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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第六章 幸神ーさきわう神々ー

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1 帰還


 慎也が幾度目ともわからぬほどの神威を送った時、

 八方陣が澄んだ響きを立てて壊れた。


 陣を覆っていた不思議な輝きが、

 細かな煌めきとなってゆっくりと降り注ぐ。


 金色の雨のように。


 今まで動かなかった美咲が、慎也の腕に触れた。


「……美咲さん?」


「……もう、大丈夫だから、離して……」


 素直に、慎也が離れる。


 美咲も身体を起こす。


 不思議なことに、慎也が離れた途端、

 交わりの名残はなく、身体にも違和感がない。


 あれが、神威を送るという行為だったからこそなのか。


 ただ、痺れるような熱が、身体を満たしている。


 あんなにも重く、動かなかった身体も今は動かせる。


 これが、神が交合(まぐわ)うということなのだとしたら、

 伊邪那岐と伊邪那美が交合うことで

 様々な奇蹟を産み出したというのも嘘ではないのだ。


 現世の(ことわり)をも覆す交合い。


 死をも引き戻すその神威に、ただただ圧倒される。


 もしも自分と慎也に神としての神威と記憶が戻ったら、

 世界はどうなるのだろう。


「美咲さん?」


 束の間、ぼんやりしていた美咲の前に、身支度を調えた慎也が映る。


 長い指が、美咲のワンピースの前ボタンを留めていく。


「じ、自分で――」


「いいから」


 声音が、少し怒ったようにも聞こえて、美咲はそれ以上抵抗できない。


 動いている慎也を見て、ようやく純粋な安堵が込み上げてくる。


 無事に、戻ってきたのだ。


 自分には根の堅州国が崩壊してから、千引の岩のところまでの記憶しかない。


 なぜ、目覚めて慎也とああいった状況になっていたのか

 さっぱりわからず、恐怖や羞恥しかなかったが、

 今は、動いている慎也が傍にいて、自分に触れているのだ。


 手を伸ばして頬に触れる。


 その感触も、今は泣きたいほどに懐かしい。


 ボタンを留め終わった慎也が、美咲に視線を合わせる。


 それすら、愛おしい。


「よかった……」


「全然よくない」


 やはり怒ったように言い捨てて、慎也が美咲を引き寄せて抱きしめる。


「し、慎也くん」


「全っ然よくないよ。目が覚めたら美咲さんが死にかけてるし、

 それが、俺を救けに黄泉国まで行ったせいだっていうし。

 何でそんな危ないことするかなあ。すっごい心臓に悪い」


 矢継ぎ早に言われて、美咲はわけもわからず戸惑う。


 ここは、自分が責められるところなのか?


「えぇっと……ごめん、なさい?」


「語尾が疑問形なのは、悪いって思ってない」


 思い知らせるかのように、

 慎也の腕に力が入り、さらに強く抱きしめられる。


「ちょ、慎也くん、痛い」


「俺の心臓は、もっと痛かった」


 きつく抱き込まれて顔も上げられないまま、

 抗議も聞き入れてもらえない。


「すごい痛かった。

 美咲さんがこのまま目を覚まさなかったらって思ったら、

 痛くて、苦しくて、俺のほうが死にそうだった」


「私も、そう思ったから迎えに行ったの」


「俺のことなんかいいんだ!!」


 常ならぬ慎也の怒りを孕んだ声音に、美咲は驚く。


「俺をおいていくのだけは許せない。

 おいていかれるのだけは、駄目だ。

 約束して。俺をおいていかないって。

 俺より先に死ぬのだけは、絶対に認めない」


 慎也の脅えが伝わる。


 奪われるのを恐れるようにきつく抱きしめてはなさい慎也は、

 子供のように頼りなげで、必死だった。


「――おいていったりしない。ずっと一緒よ」


「ホントだよ。約束破りそうだったら、

 部屋に閉じ込めて、縛って、一生出さないから」


 物騒な物言いに、やりかねないと思いながらも美咲は頷く。


「約束する。するから、放して……」


 美咲の言葉に、渋々慎也は腕の力を緩める。


 それでも、拘束が緩まっただけで、全く離れてはいないのだが。


「さて、もういいか?」


 横からかかる声に、美咲ははっとしてそちらを向く。


 すっかり忘れていたが、神々が周囲を取り囲んでいたのだ。


 勿論、今の慎也とのやりとりなど筒抜けだ。


 未だ背を向けていてくれるのが、せめてもの救いだった。


「た、建速(たけはや)。ごめんなさい」


 荒ぶる神が(わら)って振り返る。


 自分達は水面、しかし、神々はプールに身を浸して立っている。


 おかしな光景だった。


「無事ならいい。一旦アパートに戻ろう。話はそれからだ」


「そ、そうね。慎也くん、腕を放して」


「やだ」


 短く言い捨てて、慎也の腕が美咲の腹部に絡まり、

 指をしっかり組んでホールドする。


「し、慎也くん!?」


「絶対、やだ――」


 語尾が消え、背中に慎也の体重がかかる。


 慎也の顔が、美咲の肩に押しつけられる。


「えぇっ? 慎也くん、ちょっと」


「美咲、無理だ。意識がない」


 苦笑混じりの荒ぶる神の声。


 慎也からの返答も反応もない。


「あんたを現世に戻すために俺達の神威を受けたから、疲れたんだろう。

 しかも、死を覆すための神威だ。

 記憶もない人間の身で神威を受け取るのは相当な負担だったはずだ」


 意識がなくても美咲を放そうとしない慎也に、

 荒ぶる神が水の中を歩いて近づき、手を伸ばして触れる。


「仕方がない。このまま連れていく」


「え? どうや――」


 最後まで聞き終える前に、美咲は風を感じた。


 視界がぐにゃりと揺らいだかと思ったら、

 次の瞬間にはもう、そこは美咲のアパートの中だった。


 荒ぶる神はベッドの上掛けを捲ると、

 美咲を抱きしめたままの慎也ごと軽々と持ち上げ、

 二人一緒にベッドに横たえた。


 慎也の腕が放れない以上、仕方がないことだが、

 美咲は羞恥でいたたまれなかった。


「これでいい」


「ご、ごめんね、建速」


「気にするな。

 伊邪那岐が伊邪那美しか眼中にないのは、神代から変わらん」


 上掛けを掛けてやると、荒ぶる神はベッドの端に腰掛け、美咲を視下ろす。


「永い道往きだった。

 もういつも通りの生活に戻れるが、今日は身体を休めたほうがいい。

 きっと、明日には、現世と幽世の時間の差違に戸惑うだろう」


 確かに、永く辛い道往きだった。


 荒ぶる神の言霊を聞いたことで、

 美咲は、心の奥底に沈めたはずの哀しみが沸き上がるのを

 とめられなかった。


「建速……」


 言いよどむ美咲に、荒ぶる神は優しく先を促す。


「何だ、言いたいことがあるなら、言ってみろ」


「――伊邪那岐は、本当に伊邪那美を愛してた?」


 その問いに、荒ぶる神は一瞬だけ、虚をつかれたような表情を視せた。


「――そうでなければ、俺は現象していない。

 なぜそんなことを思った?」


「だって、黄泉国(よもつくに)で、おいていってしまったもの……」


 言葉とともに思いが溢れ、涙が零れる。


 あんなに呼んだのに。

 泣いて縋ったのに。


 振り返ることなく、行ってしまった。


 忘れたいと願ったのに、

 哀しみが強すぎて、

 しこりのように心に残り、消えてくれない。

 

「それでも、また戻ってきた。

 もう一度迎えに往ったろう?」


「え?」


 訝しげな美咲に、荒ぶる神が小さく咲った。


「そうか、黄泉国では、咲耶比売(さくやひめ)だったからな」


「咲耶比売……?」


 荒ぶる神は美咲の頬に手を当て、屈み込むと額を合わせた。


「目を閉じろ。視せたほうが早い」


 言われるままに目を閉じると、

 閉じた目蓋の裏に映像が浮かび上がる。


 黄泉国に行けない自分の代わりに、

 顕れた木之花咲耶比売(このはなさくやひめ)


 黄泉国で、黄泉日狭女(よもつひさめ)が咲耶比売に告げた言霊。


――貴女様方が黄泉国を去られてから、

  父上様が再びおいでになったのです。


 瓊瓊杵命(ににぎのみこと)は祖神とともに追ってきたと言った。


 戻ってきたの?

 本当に、ここまで追ってきてくれたの?


 でも、それは本当に私のため?


「……う、ぅ……」


 堪えきれない嗚咽が漏れる。


 荒ぶる神が少し離れて、美咲の顔を覗き込む。


「なぜ泣く?」


「だって、わからないもの……」


 慎也の気持ちを、疑うわけではない。


 あからさまでひたむきな気持ちを、嬉しいとは思う。


 だが、どうしても、慎也と伊邪那岐が重ならない。


 同じなはずなのに、同じに思えない。


 だから、怖い。


 慎也が伊邪那岐の記憶を取り戻したなら、

 今向けられている愛情はそのまま続くのか。


 自分が伊邪那美の記憶を取り戻したなら、

 裏切られた怒りのほうが勝るのではないか。


「……記憶なんていらない……このまま、思い出さずにいたい……」


「伊邪那岐を、許せなくなりそうで?」


「だって、思い出すのは、哀しいことや辛いことばかりだもの……

 嬉しいことや、楽しかったことが、思い出せない……」


 幸せだったはずの記憶は、まるで朝方見る儚い夢のように僅かで、朧気だ。


 代わりに込み上げてくるのは、哀しいことばかり。


 ただ、一緒にいたいだけなのに。

 愛しい気持ちだけを、憶えていたいのに。


 あんなにも焦がれた想いを、今は思い出せない。


「それでも、俺達は思い出して欲しいんだ。あんたに、全てを」


 荒ぶる神の指が、美咲の涙を優しく拭う。


「ずっとあんたを捜していた。気の遠くなるほど永い時の中を。

 俺達豊葦原の国津神は、全て、母なる伊邪那美を恋うる(みこと)だ。

 あんたを、心から愛している。その想いは、伊邪那岐にも劣らん」


 そうして、荒ぶる神の唇が、

 美咲の額に優しく触れた。


 温かな想いを移すような、優しいくちづけだった。


 そこに、純粋な労りしかなかったからこそ、

 触れるだけの優しさを、美咲は黙って受け入れた。


「もう眠れ。眠って起きたら、きっと哀しいことは忘れている」


 唇が離れて、荒ぶる神がそう呟くのが聞こえた。


「目が覚めたら、忘れて、許してあげられるかしら……」


 言いながら、徐々に意識が遠のいていく。


 急激な睡魔に、抗うことができない。


「許せないなら、無理に許すことはない」


 最後に憶えているのは、頬を撫でる優しい手の温もりと。


「それでも、

 許したいと思う心が少しでも在るなら――いつか、許してやれ」


 不思議な言霊だけ。




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