1 奥津
美しい木々に、花々に囲まれて、なお美しい山津見の比売神が在る。
ぬばたまのような濡れて煌めく瞳が、愛しげに世界を視つめていた。
咲耶比売は、姉比売の姿を視つけて、駆け寄る。
――お姉様、何処にいたの?
――あの方をお視送りしたの。根の堅州国に戻ってしまわれるから。
咲う比売神は、何処か寂しげに視えた。
咲耶比売は、これが夢だと気づく。
これはまだ瓊瓊杵様と出逢う前、名を取り替える前の、過ぎし世の夢。
そして、自分達は半神同士。
かつての姉の想いが伝わってきて、懐かしいと同時に切なくなる。
――お姉様、寂しいの? 一緒に往きたいと思っているの?
自分の不安を視透かすように、姉比売が咲う。
――私は何処にも往かないわ。ずっとそなたと、豊葦原に在るの。
そうだ。
姉は、この山津見の国津神を統べるのだ。
根の堅州国になど往くはずがない。
――よかった。私、少しあの方が怖かったの。
お姉様を連れていってしまいそうで。
自分の言霊に、姉比売が咲う。
――あの方の、何を恐れるというの?
荒ぶる神の御子とは思えぬほどお優しい方よ。
誰よりも私を想ってくださるわ。
だからこそ、無理に私を根の堅州国に連れていこうと決してなさらない。
私の我が儘を優しく受け止めてくださる――そのような方、
八島士奴美様以外におられないわ。
そう語る姉比売の心は、すでに自分にはない。
姉比売は、ただ物思いに囚われて、
愛しい背の君が去った後の美しくも虚ろな世界を視つめている。
きっと、留まって欲しいのだ。
あの方に。
此処に。
この、豊葦原に。
何故駄目なのだろう。
何故に、あの方は根の堅州国になど往かれるのか。
すでに、荒ぶる神が
嫡妻である櫛名田比売を伴って根の堅州国へ去って永き時が流れた。
根の堅州国の女王となるべき須勢理比売が大国主とともに豊葦原を治める代わりに、
根の堅州国に在らねばならぬというのか。
荒ぶる神の御子は、あの方だけではあるまい。
兄弟神の内の、何方かが治めればよいのだ。
――あの方が、必ず根の堅州国に必要と言うわけではないのでしょう?
自分の問いかけに、姉比売は静かに頭を振る。
――優しい方だから、きっと皆から必要とされているわ。
それに、国を治めるべき定めの方だもの。
豊葦原は妹比売に譲って、根の堅州国を治めることになりそうだわ。
姉比売が幾度願っても頷いてはくれぬ、優しくて強い方。
――一緒に往こう、そなたがいてくれれば、私はそれでいい。
不意に、視界が切り替わる。
目の前の、この方は愛しい背の君――八島士奴美様。
そして、自分は今姉比売を通してこの方を視ている。
いつも笑みを絶やさぬと聞いていた優しい容が、
今は真剣に姉比売を捕らえている。
伸ばされたその手を、とりたがっている姉比売がいる。
だが、その手を伸ばせずに言霊を継ぐ。
――いいえ。貴方が留まって。
だって、貴方は本来根の堅州国に在るべき方ではないでしょう?
八島士奴美――その名の通り、この大八洲の御霊となるべき方。
私とともに――『木之花咲耶比売』とともに、
この豊葦原で山津見の国津神を治めてください。
――それはできぬ。
すでに豊葦原は我が妹須勢理が大国主とともに治めている。
妹とは、争えぬ。
その眼差しは、苦しみに満ちていた。
どこまでも優しい方。
だからこそ、愛したのだ。
全て捧げてもいいほど、愛したのは貴方だけ。
それなのに、何故、私達はともに在ることが出来なかったのだろう。
愛しさと同じだけ、哀しみが溢れてくる。
愚かな自分は何も視えていなかった。
自分の怒りや憎しみ、哀しみだけで、貴方の痛みを、苦しみを視逃した。
どれほど愛されていたか、気づけなかった。
どうすれば、自分は、貴方を救うことが出来たのだろう――
頬を伝う涙に気づいて、咲耶比売は目を開けた。
「――」
起き上がって辺りを視回しても、そこには誰もいない。
どんな名残もない。
それなのに、すでにいないはずの姉の心が、最後に伝わってきた。
自分が視る夢は全て、思い出の中の姉だけだったのに。
「お姉様……?」
ベッドの向かい側にあるドレッサーの鏡には、自分の姿が映る。
それは、憑坐の姿ではなく、神代の頃の自分だった。
姉比売とうり二つの、美しい容が、泣いて救けを求めているようにも視えた。
否――これは自分ではない。
美しいぬばたまの瞳が、じっと自分を視据えている――
「お姉様――」
思わず手を伸ばして、咲耶比売は我に返る。
鏡に映っているのは、憑坐の――坂崎綾の姿だけだった。
今のも、夢――?
「――」
有り得ぬはずの夢を視て、咲耶比売はどうしていいのかわからなくなった。
いつも通り図書館で過ごす時間は、
美咲が朝に感じた不安を忘れさせてくれた。
いつもの場所に荒ぶる神がいて、本を読んでいる。
周囲には常に国津神達がいて美咲の世話をあれやこれやとしてくれる。
夜にはまた、慎也に逢える。
不安がる必要はない。
愛すべき神々が傍にいて護ってくれるのだから。
そろそろ午後二時を過ぎようとした頃、
スーツを着た長身の若い男が館内に入ってきた。
カウンターから見ていた美咲は、
それが見覚えのある男であることに気づいた。
本を読んでいた荒ぶる神も、
とっくに気づいてそちらに視線を向けていた。
隠していても神気が違うのはわかる。
彼は国津神ではない。
この神気は、天津神だ。
「瓊瓊杵様――」
カウンター近くまで来ると、男は優しく咲って会釈をした。
天孫の日嗣の御子――それが、この天津神の正体だ。
「母上様、今生では憑坐の名でお喚びください。
坂崎真尋と申します」
穏やかに咲う真尋は、瓊瓊杵命に相応しい憑坐だった。
美咲と建速、そして瓊瓊杵は、
一般用の玄関脇の休憩コーナーの丸テーブルに着いた。
「何用だ、瓊瓊杵」
問いかける荒ぶる神に、瓊瓊杵命が答える。
「今日は祖神様にお尋ねしたいことがあって参りました」
「許す」
「妻が、夢を視たのです。いないはずの、姉比売の夢を。
建速様、妻の姉君である木之花知流比売は、
真にもうおられぬのですか?」
その問いに、美咲は荒ぶる神に見せられた、
黄泉国での出来事を思い起こしていた。
禍つ神霊となった大山津見の娘、木之花知流比売は、
建速の剣から放たれた炎によって、その神霊を焼かれ、消滅したのだ。
「おらぬ。現世にも幽世にも。
姉比売は、神去ったのではない。
その神霊ごと消滅したのだ」
「――左様にございますか。
では、姉比売の血に連なる者は?
この現世の青人草として、今も続いているのですか?」
「多分、それもおらぬであろう。
姉比売の末は大国主の血統にも連なる。
かの神々は根の堅州国に神逐いされて後、全て絶えた。
純粋な神々の末たる血脈は、残っておらぬ」
「――」
「だが、命はわからん。
黄泉返った神々はいよう。
血筋は滅んだとは言え、密やかにこの豊葦原に息づいているはずだ」
荒ぶる神の言霊に、安堵した表情を視せる。
「わかりました。
何処かに在るのならば、それで良いのでしょう。
我が末がそうであるように。
全て忘れて青人草として、幸せで在れば。
妻にもそのように申し伝えます」
「夢を視ると言ったな、瓊瓊杵」
「はい」
「夢は、死の領域に限りなく近い。
死神であった咲耶比売が視たのならば、
何かが起こるかも知れん。
気をつけろ。
山津見の国津神達にも、気を抜かぬよう申し伝えよ」
「わかりました。
建速様は、もしやこれも黄泉大神の仕業と?」
「多分な。
そろそろ、黄泉神が動き出してもおかしくない。
俺は、美咲と慎也を護らねばならん。
そなたは、咲耶比売と山津見の国津神を護るのだ。
それが、豊葦原を護ることとなる」
荒ぶる神の言霊に、天孫の日嗣が咲って応える。
「御意に。今生こそは、我が使命を果たして視せましょう」
瓊瓊杵命が館内を出た後、入れ替わるように誰かが入ってくる。
四十代の落ち着いた雰囲気を纏わせた男が、こちらに近づいてきた。
だが、今度は美咲の知った顔ではなかった。
仕立てのいいスーツを着こなし、品の良さも相まって、高貴にさえ見えた。
だが、何処か人間離れした雰囲気を併せ持っていた。
国津神でも天津神でもないはずなのに。
美咲も、ようやくそれはわかるようになっていた。
荒ぶる神が先に声をかけた。
「八塚」
声をかけられた男が、
穏やかに微笑んで美咲達のテーブルへと近づいてくる。
「今お帰りになったのは
天孫の日嗣の御子で在らせられる瓊瓊杵様ですね」
「そうだ」
「御挨拶したかったのですが――また後ほどとしましょう」
「何をしに来た?」
「定例のご報告ですよ。
いつもなら出向いてくださるのに、
お忘れのようですから私が参りました」
A4サイズの茶封筒がテーブルに置かれる。
「ああ――もうそんな時期か。このところ忙しくてな」
「そのようですね」
ちらりと、美咲の方を見ると、もう一度荒ぶる神に向き直る。
「御挨拶しても、よろしいですか」
「よかろう」
短い許可に嬉しそうに笑うと、
男は胸元から名刺入れを取り出し、
一枚抜き取って美咲に差し出した。
「初めまして。藤堂美咲様ですね。
八塚宗孝と申します。
以後お見知りおきを」
「初めまして。藤堂美咲です……。
ここの司書です」
名刺を受け取り、礼をする。
顔を下げた時、名刺が視界に入り、
書かれた肩書きを見て、美咲は驚いた。
この高校の理事長だ――




