5 憐愛
天之宇受売命の残した軌跡が夜空から消えた後、
やがて、その場には静かな沈黙が訪れた。
山津見の国津神達も嘆くのをやめ、
静かにその場で空を視上げていた。
八島士奴美は滅したものの、十種の神宝は失われた。
その上、瓊瓊杵命と木之花咲耶比売だけでなく、
天之宇受売命までもがこの豊葦原から去ってしまったのだ。
その喪失感は計り知れないものだった。
「――」
美咲と慎也も、ただ、空を見上げていた。
それ以外、どうしていいのかわからなかった。
そんな沈黙を破り、
「腹が減ったな」
徐に、荒ぶる神が言う。
美咲は何か聞き間違った気がして、荒ぶる神の方を見た。
だが、聞き違いではなかったらしい。
その証拠に、国津神達も同じ方に視線を向けていた。
「美咲の作った飯が食いたい。作ってくれ」
いきなり言われて、咄嗟に返答に詰まる。
「――え、いいけど、どこで作るの?
図書館の給湯室じゃ、みんな分は作れないわよ――」
「では、校舎へ移動しましょう。
特別棟の家庭科室なら、この人数でも大丈夫です」
久久能智が提案する。
「お待ち下さい。移動するのはいいのですが、
何を作るか確認してからのほうがいいでしょう。
材料の調達もありますし」
八塚が後を引き受ける。
「何か食べたいものはあるの?」
「美咲が作るなら何でもいい」
周りを見ると、期待に満ちた眼差しで
国津神達が美咲を見つめている。
美咲は、簡単に作れて、
大人数でも大丈夫なものを思い浮かべ、
「じゃ、じゃあ、カレー?」
そう聞いてみた。
「それでいい」
荒ぶる神が頷くと、国津神達から歓声が上がる。
「母上様の手料理だ!」
「母上様、我々もお手伝い致します!」
「何なりとお申し付け下さい!」
先程までの湿っぽさはどこへ行ったのやら、
国津神達が美咲へと詰め寄ってくる。
「ええっと、じゃあ買い出しと調理に分かれてくれる?
材料を調達している間に、準備をしておくから」
次々と国津神達が名乗りを上げて、
あれよあれよと買い出し班と調理班に分かれる。
「買い出しも、三つに分かれて。
まず、お米を調達してきて。次がカレーの材料ね。
サラダとデザートも食べたいから、これで三つね。
人数が人数だから、業務用スーパーに行って」
美咲が買ってくるものをメモして指示すると、
買い出しの国津神達はあっという間に結界の外に出て往った。
残った国津神達が一旦図書館へと入って往く。
「では、母上様、我々も移動致しましょう」
「そうね。まず炊飯器を探さないと。
一度に何台まで使えるかしら? 電気は大丈夫なの?」
「お任せ下さい。このような時のために、
非常時には自家発電に切り替えられるようにしてあります」
八塚が歩きながら淀みなく答える。
「――自家発電。この高校に、どんだけ金かけたんだよ」
呆れたように慎也が隣で呟く。
「貴方様方を迎えるためです。何事も備えあれば憂いなしかと」
「備えたかいがありましたな、八塚」
「はい。嬉しゅうございます」
八塚が満足げに石楠に答える。
確かに、使わなければ宝の持ち腐れとなる所だったが、
こうして使う日が来たのだから無駄ではなかったのだろう。
移動して、炊飯器を見つける頃には、
米を調達してきた国津神達が戻ってくる。
それからはもう、あれよあれよと美咲は米研ぎの指示や、
カレー用の野菜の下ごしらえやサラダの準備、
デザートのフルーツヨーグルト作りやらで
目まぐるしく働かねばならなくなった。
大鍋五つにカレールウを大量に入れ込む頃には、
あらかたの準備が終わって、
隣の特別教室に宴会並みのテーブルセッティングがされていた。
美咲の隣から離れない慎也にカレーの味見を頼むと、
「ん。美味しい」
満面の笑みが返ってくる。
「本当に? 薄くない?」
「うん」
「よかった。じゃあ、盛りつけて、晩ご飯にしましょう」
「はい、母上様」
恐ろしいほどの手早い流れ作業で、ご飯が盛られ、
大鍋のカレーがかけられて運ばれていく。
「母上様、父上様。席にお着き下さい」
「皆が待っております」
「上座にお席をご用意致しました」
押されるように家庭科室を出ると、
隣の特別教室にはぎっしりと国津神達が座って待っていた。
椅子に座りきれない者達は床に座っている。
美咲と慎也が入ると、どっと歓声が沸いた。
「母上様! ありがとうございます」
「いただきますの音頭は、父上様にお願い致します」
一瞬嫌そうな顔をした慎也だったが、
皆がしつけられた犬のようにこちらを見つめているので
諦めたらしい。
「美咲さんの手料理なんだから、
残さず食えよ――いただきます」
律儀に手を合わせて慎也が呟くと、全員が合掌する。
「いただきます!!」
美咲は隣の荒ぶる神が一口食べるのを
恐る恐る見守っていた。
「どう? 口に合う?」
「ああ。美味い」
その一言に美咲はほっとする。
「よかった。作ってから、ちょっと後悔したの。
辛いのが口に合わなかったらどうしようって」
「そんな心配は要らん。十分に美味い。
合わなくても、口の方を合わせる」
国津神達を見ても、和気藹々と談笑しながら食事をしている。
どうやらカレーで正解だったらしい。
安心して、美咲もサラダに口を付け、食事を始めた。
宴会のような食事が一段落つくと、
国津神達はこぞって美咲に詰め寄ってきた。
「母上様、おかわりは何杯までですか?」
「えええ? 多分十分に余ってると思うけど、
カレーはまず一人二杯までね。それでも余るようならどうぞ」
高校生を憑坐とした男神達は喜び勇んで
隣の家庭科室へおかわりを貰いに行く。
「母上様、カレーとやらにはこの漬け物がつくのは
お約束なのですか?」
どんぶりに盛った福神漬けとらっきょうを指して、
別の国津神が問う。
「お約束ってわけじゃないけど、大抵はついてるかな?
こっちは福神漬けっていうんだけど、
小中学校の給食や、お店で頼むと大体ついてくるから。
らっきょうは、好みかな。カレーって中の野菜は柔らかいから、
歯ごたえのあるものがあるといいなと思って」
「どちらも美味しゅうございます!」
「この甘味も美味です。
これは牛の乳を発酵させて作ったというのは
真でございますか?」
「ええ。これはお店で売ってるからすぐに作れるのよ。
ヨーグルトと果物の缶詰があれば、
汁ごと混ぜて甘みを調節するだけだから」
「現世は美味なものがたくさんあってようございますな。
外つ国の料理がこれほど美味いとは」
楽しそうに語る国津神達に、美咲もできる限り答えてやる。
憑坐の記憶を読み取っていて予備知識はあるものの、
実際に味わうのは衝撃的らしい。
確かに、考えてみれば奇妙なことかもしれない。
国津神――古来の日本の神に、カレーライスだ。
違和感極まりないが、国津神達はその大らかさで
何事も受け入れて楽しんでいる。
だが、本来日本人は、このような民族なのだ。
受け入れ、取り込み、同化する。
神々の末裔である人間達が
それを継承していてもおかしくはない。
記憶も神威も神気もなくしても、
確かに、神々の血脈は密やかに息づいている。
美咲には、それが嬉しかった。
食事の後は、国津神達が後片付けを引き受ける。
国津神達には、これも楽しいらしい。
美咲は慎也と建速、葺根、八塚とともに
賑やかな特別棟を後にし、図書館へと戻る。
図書準備室に入ると、
荒ぶる神がちょうど職員用玄関へ向かう扉を指さす。
「開けてみろ」
「?」
言われるままに、
美咲は図書準備室の自分の机の前を通り過ぎて、
ドアノブをひねる。
そのまま開けると、
そこにはいつも通り正面に靴箱と右手側に
職員玄関が見えるはずだったが――
「えええ!?」
――なかった。
代わりに、美咲のアパートの玄関と、閉じてきた引き戸が見えた。
慌てて振り向くと、建速は涼しい顔で言う。
「空間を繋いでみた。
図書館で雑魚寝はいくらなんでもいやだろう。
八尋殿も落ち着かないだろうし、いつもの場所がいいと思ってな」
慎也も美咲の背後から覗いて驚く。
「入っても、平気?」
「窓は開けるな。それ以外ならいつも通りだ」
「了解。美咲さんも行こうよ」
物怖じせずに、
慎也は繋がれた美咲のアパートの中に入っていった。
美咲も恐る恐る扉の奥へと足を踏み入れる。
そこはもう美咲のアパートの玄関だった。
靴を脱いで中に入ると、朝に出た通りの部屋のままだ。
「美咲さん、お風呂の準備するね」
何の違和感もなく、慎也が言う。
今は非常事態ではないのか。
「う、うん。先に入ってて。図書準備室で待ってるから」
「了解。終わったら呼ぶね」
「お一人では心配ですので、私達がお傍に控えております。
母上様は建速様とご一緒に」
同性同士の方がいいような気がして、美咲は受け入れた。
美咲は一旦靴を履いて図書準備室へ戻る。
アパートの玄関が図書準備室へ繋がることへの違和感はまだあるが、
最近の日常は違和感だらけなのだから、美咲も諦めて受け入れることにする。
「建速」
荒ぶる神は図書準備室の来客用のソファに座って新聞を読んでいた。
神様が新聞。
何をしても違和感が募るが、それでも、
建速がしていると違和感と同時に不思議な安心感も与えるのだから、
これは正に神の為せる業であろう。
「慎也はどうした?」
「先にお風呂に入るって。葺根様と八塚様がついててくれてる」
「ならば、此処に来い」
荒ぶる神が自分の隣を促す。
美咲は素直に従って、荒ぶる神の隣に座った。
「嘘でしょ」
美咲が言うと、荒ぶる神は首を傾げた。
「何がだ」
「お腹空いたって言ったの」
「神は嘘は言わん」
「じゃあ、わざとね。
だって、建速は憑坐に降りてるわけじゃないもの。
お腹なんか、すくわけない」
「憑坐に降りている国津神の代わりに言ったんだ」
しれっと答える荒ぶる神に、美咲は笑ってしまう。
あのままだったら、
きっと美咲は自分を救けるために呪詛を引き受け、
消えてしまった咲耶比売と瓊瓊杵命のことを考えて
落ち込んでいただろう。
「ありがとう、建速」
「気は、紛れたか?」
「うん。だいぶ紛れた。忙しすぎて、考える暇もなかった」
「ならいい」
咲う建速は、優しく美咲の頭を撫でた。
「瓊瓊杵と咲耶比売は滅したわけではない。
ただ、豊葦原にいられなくなっただけだ。
今頃、黄泉国で仲睦まじくしているだろう」
「そうだといいな」
神々は嘘を言わない。
だから、建速の言うことは信じてもいいのだ。
美咲は、どこかほっとした。
「でも、黄泉国って、そんなに穏やかに過ごせるところなの?」
「死者が黄泉返るまで休まう処だ。
きっと根の堅州国のように静かな国だろう。
黄泉国の大門まで往ったが、静かだった。
黄泉日狭女も美しく、穏やかだったから、間違いない」
「門の向こうには、血の池とか、針の山とかがあるんじゃないの?」
美咲の問いに、荒ぶる神は僅かに眉根を寄せた。
「それは、仏教の考えだろう。
古来の豊葦原に、そんな概念はない。
死は生の終わりであって、新たな生への始まりでもある。
どちらも巡る環の中に在る対なのだ。
だからこそ、生も死も、尊く、等しく、愛おしいものだ」
「どちらも尊く、等しく、愛おしい――」
「そうだ。黄泉神が憎いわけではない。
ただ、我々の理とは違うだけだ。
闇の主は、本来対立するはずのない神だ。
日狭女も言っていた。黄泉国の為に動いているのであって、
死神や死人には優しいのだと。
だから、瓊瓊杵と咲耶比売も言霊通り、いずれ黄泉返る。
今生でも来世でも、もう離れることはあるまい」
消える最後まで幸せそうだった二柱の神の姿を思い出し、
美咲はそれ以上思い悩むことを止めた。
肝心なのは、何処にいるかではなく、
誰を共にいるかということなのだと納得できたからだ。
と同時に、新たな疑問が沸き上がる。
「建速、櫛名田比売も、黄泉返っているのよね?」
「たぶんな」
答える荒ぶる神の言霊はあっさりとしすぎていた。
「捜さないの?」
「捜さん」
「どうして?」
それは、妻を追って黄泉路を降った男神達とは対照的すぎた。
この神は、だから普通の神々とは違うのだろうか。
「櫛名田は、最初に遠呂知と交合った為に
遠呂知の眷属となったのだ。
遠呂知は、古い肉体を脱ぎ捨て、新たに黄泉返る蛇神。
櫛名田も神代から数えきれぬほど黄泉返りを繰り返し、
もはや神ではなくなった。
神代の記憶すら失った櫛名田を捜そうとはもう思わん。
それが、あれの為だ」
静かに語る荒ぶる神は、どこか遠い目をしていた。
遠い昔の思い出を視ているかのように。
「――愛しているから、櫛名田比売の為に諦めたの?」
美咲の問いに、荒ぶる神は静かに咲う。
女神の現身は、
いつも荒ぶる神に思いがけない問いを投げかける。
「愛おしむより、憐れだったのだ――」
蛇神を拒みながらも、何処かで受け入れていた比売を。
同時に、けなげに己を慕って
根の堅洲国にまでついてきてくれた妻を。
それは、伊邪那岐が伊邪那美に焦がれる心や
瓊瓊杵命が咲耶比売を恋い慕う心とは何処か違っていると、
荒ぶる神にはわかっていた。
確かに愛しんではいたが、
そのように櫛名田比売を求めたことは、
一度もなかったのだから。
「――余りに憐れで、愛おしんだのかもしれん。
憐れな者、幽けき者を、ただ護りたかった」
だが、それも荒ぶる神にとっては確かに愛だった。




