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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第五章 闇神ーよもつ神々ー

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3 境実


――あの方が往ってしまう!! 日狭女(ひさめ)、追ってちょうだい!!

  あの方を引き留めて!!


 そう乞われて、従った。


 八雷神(やいくさがみ)を連れて、先に父神を追いかけた。


 だが、黄泉神(よもつかみ)である自分を以てしても、

 父神に追いつくことはできなかった。


 追い縋る自分の言霊も届かぬよう遠ざかっていく背中。


 おかしい。


 この言霊が、届かぬはずがない。


 何故父神は自分を視て、

 まるで穢らわしいものを視るかのような眼差しを向けるのだ。


 紛れもなく、女神の子である自分に。


 そして、黄泉国に在りて、

 自分達が追いつけぬなどあってよいはずがない。


 どのような手妻(てづま)で、追いつけぬのか。


 闇の神威を使って、黄泉路を駆ける。


 だが、父神を追う半ばで、美しい桃の花が往く手を遮る。


 これは、邪気を祓う花。


 闇の神威を使う自分達は、この花の先には往けない。


 母神が追いつく。


 すでに死して黄泉神となった母神にも、この花を越えて追っては往けぬ。


 母神は涙を拭いもせず、泣き叫ぶ。


 父神の名を、喉も裂けんばかりに喚んでいる。


 それでも、振り返らない。


 やがて消え逝く姿。


 母神は悲鳴を上げてその場に(くずお)れる。


「母上様!!」


 気を失った母神を抱きしめ、日狭女は座り込んでいた。


 背後から、濃い闇の気配がする。


 振り返ると、咲みを浮かべた闇の主の姿が映る。


 美しい(かんばせ)に、優しげな()み。


「父上様に、何かしたのですか――」


 唇が、さらなる咲みを象る。


 それは、自分の問いを肯定していた。


 この方が、母神を手に入れるために何かしたのだ。


 そして、我々が父神に追いつけぬようにした。


「女神を部屋へ。

 これでもう、現世への未練は断ち切れるであろうよ」


 そして、そっと踵を返した。


 濃い闇の気配は消えて、

 後はただ散る花が暗闇に浮かび上がるのみ。


 それでも。


――そうはなるまい。


 日狭女は思う。


 母上様は、父上様を忘れることなどできない。


 たとえ、父上様がそうなされても、母上様には無理だ。


 それが何故、闇の主にはわからぬのだろう。


 憐れな母神を抱きしめて、日狭女も泣いた。







 日狭女の気配が消えると、闇の主は膝をついた。


 白磁のような美しい容は、今は憂いを帯びたように青ざめていた。


 生神(いきがみ)の内に入り込むことで、神威を使いすぎたのだ。


 その前に、月神に闇の神威を与えたことも、原因だろう。


 闇の領界以外で、神威を使うのは、制約が在り過ぎた。

 それでも、闇の主はさらなる神威を使い、闇の異界を開いた。


 闇の異界――闇の主だけが作り出せる暗闇の檻。


 そこに、闇の主は捕らえた神霊と比売神を置き去る。


 黄泉国の門の内へは入れられぬが、

 ここならば自分が許した者以外は入り込めない。


「いるか?」

 

 暗闇に気配を探してそっと問いかける。


 闇から沸き上がるように顕われる新たな神気と神威。


 暗闇とは違う、その淡く煌めく神気は絶えず揺らめいていた。


「そなたの(かたき)を連れてきたぞ」


 ゆらりと、それ、は応えるように揺らめいた。


 現身(うつしみ)を持たぬその神は、

 神気だけを纏わせて、ただ、そこに在る。


「伊邪那岐が目覚めたら、神去らぬ程度に苦しめてやるがいい。

 誰よりもそなたに、その資格がある」


 喜ぶように、揺らめきが大きくなる。


 この神ならば、決して神霊を逃しはすまい。


 きっと、伊邪那岐を一番に憎んでいる神だ。


「私の代わりに、ここを任せる」


 そう言い置いて、闇の主は姿を消した。


 後には、姿なき揺らめきだけが囚われた神々を取り囲んだ。







 黄泉路を降る神々は、しばらく黙って歩き続けていた。


 どれほど歩いたのか――路の先が、なにやら仄かに淡く輝き、

 揺れているのに宇受売(うずめ)が気づいた。


神田比古(かむたひこ)、あれは何だ?」


「心配は要らぬ。美しい花が咲いているだけだ」


「花? 黄泉路に……?」


 訝しげに問うも、

 近づく一行らの目に、徐々に淡い光がその姿を露わにする。


「何と……確かに……」


 宇受売は、立ち止まる。


 路を覆うように、両脇から桃の木が続いている。


 薄桃の花びらは散ってはつもり、それでもなお咲き誇っている。


「これはまた、美しい……」


 葺根(ふきね)が感嘆の声を上げるのが背後から聞こえた。


 暗闇だけだった黄泉路の途中に、そぐわぬ美しさだった。


 一行は暫し立ち止まり、そのらしからぬ美しさに魅入った。


 荒ぶる神が、不意に隣にいる女神が、静かに泣いているのに気づいた。


「何故泣く?」


「私ではありません。母上様が、泣いておいでなのです」


 胸を押さえ、女神は美咲の身体で涙を流す。


「母上様。お泣きにならないでください。あれはもう過ぎしこと。

 今生で、背の君は母上様のお傍においでです。

 決して、神代のようにはなりませぬ」


 その言霊は、女神が自身に言い聞かせるように哀しげに響いた。


 食い入るように散る花を視て、

 遠い記憶を辿るように、ただ女神は泣いていた。



――そこで泣いている女神は、もしや祖神伊邪那美様ですか?



 不意に、道返之大神(ちがえしのおおかみ)のように、

 声なき言霊――神話(しんわ)が、そこに在る神々に届いた。


「そう問う、貴女様はどなたですか?」


 美咲の中の女神が問い返す。


 桃の木が、風もないのにざわめいた。


 そして、神気が木々を包み込む。


――我は祖神伊邪那岐命が幽世(かくしよ)から現世(うつしよ)へ戻る際、

  お助け申し上げた大神津実命(おおかむづみのみこと)


 ふわりと路の先に顕れたのは薄桃色の衣を纏った、

 柔らかな曲線を描く美しい姿態の女神だった。


 荒ぶる神と女神の前に跪く。


――祖神伊邪那美様とその末で在られる最後の貴神(うずみこ)

  御挨拶致します。


「そなた、黄泉神か?」


――そうでもあり、そうではなく。

  我は幽世に在りては邪気を祓い生神(いきがみ)を救け、

  現世に在りては青人草を救ける者。

  祖神伊邪那岐様がそう命じし故に。


「その祖神伊邪那岐の神霊が闇の主に連れ去られた。

 我々は祖神の神霊を取り戻すべく千引の岩を通ってここまで来た。

 そなたは我らの救けになれるか?」


 大神津実命の容が驚きを露わにする。


――我が祖神様の御為ならば、この身を幾度捧げても悔いはございませぬ。

  言霊に誓いまする。


 すっと立ち上がり、

 大神津実命は己の分身たる桃の木の一本に近づき、触れる。


 神気が揺らぎ、

 神威が満ちる。


 触れられた桃の木の花が視る間に散り、

 代わりに薄桃色の美しい実をつけた。


 その実は、清らかな神気と神威に満ちていた。


 木の女神が振り返る。


――邪気を祓うこの実を口になさいませ。

  父上様の神霊を取り戻したなら、この場を思い描きください。

  望めばすぐにここへとお戻りになれましょう。


「有難い」


――勿体なき言霊。貴神様。祖神様を必ずお救けください。


「言霊に誓う。

 伊邪那岐を連れて、必ずここに戻る」


 神々は、神聖な実を口にした。


 意識のない慎也にも、久久能智と石楠が食べさせた。


 宇受売は、神田比古がまだ桃の実を持ったまま

 口にしていないことに気づいた。


「食べぬのか?」


 困ったように、神田比古は宇受売を視た。


「俺は死神(ししん)だぞ。俺が口にしてもよいものか……」


 そう言われて、

 宇受売は改めて神田比古が死神であることに気づかされた。


 慌てて大神津実命を振り返る。


「大神津実様、死神はこの先には往けぬのですか?

 この実は邪気を祓うと言いますが」


 大神津実命は、神田比古を視据えた。


 それから、優しく咲った。


――ご安心なされませ。

  死神で在っても、この方は闇の神気も神威も感じませぬ。

  黄泉国に足を踏み入れたこともなければ、

  黄泉の食物を口にしたこともないのでしょう。

  ならば、死神であっても黄泉神とは言えませぬ。


 それを聞いて、宇受売はほっとする。


 神田比古も、ようやく桃の実を口にした。


「準備は整った。往くぞ」


 荒ぶる神の言霊に、神々が頷く。


 大神津実命は、優雅に一礼した。


――神威を使い果たし、我は暫し休まねばなりませぬ。

  黄泉神を留める力も、暫し失うことでしょう。

  返りの道往きはお気をつけくださいませ。


「ここまで来たなら、後は神威を使って千引の岩まで戻れよう。

 礼を言うぞ、大神津実命。その名にふさわしき神威だ」


 木に吸い込まれるように、桃の木の女神の姿は消えていった。


 あとには、美しく散り続ける花びらのみ。


 道往神を先導に、神々は再び黄泉路を降った。






 美しい女神が桃の木の傍らで泣いている。


 少し前に、独り黄泉路を降ってこられた比売神。


 聞けば、産褥で神去られたと言う。


 母神と同じだと、日狭女(ひさめ)も哀しくなる。


 比売神の衣の袖は、涙に濡れ、

 それでも、嘆く女神はどんなに宥めても泣きやまない。


――比売神様、黄泉国に来られてから、もう幾夜も泣き続けておられます。

  どうぞ、泣きやんでくださいませ。


――泣かせてください。

  愛しい背の君に証立てすることなく神去ったこの身が厭わしいのです。


――お辛いなら、黄泉返られてはいかがですか?

  黄泉返れば、その証立てもできるのでは?


――いいえ!! あの方を忘れて黄泉返って何になりましょう。


――一度の黄泉返りでは、全ての記憶が失われるわけではございません。

  何度も繰り返すことによって、徐々に只人となるのです。


――あの方との想い出は、ほんの僅かしかないのです。

  それさえも無くしては、意味がありませぬ。

  何一つ失いたくない想い出なのです。

  忘れて生きていくのなら、このまま神霊ごと消し去ってくださいませ。


――比売神様……


 それほどに、背の君を恋うる想いとは、何なのだろうと日狭女は考える。


 裏切られてもなお、愛する心とは――


 まるで母上様のようだ。


 あれから、どれほどの時が過ぎ逝きても、

 父上様を忘れず、闇の主を受け入れない、母上様。


 いっそ忘れてしまえば、嘆くこともなかろうに。


 憐れな女神達。


 そして自分も、憐れだ。


 自分には、対の命はいない。

 誰かの対の命にもなれない。


 闇の主を愛しく思うが、

 それは母上様や比売神が背の君を想う心とは違う。


 それは祖神を愛する心と同じであった。


 身も世もなく焦がれる想いなど、持てない。


 自分はそのように生まれなかった。


 だからこそ、ただ、闇の中で、

 愛しむ方々が嘆かぬよう視護るだけしかできない――



「母上様……」



 己の呟きで、日狭女は微睡みから引き戻された。


 首を傾けると、視慣れた部屋が視界に入る。


 ゆっくりと、日狭女は身を起こす。


 闇の主によって、ここに引き戻されたのに、今目覚めるとは。


 まさか、全ては自分が眠っている間に終わってしまったのか?


「――」


 慌てて、日狭女は部屋を出る。


 静まりかえった闇の国。


 いつもなら静寂を愛するが故に

 この静けさに安堵したが、今は違った。


 あまりにも静かだった。


 闇の主の気配さえない。


 おかしい。


 いつもなら、優しく静かに染み入るような主の気配は

 何処にいても感じられるのに。


九十九神(つくもがみ)、いるか」


 暗闇に問いかける。


 すると、日狭女の影が、生きているもののように伸び上がる。


――我ラヲオ呼ビカ、日狭女殿


 密やかに響く思念。


 実体を持たぬ、闇から成りし御霊――それが、九十九神。


「主様の気配がせぬ。何処に往かれた?」


――主様ハ、此処ニオワス。タダ、休ンデオラレル


「休んで……? 闇の神気も感じ取れぬほど、お疲れなのか?」


 だから、自分は途中で目覚めたのか。


――我ラニモワカラヌ。タダ、ゴ無理ヲナサレタヨウダ


――我ラハ主様ガ目覚メルマデ、オ傍デオ護リスルノミ


 絶大な神威を有する闇の主にも制約はある。

 その力は、この闇の領界にのみ発現する。


 現世の豊葦原はすでに隔てられ、主には負担となる。


 青ざめた容を思い返し、日狭女は動揺する。


 あの方は、我ら黄泉神の祖神。


 決して喪われてはならぬ大切なお方。


「九十九神、主様から離れるな。目覚めるまで、しかとお護りせよ」


――承知シタ


 影がすっともとの場所に戻る。


 暗闇の回廊から、生神(いきがみ)の気配がする。


 懐かしい、祖神伊邪那美の気配もだ。


「母上様……」


 呟くと同時に

 日狭女は再び黄泉国の門へ向かって走り出した。





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