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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第六章 幸神ーさきわう神々ー

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10 儚幸 



 護らなければ、ならないものがある。


 この手で。


 必ず。


 そうできるのは、他ならぬ己自身。


 美しいこの世界――豊葦原の中つ国を。


 そこで、自分を慕うあまたの神を。


 自分のかけがえのない半身を。



 憐れで、愛しいあの方を――







 夢の名残を残したまま、美咲は目覚めた。


「……」



 護らなければならないものがある。



 その想いは、美咲の中にある奥深くの何かと同じだった。


 それは伊邪那美の記憶か。



 だとしたら、これは、また伊邪那美の夢なのか。



 そうであって、そうでないような気もした。


 だが、伊邪那美でないなら、これは誰の想いだろう。


 美しい真紅のイメージが、不意に美咲の中に広がる。


 想いの中で、その感覚は温かく、穏やかで、どこまでも清らかだった。


 紅玉のように深みのある、いつまでも見つめていたい(あか)


 この紅を、懐かしいもののように想う。


 かつてこの紅を、愛おしく想ったような気がする。


 切ないような感覚に、美咲は泣きたくなった。



 愛しいものを憐れだと、

 だからこそいっそう愛しく想うこの気持ちは、一体誰の――





「美咲さん、起きてる?」


 不意にかかる声に、美咲は虚ろな意識のまま応える。


「起きてない……」


 これも、夢か。


 慎也がいるはずがない。

 今は京都にいるはずなのだから。


「起きてないの? 答えてるのに」


 面白そうな響きを含んだ慎也の声が触れている身体からも伝わって、

 美咲は不思議に思う。


「――慎也、くん?」


「うん?」


 横たわっている自分を抱きしめているのは、勿論慎也だった。


 いつものように胸に抱かれている。


「京都に、いるんじゃないの?」


「京都だよ、ここ」


 即答に、美咲は昨日の記憶を呼び起こす。


 確か、電話が来たのだ。


 声を聴いて、逢いたくて堪らなくなって。


 建速が泣いている自分を抱きしめて。


 気づいたら慎也がいた。


「……え?」


 恐る恐る顔を上げると、

 やはり慎也が面白そうに自分を見つめている。


「おはよう。寝ぼけてる美咲さんも可愛いね」


「――!?」


 慌てて身体を起こして辺りを見回す。


 自分の部屋ではなく、見慣れないホテルの一室だ。


 美咲は、軽くパニックに陥った。


 本当に、京都なのだ。


 昨夜は、慎也に逢いたい気持ちだけで他に何も考えられなかったが、

 今日は勿論平日で、仕事もいつも通りあるのだ。


 カーテンから漏れる淡い光は早朝を示していた。


 朝になったら迎えに来る――そう言った建速の言葉を不意に思い出し、

 焦りとともに荒ぶる神を呼ぼうとした。


「た、たけ――」


 だが、そんな美咲を、慎也が引き寄せて抱き込む。


「ダメ。まだ呼んじゃ。ぎりぎりまで一緒にいたい」


「慎也くん」


「もう少し、寝ぼけててくれればよかったのに」


 強く抱きしめられて、美咲はもがくのを諦める。


「慎也くん、今何時?」


「教えない」


「慎也くん!」


「今日の夜も来てくれたら教える」


 慎也の提案に、美咲は眉根を寄せた。


「今日の夜も?」


「そう。でなきゃ今日このまま美咲さんと一緒に帰る」


 さらりと言われた言葉の意味を理解して、美咲はぎょっとする。


「だめよ、だめ! ちゃんと最後まで参加して」


「じゃ、来てくれるよね? 約束。じゃないと放さないから」


「わかったから! 今日もちゃんと来るわ。だから――」


 最後まで言わせず、慎也は素早く身体を放すと、

 美咲に覆い被さるように顔を近づけてキスをする。


「ありがと、美咲さん。すっごく嬉しい。

 まだ、六時になってないから、あと一時間はこうしてられるよ」


 そう言って、笑いながらまた顔を近づけてくる慎也を、


「ちょっと、何言ってるの!?」


 美咲は自由になった両腕で慌てて押し退け、もう一度身体を起こす。


 今度は、慎也は素直に放してくれた。


「だって美咲さん、キスしか許してくれないじゃん。

 許された権利は最大限使わないと」


 ベッドから身体を起こして壁に背を預ける慎也を、美咲は呆れて見つめる。


 当たり前だ。


 修学旅行中のホテルでそれ以上のことなど冗談ではない。


 美咲が困っているのに、慎也はしれっとしている。


 それどころか、そんな美咲の反応を楽しんでいる。


「人を困らせて、そんなに楽しいかな……」


「困ってる美咲さんも可愛いくて大好きだ」


「……」


 答えになっていない返答に、美咲は返す言葉もない。


 それでも、素直に心を表してくれる慎也を

 自分も大好きだし逢いたかったのだから、本当に始末に負えない。


 甘えるように、もう一度美咲を引き寄せて抱きしめる慎也に、

 抵抗する気力はもうなかった。


「ああ、ホントに美咲さんだ」


「うん……」


「寂しくて死にそうだった」


「うん……」


 それは自分の方だと、美咲は言いたかった。


 でも、慎也にはきっと言わなくても伝わるだろう。


 こうして、傍にいて、寄り添っていられれば幸せなのだということは。







 美咲は、迎えに来た荒ぶる神とアパートに戻った。


 朝食の準備をしようと思ったら、

 テーブルにはすでに食事の準備ができていたことに驚く。


「これ、どうしたの?」


「作った」


「誰が?」


「俺がだ」


 短い即答に、美咲の驚きはさらに倍増する。


「た、建速が? これを?」


 テーブルの上には、

 ワンプレートに簡単なサラダ、目玉焼き、カリカリのベーコンが

 見目よく置かれていた。


 二人分のテーブルセッティングも完璧だ。


 あとはご飯と昨日の残りの味噌汁を盛ればいいだけにしてある。


「永く生きているんだ。料理くらいできるぞ。

 まあ、食べる必要性はないが、舌を楽しませるのも悪くない」


「――」


 荒ぶる神がキッチンで料理。


 イメージできないが、確かに、料理は現実にここにあるのだ。


 慎也がアパートに頻繁に来るようになってから、

 食材は切らさないよう補充してある。それを上手に使ってあるのにも驚く。


 特別なものはないのに、盛りつけが上手いので朝から贅沢に見えるのが不思議だ。


 もしかしたら、自分より上手いのではないか――そんな思いにとらわれる。


「ありがとう。ご飯とお味噌汁盛るわね」


 炊きたてのご飯と温め直した味噌汁を盛ると、

 向かい合って食事を始める。


 荒ぶる神が傍にいることにも慣れ、

 食事も終えると空いた食器を重ねてシンクへと運ぶ。


 そのまま洗おうとすると、荒ぶる神に遮られる。


「俺が洗っておく。その間に美咲は準備をしろ」


「え、そこまでしてくれなくてもいいのよ?」


 慌てる美咲を、荒ぶる神が制する。


「俺が美咲のためにしたいんだ。何故止める?」


「ええっと、してもらうのが、申し訳なくて――」


「思うな、そんなこと。言っただろう。

 俺達国津神は、美咲のためにすることはどんなことであれ喜びなのだと。

 神代でそうであったように傅かれていろ」


「――記憶がないから無理よ」


「全員で押しかけてくるよりはましだろう。

 それに、俺は神代では伊邪那美に何もしてやれていない。

 少しは親孝行というものをさせてくれ」


「親孝行って――」


 唖然とする美咲に、荒ぶる神が咲う。


「さあ、準備をしろ」


 そうして、美咲をキッチンから追い出して引き戸を閉める。


「――」


 諦めて、美咲はクローゼットを開く。


 出勤用の服に着替えると、そっと引き戸を開けてバスルームへ移動する。


 手早く顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。


 それから、また静かに部屋へ戻る。


 大きな身体が背を向けて食器を洗っている。


 とてつもない違和感を醸し出していたが、

 どうすることも出来ないので見ないふりをする。


 ドレッサーの鏡に向かい、化粧を終えれば、もう準備は整った。


 同じ頃、荒ぶる神も片付けを終えて部屋へ戻ってくる。


「もういいのか?」


「ええ。出れるわ」


 玄関で靴を履こうとした美咲を、


「待て」


 荒ぶる神が止める。


「どうしたの、建速?」


 いきなり引き寄せられて抱きしめられると、

 驚く間もなく空間が揺らいだ。


「――」


 瞬きをする間もなく、

 そこはすでに美咲の部屋ではなく図書準備室だった。


「建速、何で――」


「――いや、何かが気にかかる」


「何かって、何が?」


「――わからん。だが、慎也が戻るまでは、家と図書館の敷地内からは出るな」


 暫し虚空を視据えて動かない荒ぶる神に、美咲は不安になる。



 また何かが起ころうとしているのか。



 不安が伝わったのか、荒ぶる神が優しく美咲を抱きしめ直す。


「大丈夫だ。何があっても護る。

 あんたと慎也を引き離したりしない。

 宇受売にも気をつけるよう伝えておいた」


「本当に?」


「ああ、言霊に誓う」


 神は嘘をつかない。


 その言霊を聞いて、美咲はやっと安心した。



 それでも、何かが起ころうとしている予感は、

 今朝の夢のように消えてはくれなかった――





 傍らで何かが動く気配で、咲耶比売(さくやひめ)は目を開けた。


「……」


 ベッドの中には、自分しかいない。


瓊瓊杵(ににぎ)様……」


 ネクタイを締め終えて、上着を着た男が振り返る。


「起きたのか」


 その姿に、愛しさが溢れてくる。


 夫である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が微咲みながら近づいてくる。


 ベッドの脇に座って、咲耶比売を優しく抱きしめた。


「まだ眠っているといい。子がいるから、眠くなるのだろう」


「ですが、お視送りもせずにいるところでした」


「よいのだ。とても安らかだったので、起こしたくなかった」


「はい、夢を視ていました。この憑坐達の出逢いの夢でした」


 憑坐の記憶には、愛しい想い出しかなかった。


 出逢ってすぐにつきあい始めた二人の恋が、

 愛に変わるのに時間は必要なかった。


 どちらも愛しさを隠さずに、諍いもほとんどなかった。


 幸福な時間を過ごしてきた憑坐達に降りられたことを感謝しなければ。


「この憑坐は、妻を本当に愛しているのだな。

 愛おしい想いが溢れて、私まで嬉しくなる」


 優しいくちづけが降りてくる。


 咲耶比売は幸せな気持ちでそれを受け入れる。


 幸福な時間。

 幸福な現実。


 憑坐達と同じように、自分達も幸せだった。


「もう往かねば」


 名残惜しげに瓊瓊杵が妻から離れる。


「いっていらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」


 穏やかに咲って、瓊瓊杵が扉の向こうに消える。


 咲耶比売は階段を下りる足音を目を閉じて聞いていた。


 階下で扉の開閉の音がした。


 そして、辺りはまた優しい沈黙に包まれる。


「……」


 咲耶比売はまた、穏やかな眠りの淵にいた。


 身籠もった現身(うつしみ)の身体は、よく眠くなる。


 だが、咲耶比売は、眠るのが好きだった。


 夢の中でなら、いつでも姉比売に会えるから。


 微睡みの中で、いつも、心は姉とともに在れる。


 だから、哀しむことなど何もないのだ。


 幸福な余韻に浸りながら、咲耶比売はもう一度横になり、

 微睡みの中に落ちていった。






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