2 愛別
視る間に近づく夜見の容が、険しく、
何処か急いているように視えた。
「よ――」
「黄泉の源泉を口にしたのか!!」
語気も荒く問われ、更に驚く。
月神の知っている夜見は、いつも穏やかで優しかった故に。
「――し、ては、おらぬ。
そなたが言ったのだ――これを口にすると、
記憶を失うと――」
戸惑いながらも、それだけを口にすると、
月神を視据える厳しい眼差しがようやく和らいだ。
「――ならば良い」
優しく腕を引かれて、ゆるりと岸に導かれる。
近づいてくる時は荒々しい細波が、今は音もなく、
優しく広がっていく。
先程までの波立った心の内すら静かに揺れる。
どうして此処に――?
問いたかったが、言霊が出ない。
ただ、触れ合った手の温もりに、安堵している自分を自覚した。
逢いたかったのだ。
とても、逢いたかった。
ようやく逢えたのに、声を聴きたいのに、
何も言えない。
引かれるままに、ただ岸に上がる。
濡れた夜着は、先程のように瞬く間に乾く。
そのまま身体ごと引き寄せられる。
とっさに、腕を上げて、膨らみつつある胸が触れぬよう庇う。
強く抱き竦められ、動けない。
「夜見――」
衣越しに手に触れる夜見の胸の鼓動が、常になく速く感じた。
「――私を忘れるなど許さぬ」
その言霊に、心が震える。
私に忘れて欲しくなかったのか。
私がそなたを忘れたくないと同じに、
そなたも忘れられたくないと思ったのか。
容を上げると、
美しい琥珀の瞳がこちらを訝し気に視つめていた。
「夜見――?」
「夜よ、そなた、何故このように弱っているのだ」
触れ合っている夜見の身体から、
神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「あ――」
夜見から受ける強い陽の神気が、
月神の身体を瞬く間に男神の姿に戻す。
荒ぶる神から神気を分け与えられた時よりも
遙かに強烈で、官能的にさえ思えた。
夜見の手が月神の頬に触れる。
食い入るように視つめられても、
身の内に流れ込んでくる神気の揺らぎに翻弄されるままだ。
「髻を結わぬせいか――」
美しい琥珀の瞳と目合ったまま、月神は動けない。
空に浮かぶ月のようだと、月神は思った。
初めて逢った時も、そう思った。
飽かずに視つめていたくて、目を離せない――
だから、近づく瞳を拒めるはずもなかった。
「――」
唇が触れた途端、痺れるような感覚に互いが酔った。
思わず目を閉じ、その感触を味わう。
触れた唇から、今まで感じたことのない感覚とともに、
陽の神気が流れてくる。
その強さと心地良さに、抗えない。
「あ、ぁ……」
くちづけが深くなるにつれて、身体が熱く高まっていく。
これが、満たされるということか――
初めて感じる深い想い。
神気とともに与えられる感情に、
自身の想いも満ち溢れる――
それ以外の全てはどうでもいいと思った時、
不意に思兼の言霊が思い出された。
――闇の主は、貴方様が神逐いされたことを
知りながら黙っているのです。
高天原の動向を探るために。
「――」
違う。
そうではない。
心の中で必死に打ち消す。
それでも、高まる身体とは裏腹に心が冷えていく。
夜見の胸を、抗うように押し返すと、ようやく唇が名残惜しげに離れる。
夜見の容は、常になく艶めいて視えた。
きっと、今、自分も同じような容で夜見を視つめているのだろう。
「夜よ、そなたを神逐いする太陽の女神など捨て置け。
太陽の女神こそ、そなたには相応しくない」
その言霊に、月神はさらに心が冷えていくのを感じた。
神逐いされたことを、夜見は知っていたのだ。
思兼の言霊通りに。
――貴方様を騙し、言霊巧みに絡め取ろうとするはず。
「夜見――やめよ」
身を返して逃れようとする。
そこを後ろから抱き竦められ、乱れた夜着の上から触れられる。
「夜見……あ……いや……」
強く抗いたいのに、夜見の手の温もりに、身体も心もままならない。
実際に、その弱々しい抵抗は、
夜見にとっては焦らし、誘っているようでもあった。
優しく触れる手の動きに、月神の身体は震え、慄く。
月神は抗いながらもその手に抗いきれぬまま、また身体が熱を帯びる。
「や――ぁ……ああぁ……」
兄弟神に触れられた忌まわしい記憶が重なる。
夜見が触れているはずなのに、
身体は悦んでいるはずなのに――
心は恐怖で満たされていく。
振り返って確かめたいのに、出来ない。
自分は何処にいるのだ。
何故このようなことに。
――それが駄目なら、無理強いするはず。
思兼の言霊が頭から離れない。
これは、現なのか。
自分はこれを望んでいたのか。
――それが駄目なら、無理強いするやもしれませぬ。
違う。
自分は、月神。
天津神の、天照の対の命だ。
男神に触れられて悦びを感じるなど、
在ってはならぬのだ。
「私に触れるな!!」
「!?」
月神の神威が、夜見の身体を突き放した。
互いの荒い息遣いだけが聞こえる。
月神はきつく、目を瞑った。
歯を食いしばり、乱れた夜着を整える。
「夜――」
途方に暮れたような声音に、月神は振り返らなかった。
「血迷うにも程があるぞ。私は月神だ。
そなたが触れる遊び女のように戯れに触れるなど、在ってはならぬ」
「夜、違う。戯れでは――」
「私は、そなたの動きを探れば、高天原に返れるのだ。
だからずっと、そなたといただけだ」
その言霊を告げた途端、
胸を突く、激しい痛みが月神を襲った。
痛みを堪えて振り返ると、
自分を視ている美しい容が苦痛で強ばっていた。
自分が感じている痛みを、今、夜見も感じているのだ。
だが、それでも、自分の痛みに比べたらなにほどのこともない。
「――夜、何故そのような虚りを口にするのだ」
「虚り? 神は虚りなど言わぬ」
ああ。
きっと、胸を貫き、締め付けるこの痛みは、
自分が虚りを告げているからなのだ。
鋭い刃に貫かれるような痛みが身も心も苛む。
この耐えがたい痛みが、虚りの代償――
だから神々は、虚りを語ることはせぬのだ。
この痛みに、身も心も耐えきれぬから。
「見事に騙されていたな――」
確かにそなたは、虚りなど口にしなかった。
ただ、語らなかっただけ。
そうして、互いに都合のいいように心地よい場を設けただけだ。
それに、愚かな自分が騙されただけ。
それだけ。
それだけの、ことなのに。
今はただ、同じ痛みを、味わわせてやりたくて仕方がない。
「我は三貴神ぞ。天津神ならともかく、
そなたのような異形の者に身も心も許すなど有り得ぬわ!!」
痛みとともに、凍えた沈黙が降りた。
互いに身動ぎ一つせぬまま、互いを視据えていた。
俄かに。
「――そうだな。
そなたら天津神にとって、確かに黄泉神など、異形であろう」
夜見のその声音は今までに感じたこともないほどに、
冷たく響いた。
「だが、我ら黄泉神は、少なくとも
友と呼んだ者を謀ったりはせぬ」
傷ついたようなその声音に、月神の怒りは募った。
「先に謀ったのは、そなたの方だ!!
私が神逐いされたのを知りながら、
知らぬ振りをしていたではないか」
「それは――」
言い淀む夜見に、月神はそれこそが応えなのだと思った。
いつだって、自分の望む言霊をくれた夜見。
言い淀むのは、それが真実だから。
「――」
絶望が、心を凍らせていく。
初めての友だと思ったのに。
心を許し合うことがどんなに幸せかようやくわかったのに。
全ては虚りだったのだ。
「――」
言いかけて、月神はやめた。
今更、何を言うのだ。
無様に乞い縋る気か。
三貴神で在る月神にも、矜持は在る。
黄泉神にだけは、縋らぬ。
「もう、逢うこともなかろう――」
それだけを言い捨てて、月神は夜の食国へ戻った。
永遠に変わらぬ寂寞の中、立ちつくす。
ただただそうして時は過ぎ――
「――」
浮かぶ月はもう視えぬ。
暗闇ばかりが続く静かな寂寞。
同じ暗闇なのに、何処か冷え冷えとしていた。
独りだ。
所詮、自分は独りなのだ。
「――」
ようやく、月神は泣いた。
声をあげて、泣き叫んだ。
誰にも届かぬ。
何にもわからぬ。
そうして、夜の食国から出ることをやめた。
何故哀しみは、繰り返すのだろう。
何故巡り巡って、また同じ過ちを繰り返すのだろう。
夜の食国を出たからか。
もう二度と出ないと誓ったのに、
高天原からの召喚に応えてしまったからか。
「あの日から、私は夜の食国から出なかった。
出て往けば、再び始まる苦しみを、わかっていたから。
わかっていたのに、何故私は、同じ過ちを繰り返しているのか――」
月神は、伊邪那美に抱きしめられたまま言を継いでいた。
夢だというのに、温もりを感じた。
そして、愛さえ感じた。
大いなる愛を。
初めて受ける母神の愛に、静かな涙が零れる。
傷ついた命を癒すように伝わる温もりに、
此処に還りたかったのだと感じた。
「母上様……」
本当は、ずっと母神が恋しかった。
三貴神として現象した瞬間から、常に恋しかった。
伊邪那岐の心を受け継いでいたが故に募る思いは、
天照の傍らに在れば満たされると思った。
だが、それは天照ではなかった。
自分を視て、満たしてくれたのは、
闇に在って、なお美しい琥珀の瞳をした異形の神だった。
――愛し子よ。此がそなたの苦しみの根元なのですね
「そうです。此が、私の物語。
何処にも還れず、何処にも往けない月神の終わりなき物語」
――愛し子よ。
そなたの愛はその器に隠れて視えなかっただけ。
そなたはもうわかっているはず
「母上様……」
――対の命は、誰もが得られるわけではない。
対の命を視極められず、苦しむ神々も在るのです。
そなたのように
「――」
――惑わされてはならぬ。
苦しみや哀しみを己の内から取り払い、ただ心にのみ問うのです。
その心が誰に向かうのかを
月神は、身体を離して母神を視た。
今や陽炎の如く儚く揺らぐ、
それでも必死に留まろうとする母神の姿を。
「私の心が、誰に向かうのか……」
――愛し子よ。そなたの心が向かう先に往くのです。
それが、この縺れた糸を解く先駆けとなるでしょう
母神は、最後にもう一度月神を抱きしめた。
揺らめく陽炎のようであるのに、温かく、慈愛に満ち溢れた神気に、
月神は確かに癒されていた。
その愛を喪うことを畏れ、月神は目を閉じて、意識すら手放した。
そうして、どれ程の時が過ぎたのか。
目を開けると、そこには誰もいなかった。
ただ寂寞とした夜だけがそこに在った。
「――」
月神は褥に戻り、横たわると息を吐いた。
夜風にあたり、苦しいばかりの物思いが幾分和らいだ気がする。
永く苦しくも懐かしい夢を視ていたような気もするが、
すでに思い出せない。
だが、思い出せないのならばそれでいいのかもしれない。
もう、哀しい夢は視ないのだから。
「何処だ、九十九神?」
月神の喚びかけに、空間が揺らぎ、するりと九十九神が顕れる。
安堵の溜息が、月神から洩れる。
「よかった……去ってしまったのかと思った」
迎えてくれる優しい言霊に、九十九神は戸惑うように問うた。
――御方様……我らがお傍に在っても、
厭わしくお思いにならぬのですか?
「何故そのように思うのだ。
そなたらは我を護ってくれている。
愛しく思いこそすれ、厭わしいなどと思うものか」
月神の言霊に、蠢く闇が歓喜に身を震わせる。
――御方様……
「赤子のようだな……さあ」
その声音さえも、甘美で心を震わせる。
赤子をあやすように優しく抱きしめられ、一層月神への愛しさは募る。
月神に抱きしめられた闇が、さらに月神を包み込む。
「そなたらは温かい……」
月神が身を委ね、そこに一切の嫌悪がないことが九十九神にもわかる。
薄く開いた唇に、闇が触れる。
おずおずと躊躇う動きに、
月神は自ずと唇を寄せて優しく舌で触れてやる。
月神の変若水が瞬く間に九十九神に力を与える。
傷つき、奪われた半分がたちまち癒されていく。
濡れた舌を包み込むと同時に、月神の口内に入り込む九十九神。
「んぅ……」
優しく温かな心地よさに月神の身体が仰け反る。
九十九神はさらに月神の身体全てを優しく護るように包み込む。
包まれる柔らかな感触に、月神の傷つき凍えた心が温もりを感じた。
乳飲み子のように無心に求められ、月神は一層強く九十九神をかき抱く。
いつの間にか抱いているのか抱かれているのかさえわからぬまま、
労りと護りに安堵する。
ただ寄り添っていられれば良かったのだ。
こんなふうに。
何処までも労りしかない触れ合いを月神は素直に受け入れ、
切ない幸福感に涙が頬を濡らす。
涙が伝い落ち、染み入るごとに、
九十九神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
人形を持たぬ闇なれど、意識の集合体であり、
拙くも思考していた九十九神は、月神の変若水を与え続けられたことにより、
すでに神格すら高めていた。
主以外に受け入れられた喜びに、九十九神は一層月神を慕う。
――御方様。母上様とお呼びしてもよろしいですか……?
言霊を返せぬ月神が頷く。
包み込む闇に一層身をすり寄せる。
受け入れられる喜びに、九十九神は酔いしれる。
――ああ……母上様……母上様……
闇の主が求める太古の女神は違った。
自分達に対して、恐怖と嫌悪しかなかった。
月神は自分達を拒まない。
それどころか愛しげに受け入れ、全てを委ねてくれる。
主には、この方こそが相応しいのに。
主とて、本当は月神が愛しくてならぬのに。
自分達は闇の主より成りませる神。
この心は主と繋がっている。
だからわかる。
主には、月神こそが対の命。
主を父神とし、月神を母神として、自分達は新たな神と成った。
ならば、自分達が理を正して視せよう。
二柱の神によって新たな神格を得た九十九神は、
すれ違う祖神のために何が出来るか思考し続けた。




