4 昇還
――往くのか。
――往かねばならぬ。それが、俺の天命だからだ。
最後に残したくちづけは、
初めての時のように強引で、熱く、荒々しかった。
有り得ぬのに、愛されていると勘違いしそうになる程に。
身支度を整えて出て往く後ろ姿を、褥の中で視送った。
追い縋ることなど出来なかった。
自分を愛さぬ男を引き留めてどうなる。
所詮、誰も愛することなど出来ぬ男だ。
自分を振り回すだけ振り回して、去っていく。
わかっていたのに、何故受け入れてしまったのか。
それだけが悔やまれる。
何一つ思い通りにならぬ男との、これが別れだった。
闇をうち払った瓊瓊杵が、再び結界の内へと戻った。
――瓊瓊杵様!!
咲耶比売が瓊瓊杵に駆け寄り、しがみつく。
「瓊瓊杵、よくやった」
荒ぶる神の言祝ぎに、瓊瓊杵が咲う。
――祖神様の御業には比べようもございませぬ。
私の神威では全ての闇をうち払うことは出来ませんでした。
お許し下さい。
「それでもだ。後のことは、我ら国津神がする。
そなたの働き、決して忘れん」
――有難き言霊。これで、私の悔いも最早ありませぬ。
咲耶比売を抱きしめたまま、瓊瓊杵は宇受売を振り返った。
――宇受売、天照様にお伝えしてくれ。
神代でも、今生でも御期待に添えぬこと、
瓊瓊杵が詫びていたと。
だが、私にこの役目を与えてくださったことを
心から感謝していると。
「御子様――」
差し伸べられた瓊瓊杵の手に、宇受売は触れた。
――私は、豊葦原で幸せであったと。
日嗣ではなく、人として、短くとも幸せであったと伝えよ。
だから、この地で消える。私達が、豊葦原となるのだ。
消えては顕れ、再生を繰り返す名もなき青人草となる。
宇受売の表情が哀し気に変わる。
「そのようなこと、御子様……嫡妻様……」
瓊瓊杵もまた、咲耶比売のように咲った。
どちらも、穏やかで美しい微咲みだった。
――泣くな、宇受売。悔いなどない。
もう二度と、愛しい者を喪わない。
だから、往くのだ。私達は再び出逢うだろう。何度でも。
咲耶比売の神威によって咲いた美しい桜の木が、
二柱の神を送るように散って、地に落ちた花びらが静かに消える。
国津神の幸わい。
美しい比売神が、今また、消え逝く。
天孫の日嗣と共に。
「御子様――御子様!!」
宇受売の言霊に咲って応えると、
瓊瓊杵の神霊は咲耶比売の神霊とともに、静かに消えていった。
国津神達の嘆きが、一層極まった。
その場に跪いたまま、宇受売は空を視据えていた。
また、お護りできなかった。
最後までお護りすると誓ったのに。
涙が止めどなく零れる。
宇受売が、豊葦原に留まり続けた最後の理由が、
消えてしまった。
遙か彼方に過ぎ去りし、神代での誓いが。
神田比古の黄泉返りを待つこと。
天孫の日嗣を護ること。
天孫の日嗣亡き後は、夫である神田比古を待ちながら、
封じられるまで日嗣の末を視護り続けていた。
だが、黄泉国で再会した神田比古を、もう待つことは出来ない。
神田比古は、黄泉返っては来ないのだから。
それでも、自分は豊葦原に留まった。
今度は、黄泉返った天孫の日嗣を護れればそれでよかった。
天に返りたいと思う心もあったが、
宇受売は、豊葦原も愛していた。
幸せだった神代の思い出が残る、
この美しい場所――豊葦原。
此処を愛する天孫の日嗣と嫡妻を護ることができれば、
果たせなかった誓いも、想いも、報われると思った。
結局、どちらも護ることは出来なかったが。
それでも、幸せだったのだろう。
御子も、嫡妻も。
今度は、共に逝かれた。
呪詛を通して、一つとなったのだ。
きっと、黄泉返っても、共に在れるだろう。
それだけが、救いだった。
「宇受売」
宇受売の前に、荒ぶる神が進み出た。
「建速様……」
「日嗣の最後の言霊を、天照に伝えよ。今まで、ご苦労だった」
その言霊に、宇受売は驚く。
「建速様、ですが――」
「もういい、宇受売。誓約は全て果たされた。もう、返れ」
もういい。
荒ぶる神の言霊が、宇受売の最後の呪縛を断ち切った。
もう、待たなくていいのだ。
天へ――高天原へ、返れる。
「――」
泣きながら、宇受売は頭を垂れた。
「天の浮橋だ。わかるな」
「はい――建速様。ありがとうございました」
創世の神が隔てられていた領界を繋いだことにより、
すでに天津神である宇受売には、天へ返る道が視えていた。
そして、自分には今比礼がある。
神田比古が返してくれた、天へ返るための誓約の神器が――
憑坐から、宇受売の神霊が抜け出る。
ふわりと、宙に浮いた。
――建速様……お別れでございます。
不意に、宇受売は荒ぶる神に向かって手を差し伸べた。
荒ぶる神が、その手を取る。
沈黙が、二柱の神の間を流れた。
だが、それもほんの僅かな間のこと。
荒ぶる神と宇受売の手が離れる。
そのまま宇受売は空を蹴った。
結界を越え、闇を越える。
さながらそれは、空を流れる星にも似ていた。
美しい比礼が、その身を煌めいて飾る。
巫女神の神霊は、一心に領界の狭間にある天の浮橋を目指す。
高く、遠く、離れていく。
流れる星のように、宇受売の神霊は闇を越えて天を駆け、
高天原へと返っていった。
微睡んでいた太陽の女神が、不意に目を覚ました。
自分に連なる者が、喪われたことを感じ取ったのだ。
「瓊瓊杵……」
美しい唇から、天孫の日嗣の名が漏れた。
水盤を視なくてもわかる。
瓊瓊杵命が豊葦原から神去ったのだ。
大切だった者がまた独り、いなくなった。
心の何処かが欠けたような、虚ろな物思いに女神は囚われる。
往かせるのではなかった。
豊葦原になど。
彼処に往けば、誰も戻ってこない。
誰も彼もが自分を置いていく。
此処に自分を独り残し、二度と戻ろうなどと思わなくなる。
そんな豊葦原が厭わしかった。
それほどに愛するに値する何が、豊葦原に在るというのだ。
ただ殺し合い、奪い合うだけの愚かな青人草を愛おしむなど、
それこそが愚かなことだと何故気づかぬのだ。
不意に沸き上がる怒り。
その怒りに束の間我を忘れたその時。
「!?」
太陽の女神はその美しい容を上げた。
懐かしい気配がする。
この神気は――
「宇受売――」
太陽の女神は、呟くなり大広間を駆け、扉を開け放つ。
そのまま、女神は空を視据えた。
美しく広がる夜空の下、煌めく軌跡を振りまきながら、降りてくる。
前庭に降り立ったのは、美しい女神だった。
高く結い上げた髪を留めずに下ろし、
巫女装束に身を包んだ、高天原最強の巫女神。
懐かしいその姿は、唯一、
視慣れぬ虹色に輝く比礼を身に纏っていた。
「宇受売!!」
太陽の女神が巫女神に駆け寄り、抱きしめる。
「天照様……」
「よう戻った――」
太陽の女神が身体を離すと、
涙に潤んだ美しい瞳が自分を視つめていた。
その容を視て、太陽の女神の唇が哀しげな咲みを刻む。
「何も変わらぬ。
宇受売、もう私から離れてはならぬ。
瓊瓊杵のように神去ってはならぬ」
宇受売の瞳から堪え切れずに涙が伝う。
「ご存じでしたか――」
「わからぬはずがない。私に連なる者であるのに」
天之宇受売が泣きながらその場に跪く。
「宇受売――」
「日嗣の御子様の最期の言伝をお伝えすべく、
戻って参りました」
「瓊瓊杵が――して、何と」
巫女神が天孫の日嗣の最後の言霊を太陽の女神に伝えた。
「幸せであったと――?
日嗣としてではなく、人として、幸せであったと――
そう、言ったのか……
故にこの豊葦原で消えては現れる名もなき青人草となると――
愚かな――何という愚かな……」
太陽の女神は静かに涙を流した。
高天原にとて、空はある。
雲も、山も、川も、美しい木々も花も。
それなのに――なぜ此処では駄目なのか。
「天照様……」
跪く宇受売もまた泣いた。
失われた約束を思って。
果たされなかった誓約を思って。
二柱の女神の涙が乾く頃。
「取り戻さねばならぬ」
太陽の女神の言霊が静かに漏れた。
「天照様――」
宇受売の言霊も最早、太陽の女神には届いていないようだった。
怒りに満ちた眼差しで空を視据え、
高天原の主――太陽の女神は、誓約のように言霊を告げた。
「豊葦原は、黄泉の領界ではない。国津神のものでもない。
私が瓊瓊杵に与えたもの。
瓊瓊杵以外の誰にも、渡さぬ」




