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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第九章 希神ーこいねがう神々ー

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2 思惑


 図書準備室のソファーに、

 慎也は眠っている美咲を抱きしめたまま座っていた。


「美咲さん、起きて。早く戻ってきて」


 何度呼んでも、美咲は動かない。


 こんな風に美咲が眠っているのを見るのは、嫌だった。


 このまま目を覚まさないんじゃないかと思ってしまうからだ。


「慎也、食事をしろ」


 荒ぶる神がソファーの前のテーブルに温かい汁物とおにぎりを載せたトレイを置くが、

 慎也は首を横に振る。


「食べたくない」


「食べろ。美咲が戻ってきた時、今度はお前が倒れたら美咲が哀しむ」


 そう言って、荒ぶる神は慎也の向かい側のソファーに腰を下ろした。


 慎也は顔を上げて、荒ぶる神を見据えた。


「――建速、あんたの『天』って、誰だよ」


 突然の問いに、荒ぶる神は慎也を視つめる。


「――」


「造化三神は、もういないんだろ?

 あんたの言う『天命』は、誰が授けたんだ」


「そんなことを気にしてどうする?

 すでに天命は下され、俺はそれに従うのみ。何が不安だ」


「あんたの『天』って、伊邪那岐じゃないのか。

 だとしたら、天命が覆ることだって在るかもしれないだろ。

 神代の記憶が戻れば、

 天命を授けた伊邪那岐自身がそれを覆すかもしれない」


 慎也の言葉に、荒ぶる神は眉根を寄せる。


「伊邪那岐の記憶を取り戻したのか?」


「違う。記憶なんかない。思い出したくもない」


 吐き捨てるように言う慎也の様子からは、

 嘘を言っているようには視えなかった。


「慎也、何故そんなに怖れるのだ。俺達国津神が此処に在るのに」


 問われて、慎也は荒ぶる神を見上げる。


 視返すその眼差しは強く揺るぎない。


 それなのに――


「――俺は怖い。

 いつも美咲さんを失うんじゃないかって、怖くて堪らない。

 ようやく出逢えたのに、やっと、俺だけのものになった筈なのに」


 我知らず、美咲を抱きしめる腕に力が入る。


 初めて出会ったあの喜びを、初めて触れたあの幸福感を、

 今はもう思い出せない。


 腕の中に抱いていても、すぐ傍にいても、

 いつも奪われてしまうような喪失感に苦しくなる。


「誓ってくれ、建速。

 例え伊邪那岐が前世の記憶を取り戻して、

 神代の時のように伊邪那美を見捨てても、

 例え全ての神々が敵にまわっても、

 あんただけは、美咲さんを護るって」


「――誓おう」


 建速が慎也の前に進み出て跪く。



 神気が揺らぎ、神威が満ちる。



「奏上致す。


 古の約定に従いて、


 祖神(おやがみ)で在らせられる男神と女神の末である建速が、


 御前に罷りこし、再び誓う。


 この(みこと)の全てを懸けて、


 女神の現身(うつしみ)である美咲を


 誰からも、何からも、護ることを。


 許し給え」


 (いつわ)りなき誓約(うけい)に、

 慎也は安堵するように僅かに笑った。



「許す――」



 これで美咲は安全だ。


 誰からも。

 何からも。


 眠る美咲を、慎也はただ強く、抱きしめた。






 図書準備室を出た荒ぶる神に、

 図書館の中で待機していた国津神々が一斉に視線を向ける。


「建速様、父上様のご様子は?」


 久久能智(くくのち)が問う。


「変わらん。食事も取らん」


「父上様のお心が、深い悲しみが、伝わってきます」


 石楠(いわくす)が呟く。


「神代の時のように、悲しみでお心を病まれるのでは?

 お心の病んだ父上様が、

 恐ろしい過ちを再び繰り返すのではないか心配です」


 大山津見命(おおやまつみのみこと)が図書準備室に視線を向けた。


「伊邪那美が産んだ最後の御子である火神を殺したようにか?」


 火之迦具土(ほのかぐつち)――伊邪那美が神去る原因となった火神。


 神代では、伊邪那岐に首を斬られ、殺された。


 それなのに。


 妻を喪った悲しみに耐えきれず伊邪那岐が殺した神は、

 黄泉国においては伊邪那美と伊邪那岐を救うために顕れた。


 己を殺めた神剣と一対となって。


 これは、どんな手妻(てづま)だというのか。


「伊邪那美と火之迦具土、そして伊邪那岐の間に何が起こったのだ?」


「わからぬのです。

 母上様は、最後の御子をこの豊葦原でお産みになりました。

 産屋に在らせられたのは、父上様と母上様、そして、火神だけです」


「我々が産屋の扉を開けた時、すでに母上様は神去られ、

 止める間もなく父上様は火神の首を斬っておしまいになられた」


「そして、父上様が握った血の滴る剣から

 新たな神が成ったのを視ました」


「そして、嘆く父上様を産屋から外へとお連れした後、

 死した火神の屍から新たな神が産まれたのを視たのです」


「死した火神の屍から、新たな神が『産まれた』だと?」


「はい。それは、真に不思議な光景でございました。

 火神の首を斬り、凄まじい神威を得た天之尾羽張(あめのおはばり)が、

 火神の屍と交合っていたのでございます」


「天之尾羽張と火之迦具土の屍が――」


 黄泉国で伊邪那岐を救った炎は、神殺しの剣、天之尾羽張と一対となった。


 丁度、剣と鞘のように。


 あたかも剣と炎が交合うように。


 伊邪那岐は、怒りにまかせて火神を殺めたのではないのか。


 火神は何故、黄泉国で自分を殺めた祖神を救ったのか。


「――」


 聞きたいことが山ほどあるのに、剣も炎も今は静かに眠っている。


 伊邪那岐は神代の記憶を持たぬまま、

 再び伊邪那美を喪うことを怖れている。



 天命が覆る?



 そんなことが在る筈もない。


 それなのに、その怖れが、現実のものとなるような気がした。






 天之安河原(あめのやすかわら)思兼(おもいかね)に視送られ、

 月読(つくよみ)は豊葦原に降り立った。


 其処には、数多の采女(うねめ)が平伏し、月神を待っていた。


「面を上げよ」


 月神の言霊に、一番前にいた女神が頭を上げた。


 その容は、落ち着いた雰囲気と美貌を兼ね備えていた。


「そなたが、大宜津比売(おおげつひめ)か」


「左様にございます。

 月神様を我が神殿にお迎えできたことを嬉しく思います」


 大宜津比売は、國産みの際に産まれた古き神。


 穀物の神であると同時に、太陽神である天照大神に食物を捧げる

 保食神(うけもちのかみ)でもあった。


「まずは、この豊葦原をご覧になり、

 続きまして太陽の女神を讃える神殿をご覧下さい」


「よかろう。案内(あない)せよ」


 大宜津比売を先導に、月神が往く。


 その後ろをたくさんの采女が付き従う。


 荒ぶる神の言った通り、確かに豊葦原は美しかった。


 だが、明るすぎる昼の世界は、何処か騒々しいようにも思われた。


 自分が好むのはやはり夜の世界だ。


 太陽が沈んだ後の、穏やかなあの静謐に心惹かれる。


 青い空を流れる雲も良いが、

 星の瞬きをかすめる雲を眺める方が心が落ち着く。


 何処か心此処に在らずといった月神の豊葦原来訪も、

 日が沈む頃には神殿まで視終えて、残す処は宴のみとなった。


 宴の支度が整うまで、控えの間に通される。


 空に昇る望月を眺めながら、月神は高天原を思った。






「なんという美しい方――」


 麗しい月神の容を思い描きながら、大宜津比売は宴の準備を終える。


 粗相の無いようにもう一度確かめてから、采女を呼ぼうと宴の間を出る。


「大宜津比売」


 名を呼ばれて視線を向けると、(きざはし)の向こうに天津神が立っている。


「思兼様ではございませぬか。何故豊葦原へ――」


「月神様はすでに着いたな」


「ええ。控えの間へお通し致しました。

 何とも麗しい御方で、精一杯おもてなしさせていただきます」


「月神様を、お慕いしておるのか」


 思兼の言霊に、大宜津比売が頬を染める。


「あのように麗しい御方を慕わずにはいられましょうか」


「ならばこれを」


 思兼が懐から小さな巾着を取り出す。


「この薬を酒に混ぜよ」


「これは……?」


「これを飲めば、どうあっても交合いたくなる。

 交合ってしまえば、そなたを妻とするしかなくなるであろう。

 ともに飲んで、楽しめばよい」


「まあ……」


 頬を染める大宜津比売に、思兼は巾着を差し出す。


「月神様は情の深い御方だ。

 一夜をともにした相手を無下に扱うことはない。

 それに、そなたは美しい。

 最初は戸惑っても、ともに暮らせばすぐにうち解けよう」


「……」


 思兼の言霊に、大宜津比売の心は揺らぐ。


 あの美しい方の妻となれる。


「迷うことはない。似合いの対だ」


 思兼のさらなる言霊に、大宜津比売は震える手で巾着を取った。






「天照様、日が落ちました」


「ようやく織り上がった。今日は終わるとしよう」


 機織り小屋で、最後の仕上げをし終わった太陽の女神が顔を上げる。


 すでに織女(おりめ)は自分が織り上げた布を綺麗に畳み終え、

 美しい(ひつ)にしまっていた。


 太陽の女神の織り上げた布を手際よく畳むと、それもまた櫃に納める。


「織女、そなたの織る神御衣(かむみそ)は真に素晴らしい」


「有難き幸せにございます」


 平伏す織女が、躊躇うように言霊をかける。


「あ、天照様――」


「どうした、織女」


「あ、あの、神御衣を織るお役目、

 そろそろ私ではなく他の者でもよろしいのでは……」


「何を言うのだ、織女。

 そなたほど美しい布を織る者を、私は他に知らぬ」


 平伏す織女の両手を取って、天照は織女に微咲(ほほえ)む。


「美しい機を織るこの手もさることながら、

 そなたのその奥ゆかしい心根も気に入りなのだ。

 私とともに、これからも機織りを楽しんでくれ」


「……私如きに、そのような言霊、勿体のうございます」


「明日からはまた、私のために新しい布を織ってくれ。

 私は暫くこの布で御衣みけしを縫わねばならぬ」


「天照様、御自ら御衣を縫われるのでございますか?」


「ああ。今宵はそなたも戻ってゆっくり休むがいい」


「私は、此処を片付けてから戻ります。どうぞお先に」


「わかった」


 土間に控えていた采女が櫃を受け取る。


 天照が機織り小屋を出て往くと、織女は大きく溜息をついた。



――神御衣(かむみそ)を織るお役目を、またお断りできなかった。



 明日からまた新たな神御衣を織らねばならない。



 どうしたらいいのだろう。



 悩む織女の耳に、突然の雨音が響く。


 驚いて窓を視るも、満月の月明かりが皓々と視える。


「荒ぶる神が、お近くに……?」


 織女は土間におり、慌てて閂を掛けた。


 雨戸も閉める。


 この機織り小屋は女神しか入れぬ決まり。


 だが、噂を聞けば荒ぶる神は高天原の決まりを守らぬ方だと言う。


 織女は真っ暗になった機織り小屋の中央に座する柱の傍に座り込み、

 気配を殺して荒ぶる神が去るのを待った。


 雨風はいよいよ激しくなり、屋根の上で激しい破壊音がした。


 織女は雷が落ちたのかと、恐る恐る顔を上げ、天井を視た。


 其処には、大きな穴が開き、

 金と赤の(まだら)の瞳と織女の驚きに視開かれた瞳が目合った。


「ああ……」


 天井の穴から、上衣を纏わぬ男神が飛び降りてきた。


 織女は驚きで座り込んだまま後退る。


 だが、背中が柱にぶつかり、これ以上は下がれない。


「ふ、斑駒(ふちこま)様……何故……」


「織女、今宵、此処で、そなたは死ぬのだ」


 驚きで動けない織女の両手首を掴み、引き寄せる。


「ああっ!!」


 抗う間もなくさらに気配が近づく。


 両腕が濡れた腕に優しく(いまし)められる。


 雨風は、すでに止んでいた。


 天井に開いた大きな穴から月明かりだけが入り込む。


 静まり返った小屋の中、金と赤の斑の瞳が熱く織女を

 視据えている。



 逃れられない。



 織女は悟った。



――ああ。今宵、私は死ぬのだわ。『死』が私を掴まえたのだから。



 身体にかかる優しい重み。


 諦めと同時に、もういいのだと、

 どこか甘美な喜びが心の内に沸き上がった。






 身体が熱い。


 飲み過ぎたせいで、身体が動かない。


 神威も、使えなかった。


 朦朧とした意識の中、誰かが触れているのだけはわかった。


 露わになった肌に触れる涼しさが心地良い。


「ぁ……」


 吐息が乱れる。


 初めて触れられる心地良さに、抗えない。


 身体は痺れたように気怠く、

 動かすことができない。


 さすがに、月神も何かがおかしいと

 朦朧とする意識の中で感じた。


「……やめよ……誰だ……」


 重い瞼を開けると、霞む視界の中、自分に重なる女神が視えた。


「……だれ……だ、ぁ……」


 熱い渇きとそれを満たす心地良さに混乱する。


「なに……ぅ、あ……姉上、なのですか……」


「ええ――私を、姉君とお思いになって下さいませ」


「……姉上……? ……あぁ……」


 甘く囁かれ、逃れられない。


 月神には、自分にのしかかってくる重みが

 誰なのかわからなくなった。






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