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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第七章 遠神ーとおつ神々ー

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2 辺津



 静謐を湛えた美しい夜の世界に、一柱の神が降り立った。



「ここが、夜の食国か……」


 思兼命(おもいかねのみこと)が呟く。


 その言霊も、夜の静寂の中に染み込み、消える。


 本来、主である月読命(つくよみのみこと)の許しなくば、

 其処へ到る道筋を視つけることも足を踏み入れることも叶わぬ世界。


 だが、手にしている神器が、此処へと導いてくれた。


 美しい真円を描くそれは、鏡であった。


 太陽の女神が一時思兼に授けたその鏡は、

 対となる片割れを失いながらも未だ凄まじい神威を秘め、

 容易に隠された真実を映し出す。


 夜の食国への目に視えぬ道筋を映し出したのも、

 この鏡の神威に他ならない。


 鏡を懐に収めると、思兼は月神の住まう館へと向かった。






 その頃、月の館に住まう夜の食国の主――月読命は褥に伏せっていた。


 微睡みを繰り返しては、夢と現を彷徨う。


 闇の主との幻のような一時の後、身も心も未だ囚われたままであった。


 ようやく夢から目覚め、気怠げに身を起こす。


 傍らの鏡に、己の姿が視える。


 美しく透き通った鏡に映るのは、なお美しい(かんばせ)


 やや青ざめて、物憂げに視えるが、それさえも美しさを際立たせる。


 視る者を惑わせるその美しさは、

 女体であるが故にいっそう艶めかしく、蠱惑的でさえあった。


 何より腹立たしいのは、

 それを視ている己自身が一番にわかるということだ。


「……」


 夜着の上に更に上衣(うわぎぬ)を纏い、変化(へんげ)した身体を隠す。


 月の満ち欠けとともに、身の内に陽の神気が満ちれば男体となり、

 陰の神気が満ちれば女体となることで、

 この中つ貴神(うずみこ)は強大すぎる神威の均衡を保っていたのだ。


 今は十日あまりの月。


 本来ならば男神の姿であるはずだった。


 それなのに、今、月神の身体は女神の形をとっていた。


 月が満ちても、戻らない。


 神威も神気も不安定だ。


 この身体は、どうなってしまったのか。


交合(まぐわ)いのせいか……」


 そこでふと、思いつく。


 こんなことは、前にもあった。


 遙か昔、神代の折りの忌まわしい記憶が甦る。


 愚かな自分は騙され、陽の神気を奪われた。


 それ故に、神威を操れず、神去りかけた。


「……」


 あの時は、救け手がいた。


 だが、今はいない。


 いても、再び救けを求めたいとも思わぬ。


 今回は、陽の神気を奪われたわけではない。


 だとすれば、陰の神気を受け入れすぎたのだろう。


 身の内の陰陽の神気の均衡が取れず、

 このように女体のままなのだろうと結論づける。


 ならば、月が満ちるように待てばいい。


 この身に、陽の神気が満ちるまで。


 望月となるまでには元に戻ることを願いながら、

 鏡に映る己の姿から目を逸らす。


 物思いから抜け出し、不意に部屋の扉の向こうから、

 天津神の気配がするのに気づいた。


 ここに来るなら、天津神しか在り得ぬが、その神気が

 誰のものであるかを悟った時には、心はさらに重くなった。


「思兼か……」


 褥の上で、もう一度居住まいを正す。


 髪を結う暇はない。


 心を落ち着けるため、月神は大きく息をついた。






 思兼の心情は、全くもって落ち着かなかった。


 初めて夜の食国での、月神との対面。


 いつも視知っていたはずの月神が、今宵はやけに違って視える。



 ここが高天原ではないせいなのだろうか。


 

 褥の上にゆるりと座り込む月神は、常になく儚げであった。


 太陽の女神といい、月の男神といい、

 これほど神々を惹きつける存在もあるまい。


 美しさもさることながら、その存在そのものが、

 (みこと)が、神々を傅かせるに相応しいものだった。


「何用だ、思兼」


 声音もいつもより柔らかい。


「お休みのところ申し訳御座いません。

 根の堅州国に降りられてから、

 音沙汰が御座いませんでしたので、急ぎ参りました」


「失敗したと思うたか」


「いいえ。天照様が心配なさってお出ででしたので」


「姉上が――?」


 思兼の言霊に心が揺らいだが、すぐに思い返す。


 太陽の女神が、月神を心配するなど在り得ない。


 心配だったのは、自分ではなく、

 自分が期待通りに動けたかどうかなのだろう。


 遙か昔、期待に応えられなかった時の、

 あの冷たい眼差しを今も覚えている。


 対の貴神(うずみこ)でありながら、自分達は何処までも

 遠く隔たっていた。


「根の堅州国にて、母上様の黄泉返りの内に入り込んだ際、

 ある呪をかけておいた。

 上手くいけば、程なく母上様は黄泉国へと返ることになろう」


「さすがは月読様。して、その呪とは――?」


(とき)が到ればわかる。用が済んだなら疾く去れ」


 思兼は肩を竦め静かに咲った。


「月神の言霊を信じて退散致します。

 神々が目覚め、過世(すぎしよ)現世(うつしよ)が重なった今、

 世界は再び新たな神代を迎えるでしょう。

 豊葦原は、天津神々の領域となり、黄泉神の介入も国津神の支配も許さぬ――

 これが、天の主たる天照様と高天原の総意です。

 月読様もお忘れなきよう」


「我には関わりないこと」


「では、もう黄泉大神とはお会いなさるな。

 黄泉神の動きを探る必要は、もう御座いませぬ」


 その言霊に、月神は思兼を冷ややかに視据える。


「私を、視張っていたのか」


「闇と夜、どれほど近かろうとも、貴方様方は決して相容れぬのです。

 それを、はき違えてはなりませぬ」


「そなたにいわれる筋合いなど――っ」


 声を荒げた月神の身体が、途中でゆらりと傾いだ。


 驚いた思兼が咄嗟に駆け寄り、倒れかかる月神の腕を掴んだ。


「――!!」


 その腕は、思っていたよりもずっと華奢で、柔らかかった。


 今は(みづら)に結い上げていない長い髪が頬にかかって、

 まるで女神のように艶めかしい。


 月神は、このような艶めかしい方だったかと思兼は訝しむ。


 太陽の女神よりは控えめで中性的ではあったが、

 ここまで蠱惑的ではなかったような気がする。


 こんなにも、触れて確かめてみたいと思うほどには。


「――」


 我知らず、思兼は手を伸ばしていた。


 絹糸のような髪に触れる。


「思兼――?」


 訝しげに自分を視やる月神は、もはや女神にしか視えなかった。


 驚くほどに太陽の女神と似通う男神。


 髪に隠されていた滑らかな頬に触れる。


 その感触に、指先に甘い痺れが走る。


「やめよ、思兼!」


 身体を引く月神に、我知らず更に腕を伸ばす。


 だが。


「放せ!!」


 月神の放った神威が、思兼を遮った。


「!?」


 神威が発動すると殆ど同時に、不意に現れた闇が、

 思兼の手足に絡みつき、瞬く間に身体を覆い隠し自由を奪う。


「な!?」


 突然のことに、思兼が闇に向かって神威を放つ。


 しかし、形を持たぬ闇には効かなかった。


 縛り上げられ、身動(みじろ)いでもびくともしない。


 闇の神威は、静かな怒りを湛えていた。


 月神がこのように闇を操るとは思いもよらなかった。


 夜の領域では、全てが月神の思うがままとなる。


 抵抗を諦め、思兼は月神を視つめた。


 自分を縛っている闇同様、月読の身体もまた、闇に包まれていた。


 だが、その闇は月神を護るように優しく身体を支えていた。


「月読様」


 青ざめていた頬に、うっすらと血の気が戻っている。


 闇に浮かぶ月のように、闇に抱かれた月神は遠くに感じられた。


 怒りを隠さぬ様がまた麗しかったが、

 先程のように触れてはならぬと自重する。


「我は三貴神の中つ御子。

 そなたが気安く触れてよいことがあろうか」


 声音さえも、心ざわめかせる。


 その姿をそれ以上視ぬよう、思兼は視線を外した。


 視てしまえば、我を忘れてまた手を伸ばしてしまうだろう。


 それほどに、今の月神は麗しすぎる。


 太陽の女神でさえ、これほど容易く心を絡め取ることはしない。


「失礼致しました。夜の御方様」


 心の内の動揺を押し隠すよう、敢えて素っ気なく言霊を継ぐ。


 闇の束縛が不意に外れ、放り出されるように自由になる。


 だが、闇は依然として月神を護り、すでに思兼は近づけない。


「無礼者め。疾く去れ」


 怒りを隠さず、睨みつける様さえ心を波立たせる。


 これが、三貴神の中つ御子の神威なのか。


 この領域では、心すら容易く惑わされてしまう。


 そう悟り、思兼は静かに退いた。


 常になく心乱され、平静を保つのが難しかった。


 夜の食国を出、急ぎ高天原へと帰還する。


 だが、その懐に収めていた神器が、

 失われていることには暫し気づかなかった。






 思兼命が去り、辺りはまた静寂に包まれる。


 だが、そこに在るはずのない存在を視いだし、

 月神は驚いていた。


 自分を抱くこの闇は、

 己の神威が創り出したものではないのだから。


 強い闇の神威を秘め、優しく主を護る――


「よもや、九十九神(つくもがみ)か……?」


――さように御座います。御方様


 応えを聞いて、さらに驚く。


 黄泉国で与えた変若水のせいか、神格を高め、

 より強くなっていた。


「何故、此処に……」


――黄泉国の闇と、現世の闇が繋がりました。

  故に、主様の神威はあらゆる闇の領界を

  往き来できるようになりました


 それを聞いた月神の美しい容が哀しげに歪んだ。


「そうか。豊葦原に、降りたのか……」


 太古の女神を取り戻しに。


 忘れかけていた胸の痛みが甦る。


 堪えるように、きつく目を閉じる。


「九十九神――主にしたように、

 暫し、我の眠りを護ってくれるか?」


 縋るように問いかけられた闇が歓喜にうち震える。


――喜んで。御方様


 褥に横たわった月神を九十九神が優しく抱きしめる。


 そこには何の打算も企みもなく、ただ、労りに満ちていた。


 安堵の息を、月神が漏らす。


 独り伏せっていた先程までとは全く違う、

 温かさと癒しを感じる。


 心地よい闇に包まれ、

 まるで黄泉国にいるような錯覚にさえ囚われる。


 あの幻のような時間の中にさえ、戻れるように。


「……」


 閉じられた目蓋から、涙が零れる。


――御方様、お苦しいのですか


「大事ない。そなた達への褒美だ」


 美しい月神を、闇がそっと覆い隠す。


 変若水が触れると、たちまち闇の神気が増して、

 一層神威が満ち溢れる。


――ああ、御方様


 愛しさを隠さずに喚ぶ響きに縋るように身を寄せる。



 何も考えたくない。


 何も感じたくない。



 闇に抱かれたまま、月神は暫し微睡みに落ちた。





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