9 再還
幸せそうに寄り添う二柱の神が視える。
根の堅州国をともに抜け出し、
豊葦原へと還ってきた麗しい男神と女神だ。
幸せそうな一対の姿に、仄かな羨望が沸き上がる。
全てを捨ててでも、理に逆らってでも、
女神の望みを叶えようとする男神。
愛し合う二柱の神々の姿が、
切ない胸の疼きをもたらす。
あの方は、そうまでしてはくれなかった。
理に逆らってでも、
自分を連れ戻そうとしてくれなかった。
何が違うというのだ。
何故、自分は駄目だったのだ。
哀しみのまま時は流れ、
いつしか裏切りに対する怒りが芽生えた。
それでも、還りたいと願うことを止められない。
愚かな自分は、
こうして地上の様子をひっそりと窺うことしかできない。
幸せな神々を妬ましく思いながら。
だが、この女神の願いは叶うまい。
自分と同じに。
そのことに、少しだけ慰められる。
彼女は根の堅州国の女王なのだ。
理は、決して彼女を逃さない。
いずれ、根の堅州国へ戻る定め。
束の間の幸せに酔いしれるといい。
己の浅ましさに気づき、息をついて、頭を振る。
何ということだろう。
生神の不幸を願うなど。
そうまでして、気づく。
この女神では、黄泉国までは来れない。
自分の願いを叶える女神は、まだ顕われない――
静まりかえった図書館の脇の芝生に淡く光る紋様が顕れた。
そうして、そこから浮かび上がるのは、
只人ではなく神だった。
荒ぶる神を筆頭に、葺根、宇受売、瓊瓊杵、咲耶比売、
久久能智、石楠、闇山津見に抱かれた禍つ神霊が宿っていた憑坐の姿が
神気と神威を露わに現象する。
暗闇の世界である幽世から現世へと帰還を果たした神々の容には
皆安堵の色が伺える。
出発は夜更けだったが、今は東の空がうっすらと明け始めている。
幽世と現世の時の流れは微妙に異なるようだ。
紋様を使って空間を跳び越えたことも作用しているのかもしれない。
久久能智と石楠は、そのまま一礼して控えている。
葺根と宇受売は荒ぶる神を待つ。
「そなたらは、どうするつもりだ」
荒ぶる神の言霊は、
慎也と美咲の中に在る瓊瓊杵と咲耶比売に向けられたものだった。
「こうして、出逢えたからには新たな憑坐の中に宿り、
只人として今生を生きるつもりでございます」
瓊瓊杵が静かに答える。
「日嗣の御子として、豊葦原を再び治める気はないのだな」
「ございません。すでに、豊葦原は神々の世界ではなく、青人草の世界。
我らは、人とともに生きてゆきます」
瓊瓊杵は、愛しさを隠さずに咲耶比売を視やる。
視返す容にも、愛おしさが溢れている。
多分、咲耶比売は姉比売の憑坐に宿るのだろう。
山津見の国津神は、今まで通り豊葦原に留まることになる。
豊葦原に一番最後まで留まった神々だ。
この後も変わるまい。
荒ぶる神は咲って頷いた。
「では、その身体には女神独りとなるのだな。
そなたが出れば、女神の記憶と神威も戻るやも知れぬ」
きっと、これから黄泉神だけでなく天津神も動き出すであろう。
國産みの二柱の神の記憶と神威さえ戻れば、全て丸く収まる。
その言霊に、咲耶比売の容が、不安げに揺らめいた。
「建速様」
「なんだ」
「母上様は、お戻りになられても、
多分記憶と神威を取り戻してはおられませぬ」
「何故わかる?」
「私は、ずっと母上様の命とともに在ったのです。
母上様は、ただ黄泉国を厭うて逃げてこられたのではありません。
ずっと何かを秘めて、それ故に現世に戻られることをお決めになったのです。
母上様の記憶と神威が戻るのは、きっと最後の刻なのでしょう」
「最後の刻とは――?」
「それは、母上様にしかわからぬこと。
ただ、その刻が来たら、我々は従う他はないのです」
「――」
最後の刻。
美咲に女神の記憶が戻れば、全てを覆す何かが起こるのか。
神代が再び戻るのか。
それとも、世界が終わるのか。
「最後の刻、か――」
もう一度言霊を繰り返す。
それでも、自分は彼女を護るだろう。
それが、自分の天命であり、理なのだから。
温かなものに包まれていることを感じながら、慎也は目を開けた。
一番最初に視界に入ったのは、見知ったようでもあるのに、
その神気と神威によって全く別人となった女の顔だった。
「山中、先生……?」
「いいえ、宇受売とお呼びください。祖神様」
答える声音も違って聞こえる。
もっと聞いていたいと思わせるような、深く響く、心地よい声。
「宇受売……?」
「はい、黄泉国での出来事をお伝えします。
目を閉じていてくださいませ」
宇受売が慎也の頬を引き寄せると、額を合わせる。
巫女神の神気が揺らめき、神威が満ちた。
同時に、閉じた目の前に、映像が浮かび上がる。
「――これは」
倍速の映画を見るように、情報が流れ込んでくる。
根の堅州国の崩壊。
黄泉降り。
自分の中にいた瓊瓊杵と
美咲の中にいた木之花咲耶比売。
そして、黄泉からの帰還。
「戻ってきたのか――」
「祖神様を取り戻し、無事豊葦原へ帰還致しました。
祖神様、次は貴方様の番です。
伊邪那美様をお救いくださいませ」
宇受売の最後の言霊に、慎也は目を開ける。
そして、気づいた。
自分と宇受売が水の中にいることに。
宇受売の背後に見慣れた景色が見える。
学校のプールだ。
なぜと慎也が問う前に、巫女神が答えた。
「黄泉の穢れを落とすために、禊ぎが必要でした」
「美咲さん、美咲さんは!?」
「ここだ」
背後からの声に振り返ると、荒ぶる神の大きな背中が見える。
大きな体躯に抱かれているのは美咲だ。
「美咲さん!!」
水をかきわけ、荒ぶる神の前へ回ると、
意識のない美咲が建速の腕の中にいる。
その身体を建速から奪うように引き寄せると、
ぐったりした身体が水に沈みそうになり、慌てて頸に腕を回す。
仰け反った顔は青ざめて、死人のように唇にも血の気がない。
「咲耶比売が身体から出たからだ。神気も神威も足りない」
「俺は!? 美咲さんがそうなら、俺だってそうなるんじゃないのか!?」
「お前は死神ではない。神去る瓊瓊杵に憑いてはいたが、
生神だから、平気なんだろう。
咲耶比売も伊邪那美もともに死神だ。
補い合っていたものがなくなったのだ。
新たに補わねば、神去る」
「駄目だ!! 美咲さんは死なせない!!」
「当たり前だ。ここまで来て、黄泉国に奪い返されるなど冗談ではない。
慎也、お前の神威を与えろ。八方陣を敷く。
死神を留めるには、理を覆すほどの神威と神気が必要となる。
俺達の神威と神気も使うがいい」
荒ぶる神が美咲と慎也から離れる。
いつの間にいたのか、周囲には荒ぶる神と宇受売の他に、
葺根、久久能智、石楠、闇山津見までも
二人を取り囲んでいた。
荒ぶる神の向かいには宇受売が、
久久能智の向かいには葺根が、
闇山津見の向かいには石楠が、
というように、男神と女神が対になり、陣取る。
「天に風、
地に水。
東より始め、
東北、
西北、
西、
南西、
南東にて、
八柱の神を八方に陣する」
建速の言霊が響くとともに、神々の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
神気が隣り合う神々にまで伸び、繋がった。
そして、六角錐の底辺同士を重ねたように、
神気に包まれた不可思議な陣が敷かれた。
水の中に立っていた慎也の身体が水の力で傾いだ。
水の神威により、水面に横たえられた美咲。
その上に覆い被さるように身体が持ち上げられた。
咄嗟に手と膝をつくと、水面に膜が張られたように沈まず、
弾力を伴って体重を支えた。
水の中にいたのに、美咲の身体も自分の身体も濡れていない。
周りを見ると、半身を水に浸けたままの神々がこちらを見ていた。
男神は手の平を合わせ、
女神は手の甲同士を合わせている。
風の神を頂点とする陣の一角から、稲妻のように神威が流れ込む。
「うあっ!!」
雷に打たれたかのような衝撃。
だが、痛みは一瞬だけだった。
後には、痺れるように不思議な力が満ちる。
神の記憶を持たない自分にもわかる――これが、神威。
「どうすればいい?」
「交合えばいい。美咲が満ちるまで」
「はぁ!? ここでかよ!?」
「ここ以外のどこでする?
八方陣は我らの神威をお前に移せる完全な結界だ。
神威を満たさねば美咲が死ぬぞ。
それとも、他の奴らに交合えとでも言うつもりか」
その言霊にぎょっとする。
美咲が死ぬことも、自分以外の誰かに抱かれることも論外だ。
「くそっ、せめて、背中向けてろ」
建速が咲って背を向ける。
他の神々もそれに倣う。
しかし、背中を向けていようとも、いることには変わりない。
よりにもよって、屋外で、しかもすぐ傍に神々がいる場所で交合うなど、
いくら他人に無関心な自分でも遠慮したい。
生真面目な美咲なら、きっともっと嫌がる。
目を覚ましたら絶対泣くだろう。
だが、このまま死なせるわけにはいかない。
やっと見つけたのだ。
ずっと捜していた。
ただひたすら、美咲という存在を。
心を向けられる存在を。
記憶など、なくていい。
神でなど、なくていい。
「美咲さん……戻ってきて」
それだけで、いい。
慎也は美咲の唇を己のそれで塞いだ。
いつもの反応はない。
唇は冷たく、死人のようで、ぞっとする。
開いた唇に舌を差し入れ、熱を移すように探る。
触れ合ったところから、神威が流れ込む。
砂が水を吸い込むように手応えがないが、
美咲が満ちるまで神威を送らねば、死んでしまう。
「ぅ……」
僅かな呻きに、安堵する。
生きている。
まだ間に合う。
ここに、傍に、いてくれる。
慎也は力のない冷たい身体を包むように重ねて
もう一度深くくちづける。
触れ合えば、ただ、愛しさが込み上げるだけだ。
死なせない。
絶対に。
慎也はひたすら、美咲を求めた。
ひどく、寂しい。
そして、寒かった。
何かが欠けたように。
いつも自分を満たしていたものが、
心の半分が、なくなってしまったようだ。
凍てついた心を、何で満たせばいいのだろう。
不意にそんな自分を覆い、貫く熱。
熱い。
凍えきった身体にはそれは痛みのようだ。
誰かが自分を呼んでいる。
遠くて、聞こえない。
だが、その声音は哀しく、切なく、自分に響く。
そんなふうに、呼ばないで。
応えたいのに、言葉が出ない。
熱が何度も自分を追い立てる。
熱い。
熱い。
まるで、最後の子を産んだ時のよう。
そう思って、ふと気づく。
愛しい最後の子は、何処へ逝ってしまったのだろう――?




