8 幸環
「――」
美咲の心の動揺とともに、風がざわめく。
木々が揺れる。
「母上様、心を静めてください。お傍に在る神々が、心痛めております」
坂崎綾の内に在る木之花咲耶比売の神気が揺らぐ。
それは、美咲の揺れる心に染み入るように伝わる。
穏やかな神気を感じ、
美咲は八つ当たりのように咲耶比売に問いかけたことを恥じた。
「記憶を持たぬまま、神々と接するのは、不安でございましょう。
同じご様子の父上様とも離れて、
母上様の不安が増しているのがわかります。
ですが、我々神々は、祖神である貴女様を愛おしく想い、
お傍にいたいだけなのです。
不安になることはございません。
母上様が、何を思って現世に戻られる決意をし、私を伴ったのか――
その答えは、すでに母上様の中にあるのです。
いずれ、刻が到れば、思い出すことになりましょう。
それまでは心お健やかに、父上様とお過ごしくださいませ。
何があろうと、父上様と母上様のお傍でお護り致します。
国津神をお信じくださいませ」
穏やかな言霊に、美咲は夢の中でも、
似たようなことを言われたと思い出した。
「夢でも、言いましたよね? 残された時間は――って。
だったら、一緒にいられる時間は少ないってことですか」
「はい。人であっても、短い刻でございます。
神たる我らには、恐ろしいほど刹那の刻でございましょう」
「なら、みんな、待つだけですか。私の記憶が戻るまで」
「ただ待つのではなく、悔いなく、生きたいのです。
愛しい方とともに」
咲耶比売は微咲む。
「今生での、この憑坐の夫に瓊瓊杵様は入られました」
突然の告白に、美咲は驚く。
そうだ、綾は結婚しているのだ。
ならば、咲耶比売の夫である瓊瓊杵が、
綾の夫に憑くのは当然のことなのかも知れない。
「そう、ですか――」
だが、美咲には何とも複雑な気分だった。
人間を憑坐として神が中に入るということは、
その肉体を奪うということではないのか。
国津神のことは大好きだが、
美里と莉子が全くの別人のようになってしまったのを目の当たりにした。
自分に関わったために彼女らの人生や生活が奪われてしまったような気がして、
どこかいたたまれないのも本音なのだ。
「実は、ここに子がいるのです」
咲耶比売は幸せそうに下腹を押さえる。
「神代が過ぎ去った今、我々は憑坐なくして現世には現象できません。
青人草の命の輝きには恐れ入るばかりです。
世界は命に満ちあふれ、我々を受け入れられる憑坐は、神を身に宿しながら、
なお我々神々に影響を与えています。
人間とは、神威も神気も失った我々の末裔。
この存在もまた、我々国津神には愛おしみ、慈しむべきものです。
憑坐は決して、不幸にはなりませぬ。
ご安心ください」
美咲の物思いなど、咲耶比売にはお見通しのようだ。
「子の誕生を瓊瓊杵様とともに迎えたら、
以前のように憑坐の中で眠り、
人として生きていこうと思っております」
「え……」
「ですから、母上様と現世でお目にかかるのは、
きっと僅かでございましょう。
お会いできる内に、お礼を申し上げたかったのです」
「咲耶比売」
咲耶比売はベンチから立ち上がり、美咲の正面に立つ。
美咲も慌てて立ち上がった。
咲耶比売が、そっと美咲の手をとり、恭しく頭を下げる。
「私の我が儘を聞き届けてくださって、ありがとうございます。
禍つ神霊となった姉を救い、
瓊瓊杵様と再び出逢わせてくださり、
心より感謝致しております」
触れ合った手から伝わる、温かな感情。
馴染むように違和感なく感じられる神気。
ずっと一緒にいたのだ。
記憶がなくてもわかる。
この女神は、
ずっと自分とともに愛しい夫を求め、捜し、生きてきた。
愛しさを重ね、
哀しみを重ね、
ただずっと、ともにいてくれた。
不意に、美咲は泣きたくなった。
「感謝なんて、される資格ないんです」
「母上様?」
「咲耶比売の願いを叶えるためだけに、したことではないんです。
きっと、伊邪那美は――私は、自分のためにそうしたんです」
あの夢が伊邪那美の記憶ならば、自分は彼女を利用したのだ。
純粋な好意で、したわけではない。
それなのに、感謝されるなんて。
罪悪感に、胸が痛む。
美しい女神の心根に、自分は応えられるほど美しくはない。
「咲耶比売が死んだのだって、伊邪那美のせいかもしれない。
伊邪那美は視ていました。黄泉国から、貴女を――」
直接手を下したわけではない。
だが、敢えて、視ていた。
自分と同じ運命を辿って、黄泉路を降るのを待っていた。
それは、見殺しにしたのと同じことではないのか。
「それでも、貴女様は我ら国津神の祖神様で在らせられます。
お忘れくださいますな。
貴女様なくして、我らは存在し得ないのです。
私達は全て、貴女様から分かたれた命。
この国のあらゆる命を、この世界を、愛して止まぬもの。
我ら山津見の国津神は、母上様の御帰還を永遠に言祝ぐでしょう」
美咲の物思いを咲耶比売は全て受け止め、包み込む。
限りない愛。
曇りない愛。
それが、国津神なのだ。
自分を愛して止まぬもの。
自分が愛して止まぬもの。
それは限りなく純粋で、穢れなく、一途に潔い。
もしも女神の記憶があったなら、自分は何を伝えるだろう。
「今、お幸せですか……?」
「はい」
咲く花のように美しく、咲耶比売が咲う。
「神代の時よりも、ずっとずっと幸せです。
それは、紛れもなく、貴女様が与えてくださったのです」
あまりにも幸せそうなので、美咲は、また泣きたくなった。
美しい比売神が図書館の正面玄関を出ると、周囲の空気が変わった。
木々が、草花が、優しく輝く。
午後の日差しを受ける大気もまた、淡く輝く。
そして、脇の芝生に備え付けられたベンチに座る天津神が、
比売神に気づいて咲う。
夫である天津神が立ち上がり、比売神のもとへと近づく。
麗しい一対の神々に、よりいっそう、世界が喜びに輝いた。
「お待たせ致しました」
「母上様とのお話は済んだのか」
「はい」
「では、戻ろう」
瓊瓊杵命が木之花咲耶比売の肩を優しく抱いて歩き出す。
通り過ぎるごとに、周囲の木々が、草花が、優しく揺れる。
それは、豊葦原の国津神々の言祝ぎの証だった。
母神の帰還を祝うとともに、
国津神々は、この比売神の帰還をも言祝いでいた。
母なる女神を喪ってから、久しく国津神々は哀しみに沈んでいた。
その哀しみを和らげたのは、この比売神の誕生だった。
美しい二柱の比売神。
国津神々は、皆、この比売神を愛しんだ。
母神の神威を受け継ぐ麗しい女神達が、
失われかけていた天と地の絆を再び結び合わせ、
より確かなものにしてくれると信じていた。
だが、些細な誤解が比売神達の運命をねじ曲げ、結局、神代は終わった。
国津神々はこの地に封じられ、神々にとってさえ永き時が流れた。
それでも、今生に至って、
母神が黄泉返るとともに、比売神の片割れも戻ってきた。
国津神々は喜んだ。
神々の幸わいが、この豊葦原に再び返ってきたことを。
喜びを隠さない美しい世界に、
天と地を結ぶ神々が寄り添い、歩いていく。
これこそが、まさに幸わいであった。
「国津神々が言祝いでいる。そなたの帰還を」
「勿体ないことでございます。
神代では、何の努めも果たせませんでしたのに」
「そなたがそこに在ることこそが、国津神々と私の幸わいなのだ」
歩みを止めて、瓊瓊杵が咲耶比売と真向かう。
愛しさを隠さずに視つめる夫に、咲耶比売も微咲み返す。
堪えきれずに、瓊瓊杵は妻を引き寄せ、抱きしめる。
「瓊瓊杵様、外でございます。人の目もありましょう」
「視られても構わぬ。現世に在っても、我らは連れ合いではないか。
人目を憚ることもない」
困ったような咲耶比売の言霊にも、瓊瓊杵は腕を解く気配がない。
「神代では、傍にいることができなかった。
今生では、片時も離れたくないのだ。祖神様のように」
瓊瓊杵の言霊に、咲耶比売もまた夫を抱きしめ返す。
「今生こそ、
決してそなたと離れまい。
言霊に誓う」
「嬉しゅうございます――」
寄り添う二柱の神々。
優しい光がそれを取り囲み、美しい光景を創り上げる。
愛しい妻を取り戻し、やがて、子も生まれる。
神代で失った全てを取り戻した幸福に、天孫の日嗣は酔いしれる。
妻の憑坐は、子を宿せぬ身体であった。
だが、咲耶比売の神威により、子を宿らせた。
何より憑坐達も望んでいたからだ。
比売神と天孫の日嗣の憑坐が、不幸で在ってはならない。
二柱の神々は、ともにそう思っていた。
「次に黄泉返る時は、ともに往こう。黄泉国でも、ともに」
「はい」
愛しい妻の背後に視える景色。
神代とは違う、すでに神々を必要としない世界。
それでも、瓊瓊杵は豊葦原が愛おしかった。
全てが変わりゆき、何一つ同じもののない世界。
いずれ、この景色も変わる。
人の世が続く限り。
変わらないのは、人の営みだけ。
足早に過ぎ去る世界は、それでも――否、それだからこそ愛おしい。
この刹那を留めたいと思い、叶わぬ故に、いっそう恋うる。
愛しい世界に包まれながら、二柱の神々は家路に着いた。
妊娠を機に、妻の憑坐の実家である斉藤家に越してきた若夫婦は、
近所の住民と自然に挨拶を交わし、門扉をくぐった。
門扉をくぐり抜けて、不意に瓊瓊杵は立ち止まった。
その気配に、咲耶比売が振り返る。
「瓊瓊杵様?」
「何でもない。先に入っていろ。庭を視ていく。すぐに戻る」
優しく促す夫に微咲んで、咲耶比売は従った。
その姿が扉の向こうに消えると、
程なく瓊瓊杵の周囲に光の輪が描かれる。
先ほどまでの穏やかな表情が、瓊瓊杵の容から一切消える。
目の前に、もう一つ、光の輪が顕れ、同時に神々しい気配が降り立つ。
それは、太陽の女神の神気であった。
「天照大御神――」
呟く言霊は密かだった。




