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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第五章 闇神ーよもつ神々ー

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6 夢幻



――私の名など好きに喚べ。


――では、夜見(よみ)。私はそう喚ぶ。

  我らが闇の領界、夜の世界を視る者故に。


――では、私はそなたを(よる)と喚ぶ。

  そなたを視つめるに相応しき名だ。


――よかろう。此処にいる間は、互いをそう喚ぼう。


――ああ。此処にいる間は、我らはただの夜見と夜。


――そう、何の柵もない、かけがえのない友だ。



 目を閉じたまま、微睡みから戻る。


 夢を視ていた。

 遠い夢だ。


 夢を操る自分が、夢を視るなど滑稽だ。


 閉じていた目を開ける。


「――」


 身体が重く、動かすのでさえ億劫だ。


 神威を使いすぎたせいだ。


 闇に身を預け、暫し暗闇を視据える。


 寂寥と静寂が、闇の主たる自分には何よりの癒しとなる。


 少し休めば、この身も癒える。


 その頃には、

 きっと伊邪那岐の神霊を取り戻しに、女神が戻ってくるだろう。


 裏切られてもなお恋うる夫のために、今度こそ返ってくる。


 黄泉の國産みが成されれば、

 この黄泉国もかつての豊葦原のように神々の集う国となる。


 死を迎えた人間が、

 安らかに次の生を得るまでの温かな褥となるような処になる。


 死は苦痛ではない。

 終わりでもない。


 生と同じに、巡る環の中の半円に過ぎない。


 それなのに、生者は死を恐れ、穢れとし、厭う。


 現世での生など、死の解放に比べたらどれほどの価値があろう。


 その証に、死者は争わない。


 闇を恐れることもない。


 柵もなく、我欲も執着も捨て去り、心穏やかに過ごせる。


 その安息を。

 魂は、憶えている。


 だから、死を(こいねが)う。


 返りたいと。


 この国での満ち足りた、まさに悠久の(とき)を。


 魂が、知っている。


 だから、死者は死者を喚ぶ。


 戻ってこいと。


 生こそが、苦痛に満ちている。


 世に生まれ出る苦痛に皆泣いているではないか。


 楽土を追われることを嘆き。

 幸福を忘れ去ることを嘆き。


 全てを奪われ生きたくないと、泣いているのだ。


 だからこそ、

 神の力を失い、只人に成り果てた人間を憐れむ。


 だからこそ、

 死を生よりも確かなものとする女神の神威が欲しい。


 どんな手を使ってでも、

 どれほど待とうとも、

 諦めることはない。


 待てると思った。


 自分を拒み続けても、いつかは諦めてくれるだろうと。


 だが、どれほど待っても、女神は頑なだった。


 自分と真向かおうとはしなかった。


 そうして、待ち続けて、待つことにも慣れた時、

 不意に、(いとけな)い神に心惹かれた。


 自分と同じに孤独な神だった。


 闇に在って、唯独りの孤高の神。


 ただひっそりと、そこに在るだけで、よかった。


 互いの孤独を解り合い、分かち合い、ほんの少し寄り添うだけで。


 それ以上を望んではならぬと知っていたから。


 自分が求めなければならないのは、

 國産みの神威を持つ、孕む力を持つ女神。


 わかっていたのに惑わされた。


 現象して初めて、我を忘れるほど欲した。


 その存在全てで惑わせるくせに、決して手が届かない。


 わかっていたのに、どうして手を伸ばしてしまったのか。



 冷たく、冴え冴えとして視えるのに、触れれば温かなあの月に――



 あの温かさ。

 あの甘さを。


 幻とするには、まだ(とき)が足らぬ。


 意識が遠のく。


 夢が、引いては満ちる波のように揺れ動く。



 あの幻のような一刻(ひととき)を、今も、忘れられない――







 喚んでいる気配がして、喚ばれるままに此処に来た。


 夜の領域から、跳んだ先は、黄泉国。


 根の堅州国同様、在るものの姿を隠さぬ闇。


 初めて足を踏み入れたのに、奇妙な違和感に囚われる。


 心地よい闇は、まるでかつての静謐な場所のように馴染む。


 沈黙が愛おしい――そんな錯覚さえ覚える。


 領界は違えど、同じ闇に属するからなのだろうと、

 月神は思う。


 そうでなければ黄泉国を馴染み深いと思うはずもない。


 深淵の中にそれでも懐かしい気配がする。


 視線を向けたその先。


 その闇に、抱かれるように眠っているのはかつての友。


 力尽きて倒れ込んだように、両腕を投げ出している。


 美しい容は、今は青ざめているように視える。


 幻のようにも視えるのに、

 足を踏み出せば裸足の裏にひんやりと滑らかな感触がした。


 本来ならば、来られるはずもない領界。


 有り得ぬ現象は、闇の神威を、神気を、

 この身に取り込んだせいか。


 暗闇は、自分に容易く馴染んだ。


 闇を司る陰の神気が心地よい。


 静謐と静寂に包まれた、あの場所にいるようだ。


 此処に在るだけで、癒されているような心地さえする。


 薄絹の夜着を纏うその肉体は、

 濃すぎる陰の気に反応してか、女体となっている。


 手を伸ばせば触れるほどに近づいて、

 その周囲を取り囲む命ある闇――九十九神に気づく。



――貴女様ハ……



 戸惑う気配を視せる九十九神に、

 視るものを惑わせるほどの美しい女神がそっと微咲む。


 細く白い人差し指が唇に当てられ、

 九十九神のそれ以上の問いを静かに封じた。


「そなたらの主様はお疲れだ。ここは私がお護りする故安心致せ。

 主様が目覚めるまで離れていろ。眠りを妨げてはならぬ」


 高すぎもせず、かといって低すぎもせぬ

 澄んだ声音が美しく響く。


 その言霊の響きに、九十九神は歓喜を感じてうち震える。


 逆らうことなく静かに、九十九神はその場を去った。


 それを確かめ、月神は神威を使って結界を創り出す。


 この結界が解けるまでは、外のことはわからぬはず。


 眠り込む闇の主を、

 神威を使ってさらなる深い眠りへと誘う。


 闇の主の神威は、

 黄泉国に在って初めて大いなる力を現象する。


 だが、今その身に宿る神威は驚くほどに僅かだった。


 だからこそ、

 自分が此処へ来たことにも、

 こんなに近くにいることもわからない。


 闇の神気を自分に与えただけで、ここまで弱るはずもない。


 母なる女神を得るために父なる男神の神霊を捕らえ、

 此処に連れてくるまでに、相当の無理をしたのだろう。



 それほどに、太古の女神が欲しいのか。



 胸の痛みに、美しい容が僅かに歪む。


 高天原は、祖神である父神の神霊を取り戻したがっている。


 だが、母神はいらぬと仰せだ。


 すでに死の女神たる母神は、豊葦原にいてはならないと。


 それ故、今は静観するという。


 黄泉神は父神の神霊を捕らえはしたが、殺すことはない。


 彼らが欲しいのはあくまでも母神のみ。


 母神を黄泉国に取り戻せば、父神は無事に返ってくる。


 そう読んでいるのだ。


 だが、国津神は違う。


 彼らは総力をあげて母神を護っている。


 再び黄泉国に女神を奪われることはするまい。


 母神が黄泉国から消え、現世に顕れるまで、永い永い時が過ぎた。


 それでも、未だに神代と変わらない――月神は虚しく思う。


 全てが女神を愛する。

 命を孕むことのできる、美しい女神を。


 自分を愛してくれるものは誰もいない。


 どんなに焦がれても、全てを捧げて従っても、

 唯一の姉でさえ、自分を愛さない。


「――」


 だからこそ、

 初めて寄り添った友をどれだけ大切に思っていたか。


 眠る黄泉大神に視線を向ける。


 静寂と静謐を湛えたあの場所で、

 気紛れに語らう時間がどれほど愛しかったか。


 この男はそれすら知るまい。


 滑稽だった。

 無様だった。


 すでに、全ては遠く過ぎ去った。


 あの頃にはもう戻れない。


 それなのに、

 なぜこうもこの存在に引き寄せられるのかわからない――


「……」


 不意に、意識のないはずの身体が身動(みじろ)いだ。


 唇が何かを呟いているようにも視えた。


 そっと近づき、耳を近づける。


 その言霊を、聞き取ろうとして。


「……」


 夜、と。

 唇はそう呟いた。


 その密かな言霊に、胸を抉るような痛みが込み上げる。


「……み……」


 痛み故に、美しい瞳から、堪えきれず涙が零れた。


 何故、夢の中で追うのは、喚ぶ名は、自分なのに、

 目覚めれば別の女神を求めるのか。


 心とともに、神威が揺らぐ。


 深く眠り込んだはずの闇の主の閉じられた目蓋が僅かに震え、

 そっと美しい琥珀の瞳が自分を視上げる。


 だが、その眼差しは、どこか虚ろで、憂いに満ちていた。


「これは……夢か……」


 囁くような言霊が、美しい唇から漏れる。


「……そう、夢だ。現世で、私が此処に来られるはずがない」


 冷たい指先が涙に濡れた頬に触れる。


「夢ならば……」


 その続きは、語らずともわかった。


「……」


 だから、その指先に力が入り頬を引き寄せられる前に、

 自分から唇を重ねた。


 驚いたように一瞬強ばった身体が、すぐに自分を引き寄せる。


 横たわる身体の上に身を寄せると、何度も何度もくちづけられる。


 すぐに開いた唇に舌が入り込んできて、深いくちづけに酔う。


 夜着の合わせをはだけられ、露わになった肩から腕へと薄絹が落ちる。

 両手をついて身体を支えているため、動けない。


 くちづけとともに、肌に触れる温かな熱に身を任せる。


「……夜見……」


 思わず名を喚んだ。


 それだけで、美しい神気が揺らいで大気に満ちる。


「……夜……」


 名を喚ばれた。


 それだけで、馴染んだ神気が互いを癒していく。


 くちづけの合間に強く抱きしめられ、身体の力が抜けていく。


 凍えた心と命が、歓喜にうち震える。


 暖かい――


 思わず零れた涙が――変若水(おちみず)が、

 闇の主のみならず、月神自身をも満たしていく。


 自分の体液は、神々の癒しとなる変若水(おちみず)となるのだったと、

 ぼんやりと思った。


 ようやく唇が離れ、喘ぐように息をする。


 だが、下に組み敷いていた身体は、

 今度は月神の身体を労わるように触れてくる。


 その甘美な痛みにも似た切なさに、思わず背が震える。


 震え離れた身体を許さずに、

 今度は引き戻され、甘やかな熱に惑わされる。


 先ほどよりももっと縋るような触れ合いに震えが抑えられない。


「夜見……っ」


 身体を支えていた手の力が抜ける。


 背に回っていた手に力が入り、一層深く身体が触れ合う。


 同時に与えられる互いの温もりが、

 (みこと)のさらに奥を熱く満たす。


 寄り添っているだけなのに、神気が喜びに揺らめく。


 このままさらに寄り添いたい衝動に、

 月神は唇を噛みしめ必死で耐える。


 だが、背中を抱いていた手が上から下へと優しく動くと、

 堪えきれぬ感情に心が震え、想いが溢れた。


「夜見、夜見――」


 溢れる想いに、月神は泣いた。


 名を喚ぶしかできない。


 幸せなのに辛かった。

 愛しいのに苦しかった。


 こんな感情は間違っている。


 それなのに、ずっとこうしていたいとさえ願う。


 どうして。

 どうして、我らは――


「夜――」


 強く、短く喚ばれ、容を向ける。


 琥珀の瞳が自分を視据えていた。


「……」


 どこか虚ろなのに、

 熱く求める眼差しに、絡めとられて動けない。


 引き寄せられ、再び唇が重なる。


 同時に溢れる相反する想いに、

 抗えぬまま身を任せるしかなかった――






「う……」


 自分の呻き声で僅かな微睡みから目覚める。


 自分の下に変わらず在る温かな身体は、

 穏やかな寝息とともに再び微睡みについたようだ。


 身を重ねたまま、暫し気怠い余韻に浸る。


 気を失うまで続けられた交合(まぐわ)いで癒された身体は温かく、

 神気も安定していた。


 闇の神気も程なく満ちるだろう。


 そしてまた、目覚めれば母神を求める。


 温かな心がまた、凍えた痛みを呼び起こす。


「――」


 静かに、身体を離す。


 交合いの余韻は深く、

 満ち足りているのに、どこか虚しかった。


 それはきっと、

 これが幻のように儚い夢だからなのだろう。


 全ての痕跡を神威で消し去り、身支度を調え、結界を解く。


「九十九神、いるか」


 密やかな問いかけに、闇が蠢き、応える。



――御前ニ



「主様はもうすぐ目を覚ます。

 私が来たことを、主様には告げてはならぬ。

 目覚めて問われたら、独りで眠っていたと告げろ」



――何故デスカ


――御方様ノオカゲデ主ハ癒エマシタノニ


――モウコチラニオ出デニハナラヌノデスカ



「来られぬ。そなたらの主が、それを望まぬ故」


 所詮自分は、誰かの身代わりにしかなれぬ。


 太陽にもなれず、

 女にもなれず、

 誰かの対の命にもなれず。


 それが、今は一層胸に痛い。


 美しい瞳から、ほろりと涙が頬を伝う。


 それを指先で拭い、闇に差し出す。


「受け取れ。そなたらの神威となる」


 九十九神がおずおずと細い指先を包み込み、変若水を取り込む。


 同時に闇が、歓喜にうち震える。



――何と……



 一滴で、神威が満ちる。


 九十九神全てが満たされる。


 これが、変若水の神威。


 神格を上げた闇が蠢き、喜びを顕す。



――御方様。主様同様に、お仕え致します。



――いついかなる時も、お喚びください。



「そのようなことを言うてはならぬ。

 我は主様の敵である天津神。

 そなた達は変わらず、主様をお護りするのだ」


 寂しげにそう告げ、

 するりと、女神は闇の狭間に消えてしまった。


 後に残るは眠り続ける闇の主と九十九神のみ。



――ああ、何と麗しい御方だ。



――あの方こそ、主の傍らに相応しい。



 名残も残さず消えてしまった美しい女神を、九十九神は惜しんだ。






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