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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第六章 幸神ーさきわう神々ー

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2 帰常



 夢のような一夜をともに過ごした朝。


 目を覚ますと、愛しげに自分を視つめる眼差し。


 身を起こし、居ずまいを正す。


――瓊瓊杵(ににぎ)様……


――もうすぐ夜明けだ。すぐに立たねばならぬのが惜しい。


 夫となった麗しい男神がそう言って自分に微咲む。


 愛しさに、胸が痛む。


 これからしばらく離れるのだと思うと、もう恋しいとさえ思う。


――豊葦原を制定したら、迎えをよこす。

  それまで、待っていてくれるか?


――はい。お待ち致します。

  私のことをお忘れにならないでくださいませ。


 恥じらうように告げると、

 愛しさを隠さずに抱きしめられる。


――忘れることなど、できようはずがない。

  ああ、できることなら連れて往きたい。


――私も、ついて往きたく思います。

  ですが、足手まといになることはできませぬ。

  大業が恙なく成されましたなら、迎えに来てくださいませ。

  姉とともにお待ちしております。


――そなた達は本当に仲がよいのだな。

  大山津見(おおやまつみ)殿に妻問いした際に、

  姉比売にともにと名乗り出られた時は正直驚いた。

  姉比売は私をまるで敵を視るような眼差しで睨みつけていたからな。

  申し訳ないが、姉比売には、天津神の中から良い男神を視つけてやろう。


 最後の言霊に、驚く。


 内密ではあるが、姉には、すでに夫がいるのだ。


――いいえ、なりませぬ!!


――咲耶?


――あれは、私を心配した姉が私のために申したのです。

  常々、私の相手は自分が視つけてやると申しておりましたから。

  姉には、まだ嫁ぐ気はありませぬ故、そっとしておいてくださいませ。


――では、私は姉比売に、

  そなたを娶るに相応しいかどうか試されたということか?


――も、申し訳ございません。姉は――


――よい、怒っているのではないのだ。姉比売が心配なのもわかる。

  こんなに愛しいそなたを何処の誰ともわからぬ男にくれてやるなど。


――まあ。天孫(てんそん)日嗣(ひつぎ)御子(みこ)様が、

  ご自分のことをそのように仰るなんて。


――そなたの姉比売は私が天孫の日嗣だから、許したのではないよ、咲耶。

  姿形がどれほど似通っていようとも、

  私が欲しいのはそなただけだとわかったから、許してくれたのだ。


――瓊瓊杵様……


――初めて誰かをこのように愛しいと思ったのだ。そなただけだ、咲耶……


 頬を引き寄せられて、くちづけられる。


 くちづけだけで、身体が熱くなる。


 徐々に深くなるくちづけに、昨夜の心地よさを思い出す。


――瓊瓊杵様……もう、お支度を……


――まだ早い。もう少し、このまま――


 そのまま褥に押し倒される。

 

 従順な身体が、昨夜の交合いの名残を知らしめる。


――これなら、すぐだ。


 耳元で囁かれて羞恥に身を染める。


 言霊通り、抗う間もなく深くくちづけられる。


――愛しき我が妻よ、すぐに迎えに来る。

  それまで、この一刻(ひととき)を、私を、忘れないでくれ。


 交合いの後に、囁かれる言霊。


 優しげであるのに容赦なく、

 傲岸でもあるのに慈悲深い。


 惹かれ、引き寄せられ、抗うこともできない。


 天津神とは、皆このようであるのだろうか。


 否――こんなにも心震わせるのは、この方だけ。


――忘れることなど、できましょうか。

  一日も早いお召しを待っております。


 だから、まだおさまりきらぬ震えを余所に、その首筋に縋り付く。


 抱きしめ返してくれる腕はどこまでも揺るぎない。


 それは、天神地祇(てんじんちぎ)が永久に一つになる結びつきであった。






――御子様、ご機嫌ですな。


 大山津見の屋敷を去ってほどなく、神田比古(かむたひこ)が瓊瓊杵に声をかける。


――ああ。妻を娶るというのはいいものだ。

  神田比古も早く妻を娶るといい。


――出逢ってから、常に妻問いしておりますが、

  なかなか色よい返事をもらえませぬ。

  御子様に秘訣を伝授して頂きたいものです。


 随伴神である天之宇受売(あめのうずめ)も勿論傍らにいて、

 神田比古の物言いに眉を顰める。


――神田比古!!


――秘訣か。断る隙を与えぬことだ。

  迷う暇もなければ、頷いてくれるであろうよ。なあ、宇受売。


 言霊を向けられて、宇受売は苦々しく神田比古を一瞥し、

 天孫の日嗣の御子に言霊を返す。


――生憎ですが、御子様。神田比古は隙だらけです。

  そのような男に嫁ぐ女はおりますまい。


――ふむ。では、今度は隙なく攻めてみるか。

  覚悟しておけ、宇受売。


――莫迦者が……そういう処が隙だらけだというのだ。


 呆れたように呟く宇受売。


 咲い合う神々。


 豊葦原の平定は始まったばかりだが、

 神々は皆、前途洋々としていた。







 美咲が現世に戻ってきてから三日が過ぎた。


 眠って、目が覚めたら、

 不思議なことに美咲は哀しい記憶だけ失っていた。


 荒ぶる神に問われても思い出せず、逆に聞いても、


「忘れてしまったなら、それは今の美咲に必要のないものだ。

 必要ならば、いつか思い出す」


 そう言ってくれたので、美咲も気にしないことにした。


 そうして、

 何事もなかったかのように慎也と二人、日常へと戻った。


 美咲は仕事に、慎也は夏期講習に。


 すでに昼近くで外の暑さはなかなかのものだが、

 図書館の中は空調がきいている。


 そのせいか、夏期講習後の生徒やら一般利用者でかなりのものだ。


 これから、生徒達は帰り、

 一般利用者も昼食のために帰ることになるだろう。


 図書の貸し出しも山中と二人でするほどだが、

 ピークを過ぎれば二人で昼食をとれるまで暇になる。


 そろそろ返却された本を返しに行こう――そう思って立ち上がろうとすると、


「母上様。この本は書棚に戻せばよろしいのですか」


 カウンターの向こうから声がかかる。美里と莉子だ。


 しかし、姿はそうであっても中身は違う――その中には神が宿っている。


「いえ、あの、これは私の仕事だから」


「お手伝いさせてください。お役に立ちたいのです」


 そうして、積み重なった本を、

 美里と莉子の中にいる久久能智(くくのち)石楠(いわくす)が運んでいく。


 仕事のなくなってしまった美咲は、困り果てて司書教諭の山中を見る。


「山――」


「どうぞお休みください、母上様。皆、貴女様のために何かしたいのです」


 さらりと言われて脱力する。

 そうだった――姿は山中でも、彼女も中身はやはり神なのだ。


 天之宇受売命(あめのうずめのみこと)――それが、山中の中にいる女神だった。


 聞けば、一緒に根の堅州国に向かったらしい。


 行きはフードを被っていたし、途中からは自分の意識はほとんどなかったから、

 美咲は全く気づかなかった。


 図書館の常連である斉藤には、大山津見命(おおやまつみのみこと)が、

 禍つ神霊であった木之花知流比売(このはなちるひめ)はその娘である坂崎綾から祓われた今、

 その身体には自分の中にいたという

 木之花咲耶比売(このはなさくやひめ)が宿ったと聞いた。


 神々は憑坐となれる人間に憑かねば現世に現象できないという。


 神々の神気と神威を宿せる人間はそこら中にいるわけではないが、

 この高校や自分の周りにいる者の中に多く存在しているというのだ。


 そう言う意味では、

 すでに美咲の周囲に普通の人間はいないらしい。


 そうして、そろいもそろって、

 皆が美咲のために何かをしたがる。


 美咲は普通に仕事をしたいのに、

 誰も彼もが仕事を奪ってしまう。


 最初の一、二度ならばわかるが、

 美咲が椅子から立ち上がろうものなら皆が慌てて駆け寄ってきて、

 悉く仕事を奪っていってしまう。


 日常に戻ってからもう三日目であるが、

 美咲は座っているしかないのが新たな日常となりつつある。


「――」


 大きく息をつくと、美咲は窓の外を見やる。


 見ないようにしていたのに、つい視線を向けてしまえば、

 あとはもう視線をそらせなくなる。


 そのいつも通りの景色さえ、今は違っていた。


 図書館を囲む木々の濃い緑が、風に揺れて煌めいている。


 美咲はその当たり前のはずの光景に、目を奪われ、心までも奪われる――



 朝、目が覚めたら世界が変わっていた。


 感覚が、全く別のものを感じるようになっていた。


 視力が急激に上がったかのように見るもの全てが鮮やかに見える。


 聴力が急激に上がったかのように聞こえるもの全てが美しく響く。


 そして、何より、神の気配をそこここに感じるようになった。


 憑坐がいなくとも、風が、水が、木々が、

 あらゆる命に宿るあらゆる神が傍にいるのを感じる。


 ふとした拍子に感じる、温かな視線。

 振り返っても、そこには何も、ない。


 誰も、いない。


 以前だったら気のせいだと思いこむ、

 その僅かな感覚が、今は確信を持って感じられる。


 そこに、神々がいる。


 護られているのがわかり、美咲は心から安堵した。


 晴れた朝の空、

 夕暮れの帰り道、

 星の瞬く夜に、

 ふと眺めやる風景にさえ、泣きたくなる。


 ふとした風にそよぐ木々の葉に、

 流れる雲に靡く草花に、

 木漏れ日に、梢の影に、

 雨の音に、川のせせらぎに――今までに感じなかった神を感じる。


 世界は美しい。


 人工ではない命が創る世界は、

 神が宿る世界は――紛れもなく美しい。


 それだけで、わけもわからぬ郷愁が押し寄せる。


 此処に、この空の下に、返ってきたかった。


 ずっとずっと。


 この込み上げる想いを、抑える術がわからない。


 見つめていたい、飽くことなく。

 時を止めて、何も変えずに――ただ、そのままに。


 染み入るように、そう思う。


 気づいてしまったら、もう戻れない。

 ここ以外の何処に、返りたいと願えるだろう。


 溢れる愛しさに、幸せな涙が零れる。



 想いに応えて、光の雨が降る――



「また泣いてる」


 横からかかる声に意識を引き戻され、

 視線を向けると慎也が立っている。


「――」


 泣きたいような、笑いたいような切ない感覚は、

 慎也を見ても溢れてくる。


 この世界で、こんな風に、

 いつまでも見つめていたいと思う最たるものは、慎也だ。


 いつも、逢いたくて、傍にいたくて、触れていたいと思う。


 この感情は、

 恋と呼ぶには切なすぎて、愛と呼ぶにはもどかしすぎる。


 引力のように分かちがたく惹かれ合う、

 それは建速が言う『対の命』であるからなのか。


 だが、その気持ちは、ここでは抑えなければならない。


 頬に触れようとする慎也に気づいて、慌てて涙を拭う。


「もう泣いてないわ。大丈夫」


 その態度に、慎也が眉を顰める。


「美咲さんが、いつにも増してよそよそしい」


「――――そんなこと、ないわよ」


「その間が、確信犯だ」


 図星を指されて、一瞬だけ視線が彷徨う。


「俺は、美咲さんと一分一秒でも離れてたくないと思ってるのに、

 美咲さんはそうじゃないんだ」


「そうじゃないことはないんだけど、

 そうじゃなくもなくないような……?

 ……あれ?」


 自分は否定したいのか肯定したいのか、

 言っていてわからなくなってきた。


「自分で言っててわけわかんなくなってる。確信犯だな、やっぱり」


 軽く息をつくと、慎也は山中に向かって声をかける。


「宇受売」


「はい、父上様」


「俺と美咲さん、書庫にいるから、出てくるまで誰も近づけないで」


「御意に」


 あっさりと従う山中――宇受売に、それは良くないと言おうとしたが、

 その前に腕を取られて書庫へと連れ込まれた――





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