闇の奉仕
その男は、ひどく疲れ果てていた。
あわただしい都会の騒音、
ぎらぎらと不快なネオン。
現代社会の過剰な光から逃れるため、
男は巨額の費用を投じて、
地図にも載っていない国を訪れた。
「静寂の領土」と呼ばれる、
闇のリゾート地である。
「いらっしゃいませ。何も心配はいりません。
ここでは、ただ闇に身を委ねるだけでいいのです」
案内役の男の声は、驚くほど静かで心地よかった。男の顔は深いフードに覆われ、表情を読み取ることはできない。だが、その男にとってそれは重要ではなかった。ここには、光そのものが存在しないのだ。
その男は、地下深くにある「癒やしの寝室」へと導かれた。
そこは完全な無音だった。柔らかなベッドに横たわると、温かな闇が全身を包み込む。
やがて、その男はこれまでにない深い眠りに落ちた。
眠りの中で、その男は不思議な感覚を覚えた。
背中や腕のあたりに、細くて冷たい何かが、じわりと触れている。それは一本や二本ではなかった。無数の、毛髪よりも細い「吸管」のような何かが、皮膚の毛穴から、粘膜から、まるでもともとそこにあった器官であるかのように、自然に、そして深く入り込んでくる。
それは苦痛ではなかった。むしろ、自分の中にある「重苦しい何か」が、外へと吸い出されていくような、言いようのない解放感であった。
その男は夢の中で思った。
(ああ、これがデトックスというものか。私の疲れを、闇が吸い取ってくれているのだ)
一週間の滞在を終え、その男は国を去った。
彼の顔色は驚くほど良くなり、足取りは軽やかだった。
「信じられない。あんなに重かった体が、まるでもぬけの殻になったようだ」
その男は満足し、
友人たちにその「静寂の領土」の素晴らしさを説いて回った。
しかし、異変は一ヶ月後に起きた。
その男は、どれほど食事を摂っても、激しい空腹感に襲われるようになったのだ。それだけではない。体温がみるみる下がり、常に背筋に冷たい風を感じるようになった。
不審に思ったその男が、鏡の前でシャツを脱いだとき、彼は絶叫した。
背中には、無数の小さな「穴」が開いていた。
そしてその穴からは、透き通った白い「根」のような触手が、部屋の壁に向かって、必死に何かを求めるように伸びていたのだ。
その時、その男の脳裏に、あの案内役の声が蘇った。
『……ここでは、ただ闇に身を委ねるだけでいいのです』
その男は悟った。
あの国に住む、目をもたない住人たちは、自ら動く必要などなかったのだ。
彼らは、世界中に放たれた「その男」のような元旅行者たちと、目に見えない次元の「根」で繋がっている。
その男がどんなに栄養を摂っても、その大部分は、この触手を通じて、あの闇の国の住人たちの胃袋へと直接、休むことなく送り届けられているのだ。
その男は、友人に電話をかけようとして、その手を止めた。
彼を救う方法は一つしかなかった。
誰か新しい旅行者を、あの国へ送り込むこと。
そうすれば、自分の負担が少しだけ軽くなるかもしれない。
その男は受話器を握りしめ、顔に貼り付いたような、不気味で穏やかな微笑を浮かべた。
「……ああ、君か。実は、素晴らしいリゾートを見つけたんだが……」
彼の背中の触手は、まるで喜んでいるかのように、ピクピクと、そして激しく脈打っていた。




