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非(あら)ずの琥珀

 そのカフェの名前は、誰も覚えていない。


 路地の隙間に、昨日まではなかったはずのドアが、当然のような顔をして口を開けている。


「いらっしゃいませ」


 店員の声は、まるで遠い水底から響いてくるように平坦だった。

 店内に満ちているのは、珈琲の香りではない。

古い紙を焼いたような、あるいは、誰かの記憶が腐敗していくような、甘ったるくて、けれど鋭い


「お香」の匂いとでもいうのか。


 私は、出された琥珀色の液体を口に含んだ。


 喉を通る瞬間、わずかな痺れ。飲み物の中に、

何か「いけないもの」が溶け込んでいる。


 ふと、隣のテーブルを見る。

客が座っているが、

彼らには「顔」がない。

いや、あるのだが、

認識しようとすると視線が滑り落ちる。


(何かが、絶対におかしい)


 逃げるように会計を済ませ、店を出た。

 重いドアが背後で閉まった瞬間、世界から「音」が消えた。


 空も、アスファルトも、街路樹も。


 目に見えるすべてが、剥製のように平面的で、触れれば砂になって崩れそうだった。


 気づけば、私は「窒息」していた。

 空気が、あまりにも薄い。いや、物理的な酸素がないのではない。

 この世界に「私以外の意識」が一つも存在しないのだ。

 すれ違う人々は、精巧に作られた動く「肉」に過ぎない。


 建物は、ただの「風景」という名の背景。


 私の思考だけが、この真空のような無音の世界で、膨張し、爆発しそうになっている。


「……ここは何なんだ」


 何かに、全身を圧迫される。

 巨大な掌で握り潰されるような、圧倒的な「個」の重圧。

 

 私は、自分の手を見た。

 指先から、あのカフェで嗅いだお香の匂いが立ち昇っている。

 その匂いが強まるたび、私の輪郭が、風景の一部へと溶け出していく。


 ああ、そうか。

 あの店は、「自分を捨てに来る場所」だったんだ。

 意識だけが、琥珀の中に閉じ込められた羽虫のように、永遠の静寂へと沈んでいった。

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