5 再逢
――咲耶。そなたは変わらず美しい。
咲く花のように艶やかでこの心を捕らえて放さない。
そう言ってくれた、愛しい夫はもういない。
――いいえ。その名はすでに私の名ではない。
お別れです、愛しい方。
どうかお幸せに。
私はこの呪われた身に相応しき処へ往きます。
――往くな。
どのようなそなたでも構わぬ。
一緒に往こう。
――いいえ、いいえ。
一緒には往けない。
貴方の傍らに立つ資格が、私にはもうない。
愛しています、愛しい方。永遠に。
それでも――さようなら。
何度も失われた名で自分を喚ぶ夫を捨て、
此処まで来た。
全て、あの男の――妹を辱め、裏切り、
捨てた男への復讐のためだ。
憎しみが、怒りが、この身を豊葦原に押しとどめた。
永遠に、あの男だけは、許しはしない。
黄泉返ったのなら、何度でも、黄泉へ追い返してやる。
もう二度と、妹も、自分も、傷つけさせるものか。
大切なものをもう、黙って奪われたりはしない。
闇の檻の中で、
禍つ神霊の比売神は心を囚われたまま哀しい夢を視る――
突如慎也の中から顕われた神は、天津神と一目でわかった。
だがそれは、祖神伊邪那岐の神気ではなく、
神々しく、眩くも、もっと若々しかった。
そして、宇受売と神田比古が跪くのは、
紛うことなく、天孫の日嗣の御子――天上から降り立ち、
豊葦原の中つ国に豊穣を瓊ぎしく齎す神だった。
「御子様、何処におわしたのですか、何故、祖神様のお身体に――」
宇受売の問いに、慎也の中の日嗣の御子は咲った。
「待てないと、言ったであろう?
だから、追いかけたのだ。
私も祖神伊邪那岐様の神威をお借りして、
伊邪那美様と同じ手妻で現世に潜んでいたのだ。
豊葦原に女神達が黄泉返るのを待って、我らも現世に現象した。
祖神様の神霊を抜き取られた時点では、私は未だ目覚めることは叶わなかった。
真名を喚ばれて、目覚めたのだ」
真っ直ぐに、天孫の日嗣――瓊瓊杵命が
美咲の中の木之花咲耶比売をとらえた。
驚きで青ざめた妻を視つめ、それから、その後ろの荒ぶる神を視やる。
「我が祖神で在らせられる最後の貴神、
建速須佐之男命に奏上致します。
暫し、我が妻と語らう暇をお与え下さい」
「許す。
祖神伊邪那岐の神霊を取り戻すまで、語らう暇はあろう。
神代での悔いを改めるがいい」
荒ぶる神はそう告げて美咲の身体から離れた。
慎也の中の瓊瓊杵が、美咲の中の木之花咲耶比売に近づく。
黄泉日狭女も闇山津見もすでに比売神から離れていた。
「瓊瓊杵様……」
「咲耶……」
愛しさを隠さずに目合う二柱の神。
近づきたいのに、それ以上近づけぬようにどちらも動かない。
「木之花咲耶――それは、そなたの名ではなかったのか?」
瓊瓊杵が躊躇いがちに問う。
木之花咲耶比売は、
何故そのようなことを問うのかと訝しみながらも答える。
「――婚儀の際に、名を入れ替えたのです。
姉からの祝いだと」
「だが、初めて出逢った時も、
そなたは名を神阿多都比売と申した。
私は、あの日大山津見命に会う予定だったので、
その比売の名が木之花咲耶比売だと聞いていたのだ」
「姉に頼まれていたのです。あの日は自分の振りをしてほしいと。
久方ぶりの姉と背の君の逢瀬の日だったのです。
私の本当の名は、神鹿屋津比売、またの名は木之花知流比売――
木之花咲耶比売は、本来、姉の名でございました」
「根の堅州国の八島士奴美殿を知っているか?
かの神が、姉比売の連れ合いか」
「は、はい。何故それをご存じなのですか?
父でさえ知らなかったものを」
咲耶比売の言霊には純粋な驚きしかない。
「……そうか、そうだったのか――」
力無く、瓊瓊杵は嗤った。
「瓊瓊杵様……?」
「初めから、そう、聞けば良かったのだ。
私は、何という愚か者なのだ……」
片手で容を覆う瓊瓊杵は、苦悩を色濃く宿していた。
木之花咲耶比売は、戸惑いながらもさらに問う。
「瓊瓊杵様……御治を拒まれたのですか……?
貴方様は天津神、しかも天孫の日嗣で在らせられるのに、
神去られるなど……何故に……」
「そなたのいない世界に、何の意味がある?
だから、そなたを取り戻すべく、黄泉路も越えた。
すでにそなたがいないと聞かされ、どれほど私が絶望したか……
それでも、諦めることなどできなかった。
黄泉返るそなたを待つ暇さえ惜しかった。
だから、わたしも祖神伊邪那岐様の神威を借りて、
記憶も神威も失うことなくそなたを追ったのだ」
「ああ……何と言うことを……豊葦原を治める日嗣の御子様が
私などを追って神去るなど……申し訳ありませぬ。
天に対する不敬でございました。お許しください――」
「許しを乞うのは私の方だ。心ない言霊でそなたを傷つけた。
そなたを喪って、姉比売に会って、誤解だと気づいたのだ。
どんなに自分の愚かさを悔いたことか――」
「もう十分です。
私を追って下さったと聞いただけで十分ですのに」
「私を許してくれるのか?」
「滅相もございません。
散る花のようにほんの一時しかお傍にいられなかった
私こそお許しください。
姉のように、強く、気高く、美しく在れればよかったものを。
姉であれば、このようなことにならず
貴方様をお幸せにできたのにと、いつも悔いておりました」
「何故、そのようなことを言う?」
瓊瓊杵が手を伸ばし、咲耶比売の頬をとらえる。
「私の中のそなたは、いつも咲く花のように美しかった。
初めて出逢ったあの時から、私にはそなたしか目に入らなかった。
だからこそ、そなたの姉にともにと言われても断ったのだ。
咲耶、逢いたかった……そなたに、とても逢いたかった……」
「ああ……瓊瓊杵様……」
後はもう、言霊にならなかった。
瓊瓊杵が木之花咲耶比売を引き寄せる。
初めて出逢った時のように、
唇を奪い、逃げていかぬよう抱きしめる。
抱き合い、触れ合う二柱の神々はかつてのように幸福だった。
「誤解が解けたようだな」
宇受売の傍らの神田比古が咲った。
「ああ、そのような些細な誤解で、
お二方が神去らねばならなかったとは……お痛わしいことだ」
「だが、こうして誤解も解け、全ては正された。
視ろ、あの幸せそうな日嗣の御子を。
よかったではないか」
楽天的な神田比古に、宇受売は息をつく。
「そなたは相変わらずだな」
「俺は変わらんよ。そなたもな。相も変わらず難しく考えすぎる」
「誰のせいだと――!」
思わず荒げた声音に、はっと宇受売はそれ以上の言霊をなくす。
神田比古は、じっとそれを視つめていた。
「俺のせいか?
後悔しているのか?
俺の妻問いを受けたことを。
誓約など、しなければよかったと――」
穏やかに問うその言霊に、宇受売はかっとなった。
「――そういうそなたはどうなのだ。
幸せだったと言いながら、
戻ってくることを拒んだのはそなたではないか。
私が天へ返ると思っただと?
もしも神去ったのが私だったなら、
そなたは諦めて別の女神を求めたのか?
ならば、そなたは私の愛も己の愛も視縊ってのだ。
御子様のように、地の果て、闇の底までも追わずにはおれぬ、
それほどまでに想い慕う――そんな気持ちがないのなら、
何故私に妻問いしたのだ!?」
「宇受売……」
宇受売は言いながらも、
何故このような言霊を向けてしまうのか苛立っていた。
こんな再会を望んでいたのではない。
あの日の誓いに何の意味もなかったら、自分は今ここにいなかった。
伝わらない想いにこれ以上何を語るべきなのかわからない。
「宇受売」
頬に触れる神田比古の手から逃れようと容を背ける。
「触れるな……」
「無理だ。
そなたを前に、俺が触れずにいられたことなどあったか?
片時も離れたくはなかった。
いつもそなたを視て、触れていたかった。
そなたとて俺を視縊っている。
俺がどんな想いで黄泉返ることを諦めたのかそなたにはわかるまいよ。
我々は、きっと自分の想いに囚われすぎて、
互いの心など視ていなかったのだろう」
両手で頬を引き寄せられて、
宇受売は睨みつけるようにかつての夫を視上げる。
その瞳から、涙が零れた。
「苦しめるつもりなどなかった。
だが、ずっと苦しめていたのだな……すまなかった」
「そうだ、そなたのせいで、私はずっと苦しかったのだ。
ずっと、ずっとだ――」
神田比古が頬の涙を拭い、優しく宇受売を抱きしめる。
「ああ。全て俺が悪い。泣くな、宇受売」
懐かしい感触に、
宇受売は神田比古にしがみついて泣き続けた。
ようやく、戻ってきたと。
「建速様!!」
不意に、葺根が顕れた。
荒ぶる神のもとへ駆け寄り、跪く。
気づいた瓊瓊杵と咲耶比売、宇受売と神田比古も近づく。
「視つけたか? 葺根」
「は、確かに凝った闇の向こうに祖神様の気配を感じました。
傍らに禍つ神霊の気配も感じました」
「では、此処と繋げ。神威を使ってこじ開ける。
伊邪那岐の神霊と禍つ神霊の姉比売を取り戻したら、
すぐに大神津実の処に跳べ。
そこからは神威を使って豊葦原に戻る――日狭女」
「はい」
宇受売が神田比古と、瓊瓊杵が咲耶比売と語らう間、
黄泉日狭女は荒ぶる神と闇の主について、黄泉国について、
また伊邪那美について話をしていた。
傍らで久久能智と石楠、闇山津見もそれを聞いていた。
「闇の主は未だ目覚めてはいないのだったな」
「はい。今しばらくはかかるかと」
闇の主のいつもの圧倒的な存在感が未だ消えていることを、
日狭女は不安に思う。
「貴神様。
主様は、ただひたすらに黄泉国を愛しんでいるのです。
あの方の振る舞いは全て我ら黄泉神のため。
それ故、母上様を求めておいでです」
「それこそが誤りであると気づくことを願う。
日狭女、そなたはもう戻れ。
我らと一緒にいることを主に気づかれれば後々困ることになる。
何も気づかなかった振りをせよ」
「お心遣いありがたく存じます――」
黄泉日狭女は、最後に、寄り添う二柱の神を視て微咲んだ。
「母上様、比売神様、そして、父上様、御子様。
お会いできてよろしゅうございました。
どうぞ、今生では離れることなくお幸せに」
「日狭女殿……ありがとうございます」
礼をして、黄泉日狭女は黄泉国の大門の奥へと消えていった。




