9 真募
初めて出逢った時。
美しい花が、咲き乱れていた。
そこに佇む美しい女神。
咲き誇る花よりなお美しいその姿を、忘れることなどできなかった。
一目で心を奪われた。
その容も。
その心も。
――命さえ。
愛おしまずにはいられぬ女神。
ありのままの自分を、恐れずに受け入れてくれた唯一の。
多くを望んだりしない。
願いは、一つだけでいい。
傍にいられれば。
それだけで。
この抗えぬ執着を、満たされぬ渇望を。
鎮めてくれる、そなたがいれば。
自分は他に、何も要らなかったのだ――
庭に敷かれた光の輪は結界でもあった。
ただならぬ神の気配が外に漏れぬよう。
だが、結界をもってしても、
太陽の女神の神気や神威を隠すことはできない。
天孫の日嗣が神威を使い、さらなる結界を敷く。
二重に包まれた結界の中、美しき太陽の女神がその姿を完全に顕す。
染み一つない真珠のような光沢の白装束に、象牙色の肌が映える。
美しい容は、瓊瓊杵が高天原で最後に視たままに、ただ美しい。
どれほどの永い時を経てもなおいっそう麗しいばかりの太陽の女神は、
己が末裔を視据え、歓喜にうち震えていた。
「瓊瓊杵!!」
喜びに駆け寄ろうとする天照。
だが、天孫の日嗣は、それを制し、跪く。
「近づいてはなりませぬ。
貴女様の輝きは、憑坐の身には強すぎます」
その冷静な言霊に、天照の喜びに満ちた容が僅かに翳る。
高天原に在ってさえ気づいた天孫の日嗣の懐かしい神気。
喪ったと思っていた太陽の女神の末が再び今生に現象したことは、
天津神にとっても慶事であった。
それなのに、天之宇受売同様、
天孫の日嗣は天津神の聖地高天原に戻ってこない。
待ちきれずに再び豊葦原に自ら降り立ったのに、
天孫の日嗣は喜んでいるふうでもない。
「瓊瓊杵よ、憑坐なぞに宿り、どうする気だ。
何故高天原に戻らぬ。
よもや、建速の側につくというのではあるまいな」
「誰にもつきませぬ。
私はただ、妻とともに豊葦原で生きていきたいだけなのです」
「莫迦なことを!! そのような戯言をそなたの口から聞こうとは」
「戯言ではございません。
天照様、どうぞ私達をそっとしておいてください。
天降る際の私との誓約を、お忘れですか?」
天孫の日嗣の言霊に、太陽の女神は目を視張る。
「瓊瓊杵――」
「『――これより後は、豊葦原は天孫の日嗣とその末が治める。
天孫の末が治める限り、豊葦原に何事が在ろうとも
高天原の干渉は許されぬ。
高天原の天津神は豊葦原の存亡に関わることはできぬ』と」
「天孫の末など、もうおらぬではないか!?」
「いいえ。私の血に連なる末が、今も豊葦原に在るのです」
「それは、神ではない。
すでに記憶も神威もなく、神気すら失い、只人と成り果てた」
「そうです。すでに神代ではなく、豊葦原も神々のものではない。
そのように、時は過ぎたのです」
「瓊瓊杵――」
「祖神様の神霊とともに、私はずっと豊葦原を視ておりました。
美しく、愛おしい世界です。
そこに、我々神々はもういない。
此処は、青人草の世界となったのです」
「そなたは天孫の日嗣ぞ。豊葦原は、未だそなたのものなのだ」
「私のものだと仰るのならば、尚更、豊葦原への介入をおやめください。
天津神には高天原がございましょう。
ここはすでに、青人草の――人間の世界なのです。
その理に従って、私も妻とともに、人として生きて往きます。
そして、年老いて、死を迎え、再び黄泉返るでしょう」
「愚かな……そなたは、人のように愚かだ」
「愚かだからこそ、愛しいのです。
だからこそ、
記憶も神威も神気すら失ってなお神を求め続けるのです。
その愚かさが、何よりも愛おしい。
故に、私達はその思いに応えたいのです」
太陽の女神の容が苦痛を堪えるように歪む。
かつて己の送り出した末が
決して天に戻らぬと悟りながらも認められず、
言霊を募ろうとするも、
天孫の日嗣の心を変えることはできないと思い知らされたのだから。
それでもなお、天の主は美しい。
「そなたを、往かせるのではなかった……」
天孫の日嗣の御子が咲う。
「いいえ。
貴女様は正しきことを成されたのです。
私は今もそう思うております。
貴女様の成されることに、何一つ間違いなどございません。
かつても、今も。
これからもそうで在り続けると信じております」
それが、天孫の日嗣と太陽の女神が交わした、最後の言霊だった。
美咲は荒ぶる神とともに家に帰り、食事を済ませた。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、
荒ぶる神はまだ図書館で借りた本を読んでいた。
「美咲、携帯が鳴っていた」
「え?」
慌てて携帯を見ると慎也からメールが来ていた。
不在着信もだ。
待っている時は来なかったのに、
自分がちょっと携帯から離れたら連絡が来るとは。
「建速、どうして教えてくれないの!?」
「今教えただろう」
不思議そうに自分を視る建速に、
美咲は伝わらないもどかしさを感じた。
「そうじゃなくてっ――」
それ以上言葉を探せず、あきらめて慌てて慎也へかけ直す。
「慎也くん、ごめ――」
『美咲さん、逢いたいよ』
メールと同じ言葉が、慎也の声音で響く。
「――」
それだけで、もうだめだった。
「私も、逢いたい……」
涙が、零れた。
気持ちが溢れるのを止められない。
胸が痛い。
息ができない。
慎也がいない――それだけで、こんなに寂しくなるなんて。
想像もできなかった。
たった一日離れただけで、もう、こんなにも逢いたい。
声だけでなく、傍にいて、その存在を確かめたい。
建速でも、国津神でも、だめなのだ。
慎也でないと。
「だから、無理をするなと言ったろう」
ぱたんと、本を閉じる音がした。
美咲が視線を向けると同時に、
視界が荒ぶる神の大きな身体に遮られた。
「建速?」
美咲を抱きしめると、荒ぶる神は溜息をついた。
いきなりのことで、美咲は驚く。
「建速、放して」
「美咲さん!?」
電話越しの声と同時に響く慎也の声。
荒ぶる神の腕が放れて振り返ると、
携帯を耳に当てたままの慎也が驚いた顔で美咲を見つめている。
白い壁に、ベッド。
そこにすわってこちらを見つめたままの慎也。
静かな空調の音。
そこはすでに美咲の部屋ではなく、ホテルの一室だった。
「ど、どうして――」
「連れてきた。泣くぐらいなら一緒にいろ。朝には迎えに来る」
美咲を慎也の方へ優しく押し出すと、
荒ぶる神はその場から姿を消してしまった。
残されたまま見つめ合う美咲と慎也だったが、
動いたのは慎也だった。
携帯を切ってその場に放り出すと、
ベッドから立ち上がって美咲を抱きしめる。
いつもの慎也の感触に、美咲の手から、携帯が落ちる。
ごとりと絨毯敷きの床に落ちた音がしたが、
もうそんなことは互いにどうでもよかった。
服越しの鼓動が、何を言われても安心できなかった想いを
満たしていく。
「すごく逢いたかった」
「私も……」
慎也の声と温もりに、さざ波のように揺らいだ心が優しく凪いでいく。
そのまま動かない――動けない。
離れたくない。
互いが強くそう思っていた。
今離れたら死んでしまいそうなほど、恋しい気持ちが溢れる。
一日離れただけで、こんな風になってしまう自分がわからない。
それでも、慎也が傍にいる――ただそれだけで、
不安も悲しみも消えていく。
そうして寄り添ったまま、どれほどの時が過ぎたのか。
やがて、慎也が大きく息をついた。
「――もう絶対、美咲さんから離れたりしないから。
離れてる間中、全然生きてる感じがしなかった。
こんなの、もう嫌だ」
言い捨てるように呟くと、慎也はぎゅっと美咲を抱きしめ直し、
それから美咲をベッドに横たえ、すぐに唇を重ねた。
常にない性急さだったが、美咲は抗わなかった。
不安を感じる暇を与えないその性急さを、むしろ喜んだ。
今はただ、この幸せを感じていたい。
一緒にいたい。
永遠に、このまま――
離れていた時間を埋め合わせるように、二人は何度もキスをした。
夜の闇に紛れ、すでに、豊葦原には闇の主と闇の遣いが降臨していた。
深い眠りにより完全に癒えた闇の主は、
この豊葦原に降り立ったことに内心驚きながらも平静を装う。
闇にあっても輝く地上の光は、
夜空の星を全て集めて地上に降ろしても足りぬほどだ。
黄泉国の静穏とはほど遠く、様々な音で溢れ、
賑わう世界に眉を顰める。
「豊葦原は、確かに神代とは全く異なってしまったようだ」
――青人草は、神威を失った代わりに、別の神威を得たようでございます
闇の遣い――今は神格を上げた九十九神が答える。
「九十九神。準備は整ったか」
――すでに。主様の命を待っております
「では、国津神に気取られぬように動け。
決して急いてはならぬ。命があるまで、ただひたすら待て」
――御意に
闇にあってなお美しい闇の主が微咲む。
その後ろには、仄暗い神気を持つ、死神を従えていた。
「まずは、国津神を抑えねばならぬ」
闇の主の言霊に、死神は静かに頷いた。
「哀れな比売神。
束の間の安寧に酔いしれるがいい。
またもや黄泉路を降ることになろう――」




