3 神顕
暗闇の回廊を歩き続ける荒ぶる神と八塚の眼前に広がるは、
未だ暗闇のみであった。
不意に荒ぶる神の歩みが止まる。
「この水は――黄泉の源泉?」
荒ぶる神に抱かれた幼子の姿の八塚が視線を下ろすと、
荒ぶる神の足下には清らかな水が満ちていた。
「建速様、母上様の気配を感じますか?」
荒ぶる神は、じっと暗闇を視据える。
「わからん。美咲は何処だ――何故、美咲を感じない?」
「もしや母上様の記憶が、戻ったのでは?
それ故に、記憶のなかった母上様を感じることが出来ないのでは」
「有り得ん。伊邪那美と美咲は一つなのだ。
神代の記憶がなくとも、俺が美咲を――伊邪那美を視誤ることはない。
だからこそ、今生で視つけ出せた」
「ならば、何らかの理由で
母上様は暗闇の回廊からも引き離されているのでは?」
「――そう考える方が妥当だな。
おそらく、夢に囚われる間に、何かが起こったのだろう」
木之花咲耶比売は、美咲が只人のようであったと語った。
それ以前の美咲は、咲耶比売にとって神であったということだ。
美咲が只人となるなら、それは伊邪那美が別たれたことを示す。
今の美咲は命のみ。
現身と命が別たれるのならば得心がいくが、
命が別たれることなど在り得るのか――
身動ぎせぬ荒ぶる神の足下の水面が不意に揺らいだ。
前方から、波紋が静かに広がって来る。
「――哀しみが、共鳴りしています」
八塚が告げる。
「共鳴り? 何と――否、誰とだ?」
「わかりません。ただ、とても、強い愛しさと哀しみを感じます」
八塚が胸を押さえる。
「降ろしてください、建速様」
荒ぶる神が、そっと八塚を抱き降ろす。
八塚は靴底が浸るほどの深さを静かに進み出で、
波紋が生まれる中心へと近づいた。
そのまま跪き、水に手を触れる。
八塚の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
不意に、波紋の揺らぎが大きく、速くなる。
「建速様、母上様が!!」
跪く八塚が覗き込んだ先に、いつしか美咲の姿が視えていた。
水の中に閉じこめられたように動かない美咲。
荒ぶる神が八塚の傍らに跪き、水の中へと手を伸ばす。
だが、美咲を包み込んだ水は、頑なにその手を阻んだ。
「美咲、目を覚ませ!!」
荒ぶる神の言霊が暗闇の回廊に響く。
だが、応えはなく、沈黙のみが響き渡る。
「これは、黄泉の源泉ではありませぬ。
これは、母上様の流した涙です」
「根の堅州国を産み出す源となった哀しみの具現か。
ならば美咲は、今、死とは別の夢の中に在る」
「何れかの神の夢と共鳴りされているならば、
その夢が終わるまで母上様は目覚めないということですね」
「ならば待とう。伊邪那美を捜して彷徨った時を思えば、
夢が終わるまで待つなど、一時であろう」
柔らかな波紋に揺蕩いながら、荒ぶる神は座り込み、吐息をついた。
その時。
それまで密やかだった波紋の揺らぎが、波のように大きく変化した。
「‼」
「母上様!!」
横たわる美咲は動かない。
だが、その姿が俄かに淡く輝きだした。
それまで頑なだった水が、柔らかく変化し、荒ぶる神と八塚を中へと引き込む。
「建速様!」
荒ぶる神の神威が八塚を包む。
「美咲が喚んでいるのか」
水に沈みながら、荒ぶる神と八塚は、美咲の傍らへと降りていく。
黄泉国の手前と言えども、やはり現世とは異なる故か、
水さえも幻のように現実味がない。
美咲に触れられるほど近づいたとき、水は最早消えていた。
頭上にさえ、暗闇が続くばかり。
沈んだはずなのに、変わりないようにさえ思えた。
「美咲」
触れようとしたのに、それ以上荒ぶる神には近づけなかった。
視えぬ水が、吹かぬ風が、女神に触れるのを拒んでいるかのように。
――愛し子よ……
不意に自分を求める言霊を感じる。
これは『美咲』ではない。
この言霊は、気の遠くなるほどの永い時を捜し続けた――
「伊邪那美――?」
淡く輝く光が美咲の頭上に顕われる。
その光は、美咲の姿ではなく、待ち望んでいた太古の女神の姿をしていた。
「は、母上様……」
初めて目の当たりにする創世の女神の姿に、八塚の感嘆が漏れる。
美しい女神は、幽けき姿で辛うじて現象し続けている。
だが、幽けき姿であろうと、その圧倒的な神気に息を呑むしかない。
なんという愛。
その存在そのものが慈愛に満ちている。
どの女神とも違う。
比べることさえできない。
平伏して、己の全てを捧げたいと願わずにはいられない――
これが神々が愛してやまない創世の女神なのだ。
――終わりの、刻が近づいている……
「伊邪那美よ、最後の刻とは何の――誰の最後なのだ」
荒ぶる神の問いに、女神は寂しげに微咲む。
――愛し子よ……斯くも永き時を彷徨って此処に在る、
最後の貴神よ。そなたを待っていました……
陽炎のように儚い姿が荒ぶる神を抱きしめる。
伝わる温もりと慈愛に、荒ぶる神もまた母神を抱きしめる。
「ようやく視つけた――」
――愛し子よ、私は黄泉返らなければなりません。
そうでなければ、豊葦原はこのまま黄泉国となる……
「母神よ。どうすれば――」
――死を覆す命が必要です。
死を以て、死を返さねばならない……
「誰の命が要るのだ。俺のならば今すぐにでも与えてやる」
「建速様!?」
八塚の驚く声が響く。
「母上様、なりませぬ。
建速様は最後まで貴女様をお護りできる唯一の神。
代わりに私の命を。私の命では足りませぬか?」
女神が八塚を返り視る。
――荒ぶる神の末で在れど、そなたはすでに神ではない。
我が死を返すには、我から別たれた命が必要なのです
「別たれた命――まさか、国津神々か――?」
――そうです。かつて私が豊葦原に与えた命、
背の君のために分け与えた命を、取り戻さねばならぬ……
「そんな――」
八塚の呟きが漏れる。
母神が黄泉返るためには、国津神々の命が必要だというのか。
愛すべき神々を思い、八塚は驚きを隠せず、動揺していた。
一方、荒ぶる神は平静だった。
伊邪那美が神去ったのは、火の神を産んだからだけではない。
あらゆる命の母たるものの定めとして、
己の命を分け与えたためなのだ。
だからこそ、その命を以ってして、
死を覆し、黄泉返る――それが理なのだろう。
「伊邪那美よ、それが御身の願いか」
――願いではなく、定めなのです。
其の為に、私は黄泉国から比売神と現世に返ったのですから……
「では、定めのために、何ができる?」
――私の魂魄を目覚めさせ、現世と幽世の境まで導いてください
「我々神が戻るなら千引の岩まで往くことになる。
道返之大神が護る現世と幽世の境へ」
伊邪那岐の定めた現世と幽世の境――黄泉比良坂。
神々が通る路だ。
「必ず現世へ連れ返る。それが、俺の誓約だから」
女神が荒ぶる神の頬に優しく触れる。
――そなたは、私とあの方の心からなりませる神。
だからこそ、生と死を分かつ世界を往きつ戻る。
強く喚んでください。
生と死に別たれた私が、再び一つに在れるように
幽けき女神の姿が消える。
その存在感の喪失は辺りの空気さえ凍えさせるように
寂しく冷たかった。
立ち尽くす荒ぶる神の傍らで、八塚がその場に頽れる。
「八塚」
荒ぶる神が膝をつく。
幼子となった八塚が顔を上げる。
その眼差しは慄きに揺らいでいた。
「すみません。人の身には少々きつかったようです。
母上様があのように――」
「神気に当てられたか――無理もないな」
「只人の私でさえ一目で心を奪われるものを……
あのように愛しい方を喪ってしまった国津神々の嘆きは如何ばかりかと。
ましてや、対の命である父上様の絶望を思うと」
零れる涙に、八塚はようやく気づいた。
記憶もなく、神気や神威すらない美咲と慎也でさえ
あんなにも愛しく思わずにはいられないのに、
創世の神のままの神気と神威を目の当たりにして平静でいられるはずもない。
「なんという喪失感でしょう。
こんな苦しみを神々は味わってきたのですか」
「そうだな――だからこそ、取り戻したいと希うのだろう」
消えてしまった女神の姿を、荒ぶる神は思い返す。
喪失感は現象してから常に己の内に在る。
初めから喪われたものを求めるこの痛みを感じるのは、
三貴神の中で自分が最も強いだろう。
それ故に、母神を求め、何処にも留まれず、彷徨う。
それが己に与えられた天命だからだ。
横たわる美咲を視つめ、荒ぶる神は息を吐く。
「八塚、下がれ」
言霊通り、八塚が下がる。
荒ぶる神が美咲の傍らに跪く。
「奏上致す」
神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「我は三柱の貴神にして水と風と嵐の主なり。
荒ぶる神の名において、母神、伊邪那美を暗闇の回廊より引き戻さん。
水神、風神よ。
闇より我に、母神を預けよ!!」
暗闇を照らす眩い神威が、荒ぶる神から放たれた。
同時に、水と風が呼応した。
あれほど頑なだった水が揺らぎ、風が横たわる美咲を押し上げた。
水が周囲から消えると同時に、美咲が目を開ける。
視界に荒ぶる神をとらえた途端、美咲は叫んだ。
「建速!!」
しがみつく美咲を抱きしめながら荒ぶる神が息を吐く。
「迎えに来た。もう心配ない」
「私、戻れるの? 黄泉のものを口にしたら戻れないって――」
「何を口にした」
「わからない。水のようだった。
無理やり飲まされて――吐き出したんだけど」
美咲を抱きしめたまま、
荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
美咲の身体が荒ぶる神の神威に包まれる。
「黄泉の源泉なら記憶が消えるが、吐き出したのなら大丈夫だ。返れる」
短く告げると、荒ぶる神は美咲を抱え上げる。
「八塚、来い。神威を使ったなら、闇の主に気づかれた。すぐに来る」
「はい」
「え? 八塚、様?」
驚いている美咲を右腕に、
笑い返す八塚を左腕に抱え上げた荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
瞬時に美咲の視界が暗闇から変わる。
「……ここ、見たことがある気がする」
辺りを見回すと、平坦な一本道を大きな岩が塞いでいる。
「千引の岩だ」
荒ぶる神が美咲と八塚を下ろす。
――荒ぶる神よ……
道返之大神の幽かな神話が届く。
「道返之大神よ、もう一度我々を通らせてくれ」
――そなたは通れる。しかし、只人は通せぬ。
それが理だ
「美咲は伊邪那美だ。何故通れぬ」
――只人だ。今は女神ではない。神気も神威も感じぬ。
そこな童は神気と神威を持てども只人だ。
やはり通れぬ
「女神である神気と神威をなくしたのか――」
「木之花咲耶比売も母上様が只人のようであったと――
それ故、伊邪那美様が顕われたのですか」
「何らかの理由で別たれたのなら、やはり美咲を返らせねばならん。
戻ってあちら側から喚ぶ」
死人であるはずの八塚と美咲には進めない。
理がそれを許さない。
理を覆す新たな理が必要だった。




