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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第七章 遠神ーとおつ神々ー

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3 八握



――比売(ひめ)。祖父の処に、しばらく留まらねばならなくなった。


――……それは、いつお発ちになるの?


――すぐにでも。だから、逢いに来たのだ。


 祖父の跡を継ぐために、傍らで学ばねばならなくなってしまった。


 そうなると、しばらく逢えなくなってしまう。


――比売?


 視下ろすと、美しいぬばたまの瞳から涙が零れた。


――今だとてそうそう逢えぬのに、今度は、いつ逢えるのですか……


 愛おしさに、思わず強く抱きしめてしまう。


――そのように泣かれると攫って往きたくなる。


――私が此処を離れられないのを、おわかりのくせに……


――ああ。だから、来たのだ。何の約束もせずに離れられぬ。


 抱きしめていた柔らかな身体をそっと離す。


――約束……?


 頬の涙をそっと拭う。


――今はまだ何も持たぬ身であれど、我が妻に。

  そなたしか考えられぬ。


――……


 ぬばたまの瞳から、また涙が零れる。


 だが、泣きながらも、嬉しそうに咲っていた。


――何も持たずとも良いのです。そのお心さえあれば。


 その言霊に、心が、震えた。


 指を絡めて、互いを引き寄せる。


 そのまま、身体が触れ合い、唇が、触れ合った。


 触れ合う心地よさに、足の力が抜けていく。


 膝が地に着いた。


 くちづけは深くなるばかり。


 追いつめるように身体を預けられた比売神の背中が、優しく草に触れた。


――比売。そなたを今すぐ私のものにしたい。


――ええ。そうなさって。身も心も貴方の妻として下さい。


 目も眩むような喜びにうち震えながらも、

 優しく丁寧に女神に触れる。


 抗わぬ美しい肌に己の痕を付けてゆく。



 離れていても、消えなければいいのに。



 そう思いながら、女神の身体に己の想いを刻み込んだ。






 目の前の不思議な気配をもつ男と名刺を交互に見比べ、美咲は言葉をなくす。



 なぜこの高校の理事長がここに?



 しかも、荒ぶる神とも親しい様子だ。


「――」


「私の代で伊邪那美様をお迎えできたこと、真に嬉しく思います」


 驚きで言葉を探せない美咲を、八塚(やつか)は更に驚かせた。


 自分を神の名で呼んだ。


 知っているのだ。

 何もかも。


 荒ぶる神に目を向けると、大きく頷いている。


「八塚は、神代から神々の血統を受け継ぐ一族の長だ。

 神々の遺産を護り、神々が目覚める時まで血脈を繋ぐのが、使命だ」


「え……、でも、神々の子孫って、

 もうこの現代には残っていないって――」


 先程建速(たけはや)瓊瓊杵(ににぎ)の話とは違うのではないかと、訝しむ。


 そんな美咲に、八塚は優しく微笑む。


「それは、歴史に名を残した一族です。

 先程の、瓊瓊杵様の末のように。

 我々は、遙か神代で、

 血脈を残すことを最優先とするよう祖神様と誓約(うけい)しました。

 歴史に名を残さず、

 ただひっそりと神々の遺産を引き継ぎ、守ってきたのです。

 来るべき、この時のために」


「祖神って、建速のことですか?」


「はい。建速様のもう一つの御名、邇芸速日(にぎはやひ)様――

 それが、八塚の一族の祖神様でございます」


「邇芸速日……?」


 美咲も古代史を少しは勉強したが、

 如何せん、神の名が多すぎて、覚えきれないのだ。


 何をした神だったか――後でもう一度古事記を読み直さなくてはと、心の中で思った。


「邇芸速日って、確か天津神として、古事記に載ってましたよね」


 建速とは別の神として書かれていたような気はした。


「建速様は国津神で在らせられると同時に、天津神で在らせられます。

 伊邪那美様を捜して、根の堅州国と豊葦原に留まっておられた

 彷徨える神にございます」


 そうだ、神代からずっと、この荒ぶる神は豊葦原にいたのだ。


 名を変えていたとしても不思議ではない。


 現に一説では、建速も神去り、

 天之葺根(あめのふきね)がそれを看取ったことになっているのだから。


「だから、国津神の血統だけではない。

 八塚は、天津神の血統をも受け継ぐ一族なのだ。

 神々の遺産を護り、現世で、美咲を捜すためには神々の末裔が必要だったのだ」


「――」


 何という気の遠くなるような話だろう。


 自分のために、血筋を残す――そんな気の長いことをやってのけるとは。


「伊邪那美様、何かございましたら、どうぞお申し付け下さい」


 突然話を振られても、思いつくはずがない。


 美咲は慌てて否定する。


「いえ、何もありません。大丈夫です!」


 だが、荒ぶる神が口を挟んだ。


「正採用にしてもらえ。臨時だと心許ないんだろう」


「た、建速!!」


 雇い主を前にして、そんなことをあからさまに言う荒ぶる神に、

 美咲は更に慌てた。


 だが、八塚は気を害した風もなく、にこやかに答える。


「おお。それは気が利かず、失礼致しました。

 早速手続きを済ませましょう」


「え? ほ、本当ですか?」


「はい。明日には正式の辞令を受け取れますよ」


 こともなげにそう言った八塚に、美咲は目を丸くした。


 どこか不安だった生活が、突然揺るぎないものになったのだ。


 その言葉の意味をきちんと理解すると、

 美咲の顔には満面の笑みが広がった。


「ありがとうございます!」


「礼は建速様へ。その方が喜びましょう」


「はいっ」


 感動のあまり、美咲は荒ぶる神に抱きついた。


 荒ぶる神も嬉しそうに美咲を抱きしめ返す。


「美咲から抱きついてくるのは初めてだな」


「ありがとう、建速。嬉しい」


「美咲が喜ぶなら、それでいい」


 母と息子と言うより、父と娘のように抱き合う荒ぶる神と美咲のもとに、

 館内にいた国津神達が慌てて駆け寄ってくる。


「建速様、いかがして母上様を喜ばせましたか?」


「その秘訣を我らにもご教授下さい」


 美咲を抱きしめたまま、呆れたように荒ぶる神が呟く。


「今生では、少しぐらい俺に譲ろうとは思わんのか」


「思いませぬ!」


「譲るのは、父上様だけでございます!」


「我らとて、母上様に触れたいのを我慢しておりますのに」


 喧々囂々とまくし立てる国津神達に、

 八塚が面白そうに割って入る。


「お待ち下さい、建速様、国津神々様。

 伊邪那美様を喜ばせたのは、私ですよ。

 役得は私にあるべきでは?」


 きっ、と国津神達が理事長である八塚を睨む。


「八塚は駄目です。

 どうせ今みたいに建速様に譲ってしまわれる」


「そうだ。その証拠に、弟とて建速様に差し出したではないか」


「弟?」


「葺根でございます、母上様。葺根の憑坐は、八塚の弟君なのです」


 美咲からは、もう言葉も出ない。


「――」


 恐る恐る八塚の顔を見る。


 穏やかに微笑むその表情は、言われてみれば似ている。



 自分と慎也は理事長の弟を運転手に使っていたのか――



 美咲の顔から静かに血の気が引いた。


 だが、八塚は笑って答える。


「弟は、神の憑坐となる栄誉を得ました。

 一族の誉れなのです。私もその栄誉に与りたかったのですが」


「そなたは憑坐になってはならん。何度もそう言ったが」


 繰り返すように告げる荒ぶる神。


 八塚も何度でも繰り返す。


「はい。現世の煩い事は全て私に押しつけて、

 建速様はどうぞ思うままにお過ごし下さいませ。

 どこまでも従いますので」


「恨み言も聴かん」


 肩を竦めて笑ってみせる理事長は、

 荒ぶる神の言霊を受け流すと、美咲に視線を向ける。


「それでは、私はそろそろ失礼致します。

 伊邪那美様、どうぞお健やかにお過ごし下さい。

 神々とともに、私達八塚の一族も、永久に貴女様を御護り致します」


「は、はい。ありがとうございました」


 荒ぶる神が腕を離さないため、美咲もしがみついたままで礼をする。


 八塚が、落ち着いた足取りで図書館から出て行く。


 美咲は目で追いながら、小さく息をついた。



 美咲の周囲全てが、神々とそれに連なる者達で取り囲まれていた――



 その事実を目の当たりにしてしまった。


 ふと顔を上げると、荒ぶる神も視線を遠くに向け、

 八塚を目で追っていたことがわかった。


 その眼差しは、あまりにも遠く、歩き去る八塚を見ながら、

 もっと別の、遥かなものを見つめるようだった。


 自分を迎えるために、

 どれだけの時間をかけて準備してきたのだろう、

 荒ぶる神は。


 領界が隔てられ、

 全ての神々がこの豊葦原から消え去っても、

 唯独り、留まった神。


 その永い時の流れの中、

 たくさんの出会いと別れを繰り返し、彷徨ってきた。



 その孤独は、いったいどれほどのものだったのか。



「どうした、美咲?」


 抱きついたまま黙って見つめていた美咲に気づき、

 荒ぶる神が問う。


「苦しく、なかったの?」


 唐突な美咲の問いにも、

 荒ぶる神は全てわかっているように静かに咲っていた。



「豊葦原での苦しみも、喜びも、

 俺にとってはいつも瞬きのようだった。

 だから、何ともない」



 荒ぶる神は、永い時を過ごした者が見せる、

 老成した穏やかな瞳をしていた。


 それが、美咲にとって切なかった。



 この神は、何という過酷な道を選んだのだろう。



 伊邪那美に、出会うために。


 足早に過ぎ去る時を彷徨いながら。


 たった独りで。


 その孤独に、胸が痛む。


 だが、そうでなければ、来るべきこの時に、

 自分達を護ることは出来なかっただろう。



「今は、美咲がいる。慎也もいる。国津神々もいる。

 神々が在る今この時は、瞬きではない時が俺の中にも流れる。

 それが、俺にとっては嬉しい」



 美咲を子供のように抱えて抱き上げると、

 ぐるりとあたりを視渡す。


 国津神々を視つめ、そうして満足げに美咲に視線を戻す。


 人に紛れ、世に紛れ、

 誰とも交わらず、交われず、

 ただ独り、そうして生きてきたのだ。



 この荒ぶる神は。



 その永い、気の遠くなるような年月を思い、

 美咲はまた切なくなった。






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