10 哀願
暗闇の中、美咲は走る。
闇に捕まらないように。
捕まってしまったら、もう戻れない。
懐かしい、返りたい場所へは返れない。
だが、走っても走っても、そこは暗闇だけ。
仄かでいい。
微かでいい。
ほんの少しの光が在れば、返れるのに。
返りたい。
愛しい人に逢いたい。
想いが溢れて泣きたくなる。
ただ、一緒にいたいだけなのに。
どうして許されないの。
泣きながら、それでも走る。
諦めたなら、それで終わりだから。
涙が、頬を伝って落ちた。
滴が、淡い光を放って、周囲を優しく包む。
闇の中に、光が顕れた。
――母上様
やわらかく自分を喚ぶ声。
立ち止まってそちらを向くと、美しい女神が、立っていた。
傍らには、麗しい男神が寄り添う、似合いの一対だった。
――母上様。お別れにございます。
美しい女神が告げる。
何故に自分に別れを告げるのかわからなかった。
だが、身を切られるような喪失感に泣きたくなる。
――大丈夫です。私達国津神はいつでもお傍におりますから。
それを聞いて、少し安堵する。
神は嘘をつかない。
だから、女神が傍にいると言ったのなら、
それは本当のことなのだと確信した。
星が降り注ぐように細かな光が煌めいて、
闇の中で幻想的な光景を創り上げる。
――黄泉国からの御帰還を、豊葦原全ての国津神が言祝いでいるのです。
問う前に、女神が咲う。
手を伸ばして、降り注ぐ光の雨をとらえようとした。
だが、それは、染み入るように消えて逝くだけ。
儚く、美しく、そして優しい煌めきに、
懐かしいような錯覚にとらわれる。
こんな愛おしさを、何処かで感じたような気がする。
――現世に、戻られる刻でございます。
残された時間は、全て愛しい方とともに在りたいと思うのが、
私達国津神の願いなのです。
残された時間とは、どういう意味なのか。
だが、女神は美しく微咲むだけで、それ以上は何も語らない。
傍らに寄り添う男神が、告げる。
――お忘れ下さいますな。
我ら女神の末は、貴女様から分かたれた命。
何があろうと、心から、貴女様をお慕いしているのです。
言霊に込められた想いを、確かに感じた。
残された時間をともに。
それは、まさしく自分の想いでもあったのだ――
熱が弾けたように、熱く激しい震えが美咲の意識を覚醒させた。
「……」
身体の奥が温かく震えている。
だが、温かさはそこだけだった。
とても寒い。
寒くて、痛いほどだ。
どうしてこんなに寒いのだろう。
「美咲さん、気がついた?」
近くで声がする。
目を開けると、慎也が上から覗き込んでいる。
一瞬、混乱した。
はだけたシャツから覗く肌。
自分の身体の奥に伝わる熱。
少し傾いた角度から、不思議な輝きに包まれながら、
外の景色が見える。
校舎と、水銀灯。
周囲には、離れた距離でこちらに背を向けて
水の中に立っている神々の姿が。
背中に当たる、弾力のある柔らかさ。
濡れていないのに水の感触。
プールだ。
学校のプールの水面上で、背を向けている神々に囲まれながら、
慎也と身体を重ねている。
信じられない。
こんなところで。
「……い、やぁ……」
だが、抗おうにも首から下の身体が冷たく、重く、
腕を上げることすらできない。
わけがわからない。
どうしてこんなことになっているのか。
身体が動かない恐怖と、
そんな身体を触れられている羞恥で涙が零れる。
「美咲さん、泣かないで」
慎也が美咲のこめかみに流れた涙を拭う。
「身体が、死にかけてるんだ。
神威と神気を満たさないと死んじゃうって。
だから――」
慎也が動かない美咲の手を掴んで指を絡める。
「俺をおいていかないで。戻ってきて」
「慎也、くん……」
「ずっと一緒にいたい。他に何もいらない。美咲さんだけでいい」
泣きそうな顔で、慎也は美咲にくちづけた。
くちづけた途端、流れ込んでくる熱と力。
凍えた心と身体が、熱によって少しずつ溶かされていく。
これが、神威なのか。
触れ合うことで、神威を――命を、満たすのか。
再び慎也の神威が自分の内に流れてくる。
理解はしたが、それでも、心が受けつけない。
初めて感じる神威という神の力に圧倒されながらも
成す術がない。
八尋殿ではあんなにも心の全てが満たされていたのに、
今は静かで虚ろなだけだ。
そして、虚ろな心を満たすのは、哀しみだけ。
神威が伝われば伝わるだけ、
その虚ろな心に入り込んでくるのは別の感情。
車に酔ったような、感覚が強まっていく。
今すぐやめて、自分を解放してほしい。
焦燥感が募り、叫びだしたい衝動に駆られる。
これが、死の力なのか。
あらゆる熱を、温かな感情を、愛しい想いを、奪い去る。
何て寂しい、負の神威。
時を留めたように空の色が変わらない。
雲の位置が動かない。
風が吹かない。
聞こえるのは神々の言霊の響き。
乱れた鼓動と、神鳴りの音。
自分を留めようとする慎也が、愛しいのに切なかった。
そんなにも必死に自分を留めようとするなら、
なぜ、あの時おいていったの――?
死が近いからなのか、黄泉国での哀しみの記憶が溢れてくる。
裏切られた怒りが、自分の知らない憎悪が、押し寄せる。
この心を、どうすればいい。
それでもまだ、こんなにも愛するなど。
相反する感情に、この身さえ引き裂かれてしまいそう。
愛しさと切なさが募るばかりで心さえ思い通りにならない。
――思い出してはいけない。
不意に身体を満たす、不可思議な思い。
けれど、美咲はその声に従った。
思い出さなければいい。
それは、美咲にとっての天啓だった。
哀しい記憶を、裏切りの記憶を、
思い出さなければ、このままでいられる。
――今はまだ、その刻ではない。
浮かび上がってきた記憶を、美咲はもう一度心の奥底に沈めた。
そうして、愛しさだけで、その身を満たした。
愛しい半身に抱かれる喜びを。
交合いの末に産まれる喜びを。
満たさなければ。
早く。
早く。
そうでなければ、戻れない――
そうして、美咲はまた深い微睡みの中に沈んでいった。
美咲の意識が沈むとともに、浮かび上がるは女神の思い。
それは、美咲の愛しさと切なさに呼び起こされた女神の嘆き。
世界が、自分から遠ざかっていく。
神々が、愛したものが、遠ざかっていく。
死の女神となった今でも、
自分は豊葦原を、
そこに住まう神々を、
何より夫を、
愛していた。
だから、持てる神威は全て、黄泉の外の様子を視る為に使った。
すでに天の領界は遙か彼方に去り、
地の領界さえ、闇の領界と引き離されつつある。
やがて、自分は地上の様子さえ、感じ取れなくなってしまうだろう。
繋がっていた全ての世界が引き裂かれ、引き離された。
世界を繋ぎ止めていた自分達の心が、絆が、壊れてしまったから。
初めは、哀しみしかなかった。
愛しい半神が、自分を置いて戻ってしまったことへの。
置いて戻るくらいなら、なぜ迎えに来たなどと言ったのか。
喜びが大きかっただけに、
失望が、絶望が、より深く、自分を傷つける。
その傷を、未だに癒すことはできない。
閉ざされた扉の向こうから声をかける黄泉大神にも心許すことができない。
かの神の目的は、黄泉の國産み。
だが、自分の対の命はあの方だけ。
あの方以外の神と交合うことなどできようはずもない。
それなのに、かの神は怒ることもなく、
ただこの閉ざされた扉の前で声をかけては去って往く。
僅かに垣間見た美しい容の下で、
優しげな言霊の裏で、何を考えているかわからぬ。
自分の対の命を、捜そうともせぬ。
それは、自分ではないのに。
無駄に過ぎてゆく時が、焦りを募らせる。
地上の様子を神威で視て、豊葦原を窺えば、
地上は神々の嘆きと人間達の血で覆われていた。
自分が去ったことで、
徐々に神々は豊葦原での力を弱めていた。
自分の産み出した神々の末から生まれる神々は
とても弱く、儚かった。
弱き神威と神気しか持たぬ故、
老いて、死を迎え、黄泉返りを繰り返す。
そうして、神気や神威すら失い、只人になっていく。
神であったことを忘れ、
争い、
奪い合い、
殺し合い、
そうして、
豊葦原の中つ国は血と死に満ちた国となった。
自分が何よりも愛した美しい世界が、愛しい子供達が、穢れてゆく――
戻らねばならぬのに。
憐れな神々を、救わねばならぬのに。
今の自分には、できない。
最後の子を産むことで使い果たした神威は、黄泉国で満ちた。
闇の神威も手にした。
それでも、
死神となったが故に理に縛られ、豊葦原に返れない。
黄泉返りを選んだなら、
記憶も、
神気も、
神威も手放さねばならなくなる。
それでは意味がない。
待たねばならない。
自分を、何も失わずに豊葦原に戻せる神が神去ってくるまで。
それまでは、微睡んでいよう。
微睡みの中でなら、自分は豊葦原に戻れる。
愛しいあの方のもとへ、子らのもとへ、寄り添うことができる。
いつか、現で、豊葦原に返る。
それだけが、唯一の願いなのだ――




