7 散華
黄泉日狭女が去った後、
静かに、門は閉じ、辺りはまた静寂に包まれる。
「では、繋ぎます」
葺根の言霊とともに、何もない空間に徐々に闇の扉が顕れる。
闇の異界と呼ばれる黄泉大神の創り出した闇の檻だ。
確かに、扉の向こうに自分の神威が感じられた。
完全に扉の姿が顕れ、固定されたその時。
「!?」
「お気をつけ下さい!!」
闇山津見が叫んだ。
宇受売と神田比古が咄嗟に建速の前に神威を放ち、
結界で盾を創り上げる。
扉の内から飛び出してきた、闇ではなく、霊異が、盾にぶつかり弾ける。
衝撃で、火花が散った。
「どういうことだ」
荒ぶる神は未だ神威を使ってはいない。
それなのに、檻は開いた。
しかも、内側から。
闇に揺らめく禍つ霊が、神々の身を震わせる。
怒りと憎しみに満ちた禍々しい神気であった。
扉からゆらりと姿を顕したのは――
「視つけたぞ、日嗣の御子。そなたのせいで、妹は死んだのだ……」
禍つ神霊の比売神、木之花知流比売であった。
比売神が憑坐を捨て、神霊のみの姿をとった。
黄泉国は死者の国。
生きている人間の憑坐は、霊異を使うには邪魔だった。
憑坐が力無く倒れ、長い髪が広がる。
「葺根、異界は繋いだままに」
「わかりました」
「闇山津見、隙を視て禍つ神霊の憑坐を救い出せ」
「はっ」
「久久能智と石楠は祖神を護れ。
瓊瓊杵よ。その身体は祖神のもの。傷一つつけてはならん」
「御意に」
「宇受売、神田比古、いざというときは援護しろ」
「お任せを」
荒ぶる神の手に美しい鞘に包まれた十拳剣が顕れる。
神威に満ちた剣を手に、荒ぶる神は禍つ神霊に対峙した。
かつても今も美しい容は、憎悪と狂気に歪んでいた。
美しかった神気は禍々しく揺らめき、
癒すように満ちていた神威は仄暗く、
身を凍り付かせんばかりの冷たさを放っている。
これが、かつては美しく咲く花にたとえられた比売神の末路か。
「憐れな……」
だが、その言霊はすでに狂気に呑まれた比売神には届かない。
「どけ、荒ぶる神であっても私の邪魔はさせぬ。
我が望みは、天孫の日嗣の御子。
豊葦原に黄泉返ることなど、許さぬ。
その神霊を引き裂いて、もう一度黄泉国に追い返す!!」
呪いの言霊とともに、禍つ神霊から禍つ霊が揺らぎ、霊異が放たれた。
「よせ、比売神!!」
荒ぶる神は己のではなく、剣の神威を使って、霊異を防ぐ。
だが、禍つ神霊が持つ憎しみが、怒りが、強すぎる。
荒ぶる神をもってしても押さえきれないのは、
此処が闇に力を与える黄泉国だからか。
抑えきれぬ神威が、鋭い刃となって荒ぶる神の身体を切り裂いた。
鮮血が、飛び散る。
荒ぶる神の流す血が、黄泉国の大気に散り、大地に吸い込まれる。
「建速様!!」
「俺に構うな!! 慎也を護れ!!」
祖神の神霊を取り戻すまでは、闇の主に悟られてはならない。
比売神の背後にある扉の向こうに、伊邪那岐の神霊が在る。
取り戻せぬうちに闇の主が目覚めれば、
たとえ三柱の貴神であり
八百万の神の中で最も強い神威が与えられた自分でも太刀打ちできまい。
未だ目覚めぬ女神と誓ったのだ。
その身体も神霊も何一つ傷つけずに返してやると。
「言霊に誓った以上、何としてでも果たさねばならぬ――
木之花知流比売、しかと視よ!!
そなたの捜していた妹比売は日嗣の御子の傍らに在る!!
狂気を抑えよ、正気に返れ!!」
荒れ狂い襲いかかる霊異に曝されながらも、荒ぶる神は言霊で訴えた。
傷つき、血を流しながらも、傷ついた身体が、御治によって癒されていく。
神々に許された癒しの神威――御治は、追いつかぬほどの攻撃に曝されている
荒ぶる神の裂けた身体を鬱ぎ、血を止める。
じりじりと、荒ぶる神は下がった。
禍つ神霊を闇の異界から引き離すために。
「建速様!!」
援護する宇受売に、荒ぶる神は神話を送る。
――宇受売、俺が引きつける間に、隙を視て伊邪那岐の神霊を檻から出せ!!
――わかりました。今しばらくお待ち下さい!!
宇受売もじりじりと動き、禍つ神霊の背後へ回り込もうとする。
「やめて、お姉様!!」
日嗣の御子の前に立ちはだかり、叫ぶ女神。
「避けろ、咲耶! 姉比売は正気ではないのだ、そなたがわからぬ!!」
かつて同じであった神気は、今は禍々しく仄暗く揺らめいている。
狂気に支配された禍つ神霊には、
捜し求めていた妹比売にさえ気づかない。
彼女の中にあるのは、天孫の日嗣の御子への憎しみだけ。
捜し求めた妹比売の神霊が祖神の身体の中に在ろうとも、
何の意味も成さなかった。
「ここまでか」
荒ぶる神が鞘を抜く。
溢れる神気が剣から放たれ、神威が満ちる。
刃光煌めく美しいその剣を視て、闇山津見は驚愕に叫ぶ。
「その剣は……!? 荒ぶる神よ、御慈悲を!
それは、神殺しの剣!! それで斬られれば、姉比売様は!!」
それは、神代で初めて神を斬って、その命を奪った剣。
愛しい妻を奪われた夫が、我が子に振り上げた剣。
流された神の血によって、凄まじい神威を宿し、
これで斬れば、禍つ神霊とて滅せるほどの――
その名は、天之尾羽張――神殺しの剣。
荒ぶる神は、美しい剣を構え直した。
斬らねばならぬ。
祖神の神霊を取り戻すために。
そう、決意した。
だが。
荒ぶる神の流した血から、突如火柱があがった。
「何!?」
これは、荒ぶる神の神威ではなかった。
彼は、もともと大海原の神であり、嵐の神であり、水と風と土を支配する。
だが、火を操ることはできない。
それは、火だけが特別であるからだ。
現象しながら現身を持たず、
故に存在しながらも誰からも触れられることもない。
産まれながらに呪われた、母神殺しの神。
そして、父神に殺された最初で最後の神。
それが、流された血の如く赤く輝く火神――火之迦具土。
炎が荒ぶる神の持つ剣を取り巻き、
歓喜の声をあげるかのように剣が澄んだ音を大気に響かせた。
まるで剣自体が燃えているかのように真紅の炎が剣を彩る。
歓喜に震えるように、
剣の神気が揺らぎ、
神威が満ちる。
――それで、比売神をお斬りなさいませ。
そう告げたのは、剣か。
それとも、炎か。
荒ぶる神が、炎の剣を構える。
流れるように刃先が弧を描く。
そして。
一閃した。
剣から放たれた神威は、真紅から真蒼へ、
そして真白く輝きながら比売神を斬った。
「お姉様!!」
だが、比売神からは、荒ぶる神のように血は流れなかった。
炎の剣の神威は、比売神の穢れた神気――禍つ霊を斬ったのだ。
禍つ神霊が苦痛に揺らめく。
姉比売の狂気に満ちた眼差しに、僅かに正気が宿る。
追い打つように炎が比売神を包み込む。
禍つ霊を浄化する美しい白い炎が、
禍つ神霊に苦痛を与え、絶叫が黄泉国の大気を震わせた。
「う……うぅ……」
苦痛に苛まれながらも、姉比売は身体を起こした。
揺らめく禍つ霊は、残り火のように僅かで、
彼女を蝕んでいた狂気すら、今は祓われていた。
正気に返って、辺りを視回す。
目を凝らしても、何処までも暗闇しかない。
目が視えないのだ。
浄化の炎に焼かれたからか。
それでも、懐かしい神気を感じる。
ずっと捜し求めていた自分の半神。
幼子のように涙を流しながら、
姉比売は捜し続けた妹比売の神気に向かって駆け寄り、縋り付いた。
「咲耶……咲耶なのね」
縋り付いた柔らかな身体が、自分を抱きしめ返す。
「ええ、私よ……お姉様」
懐かしく、自分を呼ぶ言霊。
歓喜が、身を震わせる。
「何処に往っていたの……? ずっと、ずっと捜していたのよ……」
「ごめんなさい、お姉様。こんなに永くお待たせして……」
「もう何処にも往かないで……私を置いて、独りでいなくならないで」
「ええ、ええ……」
抱きしめる木之花咲耶比売の腕の中で、
比売神は束の間の幸福に酔いしれた。
力が抜けていく。
神霊が徐々に霞んでいった。
憑坐を捨てた神霊を浄化の炎で焼かれた比売神は、
この黄泉国で命尽きようとしていた。
「お姉様!」
蹌踉めく姉比売を、妹比売が支えながら膝をつく。
もう二度と放すまいとしがみつきたいのに、
姉比売の腕は力無く投げ出されたままだった。
代わりに、妹比売がしっかりと姉比売を抱き寄せ、胸に抱く。
顔を仰ぐと、妹比売の懐かしい神気が自分を包み込んでいる。
束の間、
全てが満たされていたあの神代の時代に戻ったかのような
そんな幸福な錯覚に身を震わせる。
「咲耶……あの方に逢いたい……」
愛しい夫に、子に、姉比売は逢いたかった。
美しい豊葦原が、
晴れ渡る青い空が、
輝き連なる山々が、
何処までも続く緑が、
咲き誇る美しい花が、視たかった。
「逢えるわ。お姉様」
「もう逢えないわ……」
姉比売の何も映さぬ瞳から涙が零れる。
禍つ神霊となった自分がどうして愛しい方の処へ戻れよう。
こんなに醜い姿で。
だからここには何もないのだ。
自分の愛するものが何一つ視えない暗闇で、
永遠に彷徨わねばならぬのだ。
「お姉様は、ほんの少し、哀しい夢を視たの。
夢は終わりよ。もうこんな夢は視ない」
木之花咲耶比売が母親のように姉比売を優しく抱く。
「……本当に?」
「ええ。私が傍にいるわ。ずっと一緒よ」
妹比売の神気を、感じる。
姉比売は力の入らぬ腕を必死で伸ばし、その神気に縋り付く。
優しく、清らかな神気は、かつてはいつも傍らにあり、
同時にそれは、自分のものでもあったのだ。
喪って、捜し続けて、何という永い時が流れたのだろう。
ようやく会えた。
自分の半神に。
壊れた心が、傷ついた神霊が、癒されていく。
悪夢は去り、穏やかに眠れる日が、ついに来たのだ。
「……」
幸せな涙が零れた。
木之花知流比売を包んでいた禍つ霊が、消えていく。
美しい神気が輝き、揺らめく。
かつて美しい花と称えられた比売神の、
美しい神威が満ちる。
姉比売は、咲く花のように美しく微咲んだ。
そうして、木之花咲耶比売の腕の中で、
姉比売は美しく散る花のように消えていった。
黄泉国を震わせる衝撃が、無音とともにやってくる。
その時、闇の主が目覚めた。
「何故、そなたが禍つ神霊を、伊邪那岐を、救ける……」
目覚めて何が起こったのかを理解した闇の主は
唇を噛みしめながら、
ゆっくりと身を起こす。
闇の異界が、破られた。
その内に閉じ込めていた神霊が奪われた。
漆黒の長く艶めいた髪がさらりと流れる。
「そうまでして、我を拒むか――」
低く響く声音。
決して、自分とは真向かおうとしない女神に向けられた言霊。
「九十九神、黄泉軍を喚べ。
伊邪那美の現世の身体ごと捕らえよ。
抗うなら、現身を殺してでも神霊を引き戻せ」
――すでに向かわせました
――全て主のお望みのままに




