3 誤信
暗闇の世界に取り残された豊葦原。
荒ぶる神と国津神の創り出した、今や最後の神域とも言える結界の中で、
荒ぶる神は独り夜空を眺めていた。
「建速様」
天之葺根の呼びかけに、荒ぶる神が振り返る。
天津神である葺根と人でありながら神威を有する八塚が、
図書館の一般来客用玄関から此方に向かって歩いてくる。
「葺根、八塚」
「如何なされました? よもや結界の外に異変でも?」
「そうではない。空を視ていた。太陽が、恋しくてな」
視上げた空には、本来在る筈の太陽がない。
夜空に在るべき月もない。
「確かに、こう夜が続くと妙な心地です。
何やら夜通し遊んでいた若い頃を思い出すというか」
八塚の言葉に、荒ぶる神は小さく咲った。
「大人になったな。八塚」
「年を重ねて、私もだいぶ丸くなりました」
さらりと返す八塚に、葺根も咲う。
「ところで葺根、結界の外はどうだ?」
「変わりはありませぬ。
眠りに就いたままの青人草もそのままでございます」
「黄泉神の動きもないか」
「何も感じませんでした」
「そうか――引き続き様子を窺うのだ。
何か動きがあればすぐに伝えよ」
「御意に」
「黄泉大神に動きがないのは何故でしょうか」
八塚が呟く。
「伊邪那美様が眠っておられるのも、かの神の仕業ですか?」
「そうではないだろう。
美咲からは闇の気配も、死の気配も感じられない。
護りの勾玉も神威を発動しない。危険はない筈。
闇の主は、黄泉国と豊葦原の領界を重ねるために、
八島士奴美を使って黄泉の源泉まで呼び寄せたのだ。
次の策にしては控えめすぎる。
朔の日を狙ったように、何かを待っているのか、
新たな死神を呼び寄せているのか――」
「新たな死神が顕れる可能性も在ると――?」
「或いは、天津神を狙うか――どれも起こり得る」
「黄泉大神の神威とは、それ程なのですか?」
「我らが祖神よりも古き神だ。仕方あるまい」
だが、これほどに闇の神威が強いとは、荒ぶる神も思っていなかった。
夜になっても出ない月。
あまりに強すぎる闇の神威。
まさか、黄泉大神は月読命まで捕らえたのだろうか。
変若水の力を得たのなら、死の神威が生の神威を超え、
領界が重なったままなのも頷ける。
心弱き月神が言霊を巧みに操る闇の主に惑わされてもおかしくはない。
高天原へ戻れると唆されたら、容易く信じてしまう程に。
「葺根、俺と月読が神逐いされた後、
夜の食国へ天照は訪なったか?」
「いえ。私が豊葦原に降るまで、
天照様が月の御方を訪なったことはございませぬ。
夜の食国へ到る路筋は閉ざされ、
天津神の神威では探しだすことが出来ぬようにされておりましたから」
では、月読と闇の主の接点は一つ――月読が、根の堅州国に顕れたあの時だ。
「よもや、月神様も闇の主の手に堕ちたとお考えですか?」
「月が出ないからな。その可能性もある。
だが、そうであってもどうにもならぬ」
そして、今は月読や美咲よりも慎也の方が心配だった。
記憶がないのに、何故あのように脅えるのか。
伊邪那美の記憶が戻るのが『最後の刻』ならば、
伊邪那岐もまた同じなのか。
瓊瓊杵と咲耶比売がいれば、祖神について何かしら聞けたものを
今となってはそれも叶わない。
ふと、太陽の女神が降りし時に、慎也に向けて放った言霊を思い出す。
天照は、伊邪那岐の記憶が戻るのはそう遠くないと言った。
天照もまた頑なに伊邪那岐を求め、
伊邪那美を拒むのは、何か理由があるからなのか。
わからぬ事が多すぎる。
「――」
荒ぶる神は再び空を仰ぐ。
だがやはり其処には、太陽はなかった。
朝日の明るさを感じて、月神は目を覚ました。
だが、目に映る部屋の天井の造りは、視慣れぬものだった。
「――」
起き上がろうとしたが、出来なかった。
身体が重く、力が入らない。
そうして、ようやく昨夜の出来事を思い出した。
とっさに衣服に触れる。
上衣の胸紐は解けていたが、褌は辛うじて身に付けている。
横に身体を倒して、ようやく、上半身を起こす。
酒は抜けたはずなのに、身体が震えて力が入らない。
誰もいない宴の間には、
片付けられていない宴席がそのまま残っている。
食事は美味かったが、舞や謡は天津神の方が洗練されていた。
少々飽きていたので勧められるままに杯をあおったが、
あの酒を飲んでから、おかしくなったのだ。
最初から、これが目的だったのか。
大宜津比売の策にみすみす嵌った
愚かな自分が信じられなかった。
「……」
その場に在ることが耐えられず、
神威を使って、ようやく月神は空を跳んだ。
早く高天原へ返らねば。
だが、月神の神威は僅かしか発動せず、
高天原にある月の宮に返り着くのもやっとだった。
月の宮の前庭から自室までの道のりが、
あまりにも永く感じられた。
そして、階を上がることも出来ずに力無く頽れてから、気づいた。
身体が女体となっている。
昨夜は望月。
新月までは女体となるはずがないのに。
「月読――?」
言霊をかけられて、振り返ると三貴神の末である建速が立っている。
「建速……何故、此処に……」
大きな体躯が近づいてくる。
階に覆い被さるように倒れ込んでいる月神の身体を、
荒ぶる神が軽々と抱き上げる。
「我らは三貴神だぞ。そなたの異変に気づかぬはずがない。
何があった?」
「……」
言いたくなかった。
酒に混ぜものをされたあげくに、身を穢されたなどと。
思い返すだけで、屈辱に身が震える。
だが、荒ぶる神は抱き上げた月神の身体の異変に気づき、
何事があったのかすぐに察した。
「陽の神気を奪われたのか――」
言われて初めて、月神も気づいた。
月神は、陽の神気と陰の神気を併せ持つ希有な神であった。
だからこそ、
その調和を得る為に月の満ち欠けに合わせてその姿も変わる。
男神では陽の神気を保ち、女神では陰の神気を保つ。
だが、一方的に交合うことで陽の神気を大宜津比売に奪われたのだ。
陽の神気が根こそぎ奪われたのなら、
身の内に残っているのは、陰の神気のみ。
身体が女体になったのも頷けることであった。
男神である建速に抱き上げられていると、
服越しに触れ合っている部分から陽の神気を感じて少し楽になる。
早朝であったために誰にも視咎められることなく、
二柱の神は月神の部屋へ入る。
褥に横たえられると、月神は女体を隠すように身体を丸めた。
「月読、苦しいのか?」
「……建速、私は、神去るのか……?」
「何を莫迦なことを」
「だが、苦しくて堪らぬ……」
震える身体を自身で抱きしめるが、おさまらない。
そんな月神を荒ぶる神は仰向ける。
「……?」
容易く帯が解かれ、
申し訳程度に結ばれていた胸紐も解かれる。
「何を……」
抵抗も出来ぬ身体に、
上衣を脱ぎ捨てた荒ぶる神の大きな体躯が重なってくる。
「陽の神気を補えばいいだけだ」
荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
直に触れる肌を通して、
月神の身体に荒ぶる神の神気がゆっくり流れ込んでくる。
「ああ……」
その温かさに、月神は喘いだ。
陽の神気が流れ込んでくる心地良さに、
先程の苦しさがじわじわと遠のいていく。
月神がさらに身をすり寄せ、細い腕が広い背中にしがみつく。
「建速……」
視上げると、荒ぶる神は小さく咲っていた。
「月読、そのように視つめるな。誘っているのだと勘違いされる。
俺はそなたの対の命ではない。出来るのは、ここまでだ」
そうして、荒ぶる神は月神の唇を己のそれで塞いだ。
驚いた月神が逃れようと容を背ける前に、
重なった唇から陽の神気が流れ込んでくる。
それは、肌が触れているよりも、より強く感じられた。
そのさらなる心地良さに、月神は抗うことを忘れた。
「どうだ?」
唇が僅かに離れて、荒ぶる神が問う。
「もっと……もっとだ」
一度離れた唇を、今度は自分から引き寄せる。
荒ぶる神が、また小さく咲った。
「気の済むまで」
荒ぶる神の神気が再び揺らぎ、神威が満ちる。
唇が重なり、深く貪るようにくちづけあう。
陽の神気を取り込みながら、
月神は必死で荒ぶる神に身を寄せた。
それは、さながら激しく交合うようだった。
「……」
その様子を、気配を隠して部屋の外で窺っているのは太陽の女神。
美しい容は血の気を無くし、握りしめた拳は震えていた。
そして、さらにそんな太陽の女神の様子を隠れて視ている思兼命。
その容は、思い通りに事が運んだことで嗤っていた。
太陽の宮の自室へ戻ると、太陽の女神はその場に頽れた。
「――」
自分が視たものが信じられなかった。
三貴神である月読の異変を感じて月の宮へ急げば、
月読を抱いて部屋へ入る建速の後ろ姿が視えた。
そして、扉の向こうから聞こえてきた衣擦れの音と
艶めかしい息遣い。
――建速と月読が、交合っている。
神威を使って覗き視れば、褥の中で身体を重ね、
深く唇を重ねている月神と荒ぶる神。
それ以上は、耐えられなかった。
視ることに、耐えられなかった。
太陽の女神は逃げるようにその場を離れた。
誰にも視咎められずに部屋に戻りはしたが、心が悲鳴をあげていた。
月神と荒ぶる神の裏切りに、何故という言霊しか思い浮かばない。
怒りなのか。
嫉妬なのか。
名付けられぬ揺らぎに、痛みに、
静かに軋み、罅割れていく想い。
どれくらいそうしていたのか。
「天照様、思兼様がお出でです」
やがて、采女の声が控えめに届く。
その言霊に、己が何たるかを思い起こす。
「思兼――何用か問え」
「至急お知らせせねばならぬ事があり、罷りこしました」
采女でなく、思兼の言霊が続く。
「入るな!」
咄嗟に告げる。
「天照様?」
今は、何も視たくなかった。
だが、それ以上にこんな己をも視られたくない。
高天原の主である、己のこのような無様な姿など。
誰も視てはならぬのだ。
「そこで申せ」
「は、では――」
采女を下がらせた後の思兼の言霊が
太陽の女神を否応もなく追い詰める。
「――織女が――?」
太陽の女神の中で、何かが壊れた。
荒ぶる神と月神が、太陽の女神が天之岩屋戸に籠もったのを知ったのは
丸一日経ってからだった。
その頃には、ようやく月神の身体も男神のものに戻っていた。
だが、奪われた陽の神気はそれだけでは到底足りなかった。
「建速、姉上を喚び戻すのだ。
高天原までが闇に包まれれば、領界の陰陽の調和が崩れる」
「そなたは大丈夫か?」
「姿が戻れば何とかなる。往け」
建速が神威を使って姿を消した。
天の岩屋戸の前には数多の天津神々が控え、
太陽の女神が姿を顕すのを待っている。
闇に包まれた高天原は、いつものような夜ではなく、
陰の神気に覆われていた。
荒ぶる神が傍にいなくなったことで、
月神の身体は、また息苦しさと倦怠感に襲われる。
陰の神気が強すぎる――月神の身体が、
自室に戻らねばとじりじりと後退る。
だが、そんな月神に、背後から言霊がかかる。
「月読様――?」
驚いて振り返れば、そこに思兼の姿が在る。
「思兼――」
「どうなされたのです?
豊葦原から戻られて以来、お加減が優れぬご様子」
「そのようなことはない――」
「ならば良いのですが。天照様がこのままお出ましにならねば、
月読様に高天原の統治をお願いせねばなりませぬ」
「私が――?」
「ええ。天照様の対である月読様にしか出来ぬことでございます」
「それはならぬ!」
思いがけず出た強い言霊に、思兼は訝しそうに月神を視た。
「月読様?」
「何としても姉上には天之岩屋戸から出てもらわねばならぬ。
思兼、姉上を喚び戻すために何をしても良い。手段を選ぶな」
「私が執り行ってもよろしいのですか。
そのような大事は、月読様に――」
「否。私が許す。そなたが取り仕切れ」
陰の神気に満たされた空間では、
身の内に陽の神気がほとんど無い月神に出来ることはない。
下手をすればまた女体になってしまう。
それを天津神達に知られるのは避けたかった。
「今すぐ取りかかれ、急ぐのだ」
「御意に」
この場を離れなくては――月神は思兼を通り過ぎて天之岩屋戸から離れた。




