整備されていた。
夕餉の準備や家畜の世話など、どうしても今日すべき仕事のために村人が門をくぐって村内に帰っていく。
残されたのは、ハインと村人たちの一部、そしてレオンたちだけ。
エリザベートは文官の恰好だが、もうフードは被っていない。爽やかな風に長髪がなびくのを見て、シエルがさっと一つに束ねた。
朝のメンバーが集まったのを確認すると、エリザベートが今日一日の作業に対する感謝を口にする。村人たちに笑顔が広がったのを確かめてから、レオンが説明を始める。
「おさらいですが、今日作った“囲い込み”の効果は大きく分けて二つです」
「一つは、放牧地を区切ることで、羊や家畜の迷子を防ぎ、草原全体の牧草の食べつくしを回避すること。放牧の範囲が明確になることで、牧羊犬たちの仕事もしやすくなります」
レオンは、そこで説明を区切ると村人たちをぐるっと見回した。
ここまでは、理解できている。
「二つ目は、放牧地を交代制で使うことで、使っていない放牧地を休息地とすることです。休息地に保存した牧草の種を播くことで、若芽は食べられることなく大きく育ち、放牧されていた時に排出された羊たちの糞が肥料になることで、さらに強く根を張ることができる」
再度、説明を区切る。
何となく理解はできるが、それがなんでこの村の豊かさに繋がるのか…村人たちがざわつく。
レオンは口を噤んだまま、独り頷いていた牧舎頭のハインの目を見る。
合った瞬間すぐに目をそらしたハインは、レオンの後ろにいるエリザベートが視界に入ったのか、短くため息をつくと、大きな声で話し出す。
「うまい餌を腹いっぱい食えば、乳もよく出て、毛の艶もよくなり、太って肉も旨くなる。丈夫な親からは丈夫な仔が産まれ、乳がたっぷり出れば生き残れるってことであってるか?」
「さすが、ハインさん。そのとおりです」
レオンが満面の笑みで肯定した。
感心したような蒼い瞳の麗人から見つめられたハインは、居心地悪そうに頬を掻く。
「そこまではわかった、けど最後に一ついいか。牧羊犬だけだと囲いの中に押し込むには少し弱くないか。俺らも付きっ切りで見張るっちゅうわけにはいかないんだが」
村人たちも、ハインの言葉に声を上げて同意する。
「もちろん、皆さんのおっしゃることはよくわかります」
「この村の特産には、確か岩塩がありましたよね」
村人たち全員が頷く。
「精製していない自然のままの状態、人間が使うには不純物の除去が面倒なものでよいので、塩分を含んだ岩や石を放牧する囲いの中に、何か所か定期的に置いてください。そうすれば、羊たちは喜んで囲いの中で過ごすと思いますよ」
「しかも、塩分は食欲を増進させ、寄生虫への抵抗力を高めることにもつながるので、良いこと尽くめです」
流れるような説明に、レオン以外の全員が呆気にとられる。
そんな中、いち早く立ち直った美貌の領主が、おもむろに前へ出る。
夕陽を浴びて、蒼い瞳が黄金色に輝く。
その瞳には、領主としての誇りと、民を導く決意が宿っていた。
「レオンは、街道整備の時も、鉱山改革の時も、そして魔獣討伐の際も、このフォルスワーグの地を良くしようと最善を尽くしてくれた」
「ハイン、そして村の皆も、レオンの言葉を私の言葉だと思って信じて、やってみてはくれないだろうか」
遠くの草原を風が薙ぐ。突風が鳴きながら近づいてくる。
簡単に結んでいた紐が解け、濃紅の髪が視界一面に広がった。
その中心、光を映してまばゆいばかりに輝くその双眸に、誰もが息をのみ、ただ頷くことしかできなかった。




