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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第十章 還神ーかえる神々ー

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1 愛切



 月神は、毎夜、湖へと出かけた。


 戻った後は食事をして眠れば、またすぐに約束の時刻が来る。


 だから、夜の食国(おすくに)で独り過ごしても苦ではなくなった。


 独りで在れば在るほど、いつも夜見(よみ)を思った。


 闇を具現したような漆黒の長い髪も、

 月のように澄んだ琥珀の瞳も、

 いつまでも視飽きぬ美しいもので、

 月神はすでに深く心囚われていた。


 夜見がいれば、それ以上何もいらないような気さえした。


 夜見もまた、同じように月神に心囚われていると気づいていた。


 自分を視る眼差しが、

 言霊がなくとも十分に愛しさを伝えていたから。


 夜見は優しかった。


 いつも月神の欲しい言霊を心を読むように伝えてくれた。


 互いの心を、これ程に理解し合えるのも初めてだった。



 自分も夜見のために、何かしてあげられたらいいのだが。



 月神はそう考えるようになった。


 幾度目かの逢瀬の時、月神は夜見に尋ねた。



 対の命は、在るのかと。



「私にも対の命は在る」


 そう聞いた時は、嬉しいのに、胸の痛みも感じた。


「それは?」


「死の女神となった伊邪那美だ」


 夜見の言霊に、月神は驚いた。


「母上様なのか――」


「ああ。

 だが、未だ現世への執着を捨てきれぬようで、

 独り閉じこもっている」


「母上様は、そなたに逢おうとせぬのか……?」


 信じられなかった。


 一目視れば、きっと夜見の美しさや優しさに気づくであろうに。


 逢おうともせぬとは。


「――」


 言霊を探せずに、月神が夜見の手に己のそれを重ねる。


 それだけで、夜見が優しく(わら)う。


「私は待てる。

 今は、そなたという友が傍らに在ってくれる。

 寂しさなど何ほどのこともない」


 気にした風もない夜見の(かんばせ)に、月神も咲う。


「そうだな。私もそなたも待てばよいのだ」


 月神はどこか安堵した。



 今はまだ、こうして共に在れる。


 今はまだ、ずっと傍に在りたい。



 この温もりを手放したくない――互いがそう思っていた。






 穏やかで優しく、幸せな時が過ぎていく。



 互いしか存在しない時間の中で、

 二柱の神は寄り添い、咲い合い、ただ其処に在った。



 隣に在るだけで満ち足りた想いを、

 何と名付けたら良かったのだろう。



 あまりにも愛しすぎて、忘れていた。



 自分が月神であることを。


 高天原の、天津神であることを。






 夜毎、夜見との逢瀬を重ねることが当たり前となっていたある夜。


 姿視として使っていた水鏡が、震えた。


 喜びで、心が躍った。


 待ち望んでいた姉からの言伝(ことづて)だと思い込んだから。


 水鏡に手を翳す。


 瞬く間に水鏡は此処ではない異界の先にある姿を映し出す。



 だが。



――お久しゅうございます。月の御方様。



思兼(おもいかね)――」


 その容を見た瞬間、血の気が引いていく感覚を覚えた。


 忘れかけていた忌まわしい記憶が、()び起こされる。


「――何用だ」



――申し上げたき事がございますが、

  軽々しくお伝えできぬことなので、

  直にお会いしてお伝えしとうございます。

  夜の食国へのおとないをお許しください。



「ならぬ!」


 咄嗟に叫んでいた。



――月読様?



「私は、神逐(かむやら)いさされた身。

 そなたは、夜の食国には来られぬ。

 私が往こう。高天原と異界の狭間で、明日のこの時に。



――わかりました。それでは、明日お待ちしております。



 水鏡から、思兼の姿が消える。


「――」


 月神は、逃げるように部屋を出た。





 いつものように、月明かりの(きざはし)を降りれば、

 夜見が咲って出迎えてくれた。


 その()みに、なぜか縋り付いて泣き出したくなった。


「夜見、明日からは暫し来られぬ」


 夜見の優しい容が、訝しげに月神を視つめる。


「何故だ?」


「――朔が、近いからだ。

 陰の気が、強くなる故に、この時は夜の食国で過ごさねばならぬ」


 朔では、この身は完全に女体となる。


 そのような姿を、夜見には視られたくなかった。


「そうなのか。朔が近いとそなたには逢えぬのか」


「ああ、そうだ」


「ならば私も朔が過ぎるまで此処へは来ぬ」


「何故だ」


「そなたと共に在る時間に慣れたせいか、

 此処に独りで在るのは寂しすぎる」


「――夜見」


 心が震える。


 (いつわ)りのない言霊に、胸が高鳴る。


(よる)、早く戻ってくるのだ。私を独りにするな」


「ああ。すぐに戻ってくる。そなたは私の大切な友なのだから」


 夜見が優しく月神を抱く。


 抱きしめられれば心が安らぐ。



 ずっとこうしていたい。


 離れたくない。



 互いがそう思っていたのに、その願いが叶うことはなかった。






 思兼には会いたくなかった。


 せっかく忘れかけていた嫌な思い出は、

 思兼と結びついているからだ。


 あの時、思兼の言霊に従わなければ、こんな事にはならなかったのだ。


 そう思うことをどうしても止められなかった。


 それでも会わねばならぬのなら、夜の食国では嫌だった。


 姉である天照さえ迎え入れたことのない自分の領域に

 初めて(おとな)うのが思兼では、

 ますます自分が穢されて往くような気さえする。


 月神が嫌々向かった異界の狭間には、すでに思兼が在った。


「思兼――」


「これはこれは。月読(つくよみ)様。お久しゅうございます」


「何用だ。直に会って話すこととは」


「此の処、お逢いになっている方のことです」


 思兼の言霊に、月神の容が強ばる。


「――」


「さすが、月の御方様。神逐いされようとも、

 常にお心は高天原におありになる証。

 闇の主に近づき、探っておられるとは」


 何故思兼が夜見のことを知っているのだ。


 その思いが、思兼には全て読まれているようだった。


「月読様。これはまたとない機会でございますぞ。

 黄泉国の動向を探ることが出来れば、天照様もお喜びになりましょう。

 いずれ、神逐いも解かれるかもしれませぬ」



 高天原へ戻れる。



 そんな淡い期待が胸の内に沸き上がる。



 だが、その為に、夜見を探るなど――



 月神の逡巡を、思兼は容易く読み取った。


「月読様、よもや黄泉大神(よもつおおかみ)に心を寄せて、

 天照様を裏切ることなど在りませぬな?」


「何を言うのだ、私は――」


「闇の主は、貴方様が神逐いされたことを

 知りながら黙っているのです。

 高天原の動向を探るために」


莫迦(ばか)な――そのようなこと」


「そうでないと言い切れるのですか。

 神代が始まりし時から成りませる古き神ですぞ。

 ()の神は貴方様を騙し、言霊巧みに絡め取ろうとするはず。

 それが駄目なら、無理強いするやもしれませぬ」


「やめよ!! そなたに何がわかるのだ!!」


「月読様こそ、黄泉大神に惑わされて目が眩んでいるご様子。

 我々は、貴方様には太陽の女神の対として、

 高天原のために在って欲しいだけでございます」


 月神には、思兼の言霊がどうしても信じられなかった。


 否――信じたくなかった。


「私は、姉上を裏切ったりしない。

 そのようなこと、出来る筈がない――」


「そうですとも。ですから申し上げているのです。

 貴方様の働き一つで、天照様も、高天原も、安泰だと言うことを」


「――わかった。悪いようにはせぬ。もう去れ」


 それ以上、思兼と言霊を交わしたくなくて、月神が背を向ける。


 その背中に、かかる言霊。



「そう言えば、神直毘(かむなおび)様と大直毘(おおなおび)様はお元気でしょうか」



 月神の背中が強ばり、ゆっくりと振り返る。



「何故、私に聞くのだ」



「天照様が天之岩屋戸(あまのいわやど)に隠られし時、

 神直毘様と大直毘様が月読様にお話があると来られたものですから」


 思兼の容は、何の含みもないように視えたが、

 月神にはそれこそが怪しく視えた。


「兄上方にはお会いしていない。私は、独り部屋で休んでいたのだから」


「左様でございますか。ならばその通りなのでしょう」


 思兼はうっすらと咲っていた。


 その()みは、何もかも視透かしているようにも思えた。


 月神の背筋が冷える。


「その通りだ」


 月神は、それ以上何も視ずに夜の食国へと戻った。


 静かすぎる食国には、か細い月と(かす)かな星が瞬いているのみ。


「……」



 思兼は知っているのか。



「……いや、そんな筈はない」


 知っている筈がないのだ。


 あの時は、他の誰にも会っていないし、

 自分の身体のことも知られている筈がない。


 恐れることなど何もない。


 思兼の言霊など、信じてはならない。


 月神は、震える身体を支えながら空を視上げた。



 早く朔が過ぎればいい。



 そうすれば、夜見に逢える。



 それだけが、月神の脆い心を支えていた。






 もう何度目だろう。



 満たされぬもどかしさに苦しい。


 何度も嫌だと思ったのに、終わらなかった。


 

 もう嫌なのに。


 こんな苦しみを感じたくないのに。



 早く満たして欲しい。


 待ち望んでいたものに満たされる期待に、息を止め――



「――ぁっ!!」



 身体が大きく震えて、目が覚める。


 目を開けると、そこには視慣れた天井が視える。


 鼓動が先程までの夢で熱く脈打っている。



「夢……」



 己の呟きが、(うつつ)を知らしめる。


 思兼に会ってから、悪夢に苛まれる日々が続いていた。


 身体とは裏腹に、心は凍えそうに冷めていた。



「――どうして……」



 あの時と同じだ。



 嫌だったのに、最後には、受け入れるしかなかった。


 それを、今も忘れられずにいる穢れた身体が厭わしかった。



「夜見……夜見……救けてくれ」



 夜着(やぎ)のまま、月神は跳んだ。



 向かった先は、夜見と逢えるあの湖畔。



 夜の食国と同じに誰もいないはずなのに、孤独を感じない場所。


 包まれるように温かく、受け入れられているように穏やかだ。



 夜見の姿はない。



 此処へは来ないと言っていたから当然であろう。


 在る筈がないのに、此処へ来ると少しだけ落ち着いた。


 此処にいれば、煩わしいことなど何もない。


 夜見と自分だけの世界で、ただ、幸せな気持ちで在れる。


「……」


 思兼に会うのではなかったと、月神は後悔した。



 夜見はかけがえのない友。


 自分を騙すことなど在る筈がない。



 それでも、思兼の言霊に心が揺れてしまう。


「夜見……」


 ふらりと、月神は湖へと足を踏み入れた。


 静かだった湖面が月神の歩みとともに波紋を広げていく。


 その様もまた、美しかった。


 腰まで浸かったところで、月神は歩みを止めた。


 意外な冷たさが、先程までの熱を取り払ってくれた。


 まるで、身体に残る忌まわしい記憶を消し去るかのように。


「……」


 この水を飲めば、全てを忘れるという。


 いっそ、飲んでしまおうか。


 そんな思いが沸き上がる。


 両手を伸ばして、黄泉の源泉をすくう。


 白い手に、何処までも澄み切って美しい水が残る。


 暫し、月神はその手の中の水を、視つめていた。



「――」



 そして、(おもむろ)にその手を離した。


 水は静かに手を離れ、湖面へと戻る。


 美しい手に、すでに水に触れた痕跡はなかった。



「……めだ……」



 震える声が漏れる。



 駄目だ。


 忘れることなど出来ない。



 月神は、思い切れぬ自分に気づいていた。


 辛い記憶は捨て去ってしまいたいけれど、

 それよりももっと、忘れたくない記憶が、在るから。



「夜見――」



 涙が零れぬように容を両手で覆う。



 いっそ声をあげて泣き叫びたかった。


 だが、それも出来なかった。



 心が軋み、歪んでゆく。



 どうして、己の心さえままならないのか。



 静かに壊れていくのを感じながらも、

 どうにもならずに諦めるしかないのだ。



 月神にはそれしかできなかった。


 それ以外の(すべ)を、知らなかったのだから。



 大きく息をついて、月神は身を翻した。


 歩き出そうとして、歩みを止める。



 岸辺に立つ、待ち望んでいた姿をその瞳にとらえて。



「夜、見――」



 常ならぬ厳しい眼差しが此方を視据えている。


 その眼差しの強さと、

 穏やかさの一切視えぬ怜悧な神気に圧倒される。


 驚きで動けぬ月神へと、夜見が真っ直ぐに向かってくる。


 湖面に立つ細波が、

 夜見の静かに(たぎ)る苛立ちを顕しているようにも思えた。






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