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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第五章 闇神ーよもつ神々ー

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2 道往


――往ってしまうのか。


――すぐに戻る。

  日嗣の御子様が嫡妻様を娶ったと言うので、

  言祝ぎと新しく住まう館の様子を視てくる。


――一度往ったら、すぐには戻ってこれぬだろう。


――そうだな。だが、できるだけ早く戻ってくる。

  これを置いていくから、待っていてくれ。


――この比礼(ひれ)は……?


――私が高天原から降りし時に身に付けていたものだ。


――ああ、そうだ。初めて出逢った時もこれを身に纏うていた。

  その美しさに、一目で心を奪われた。あれから俺は、ずっと幸せだ。

  それなのに、そなたと離れるなど耐えられぬ。

  俺をおいて、天へ返ってしまうような気さえする。


――何を莫迦なことを。我々は夫婦となったのだぞ。

  背の君をおいて天へ返るわけがなかろう。


――だが、不安なのだ。このまま離れたら逢えなくなるのではないかと。

  俺のような国津神が、そなたのように美しい天津神を得るなど、

  不相応なのではないかと。



――これが証だ。そなたのもとへ必ず戻るという。


  私はその比礼なくば天へは返れぬ。


  だから、天へは返らず必ず戻ってくる。


  そして、そなたと共に暮らしていく。



――では、待っている。


  そなたが戻ってくるのを、


  俺はずっと待っている。



 幸せだった日々はあまりにも短く、今は遠い。


 その誓いが果たされることはなかった。

 自分のせいで。


 果たされぬと知っていたなら、自分は誓っただろうか。


 言霊が互いを縛りつけ、未だ何処にも往けず。


 自分は今もあの日の誓いを忘れずにいる――







 突如美咲の中に顕れた神は、伊邪那美ではなかった。


 美咲を憑坐(よりまし)として降りた気配はない。


 まるで魂を入れ替えたかのような顕れ方に、

 荒ぶる神以外の神々も戸惑っていた。


「母上様は何処に!?」


 最も慌てたのは久久能智と石楠である。


 月神に意識のない美咲の身体に入り込まれてから、

 彼らは美咲の周囲に密かに結界を張っていた。


 それなのに、まるで結界など何の意味も成さぬように、

 美咲の意識は途絶え、別の神が顕れたのだ。


 そして、永く豊葦原を流離(さすら)ってきた荒ぶる神にもわからぬ神。


 大抵の国津神なら、神気や神威によって、その名がわかる。


 だが、伊邪那美とは別の神であるのに、

 それ以外は何もわからなかった。


 神気や神威さえ故意に隠されたように、霞がかって曖昧だ。


「母上様に仇なす者ではございません。

 母上様は、黄泉国に戻られるのを拒んでおられるだけです。

 戻れば、再び現世に返れぬことをご存じなのです。

 ですが、母上様が黄泉国へ往かねば、

 祖神伊邪那岐様の神霊は取り戻せますまい。

 それ故、私が代わりに参ります」


「そなたは、月読を追い払った神だな」


「さようでございます」


「何故美咲の中に在る?」


「いずれおわかりになりましょう」


 女神が曖昧に微咲む。


 その咲みは美しかった。


 建速は一つ息をついて、それ以上の追求を諦めた。


「今はそれ以上は語るつもりがないのだな――よかろう。

 美咲の――伊邪那美の身体を頼む。

 傷つけでもしたら許さん」


「お任せください。では、黄泉国へ。

 道往きは長うございます。

 憑坐を持たぬ建速様は、神気をお隠しくださいませ。

 神威も使ってはなりませぬ。

 闇の主に気づかれてしまいますので」


「わかった」


 千引の岩の間を通って、

 神々は黄泉国へと向かう黄泉路の先へと辿り着いた。


 やがて彼らの背後で静かに岩が閉じた。


 辺りは闇に包まれ、物音一つない。


 長く続く路のみが、暗闇の中浮かび上がるように視えるだけ。


「これが、黄泉路……」


 葺根の呟きに、女神が咲う。


「ここは神々が通る路にございます。

 祖神伊邪那岐様がここを塞いだ故、

 祖神様以外、もう生きている神が

 この路を降ることはございませんでした」


「では、我々が伊邪那岐に続いて戻る神になるだろう」


 建速の言霊に従い、神々が頷く。


 そして、宇受売を先頭に葺根、美咲の中の女神、建速、

 闇山津見、慎也の身体を運ぶ石楠、久久能智の順に歩き出した。


 黄泉路を降ると言っても、それはひたすら平らな路だった。


 一行は黙って歩き続ける。


 どれほどの時が過ぎたのか。


 不意に先導する宇受売が立ち止まる。


「どうした、宇受売」


「葺根様、光が――」


 路の向こうを指し示す宇受売。


 そこに目を向けると、確かに小さな光が視える。


 それは背後の神々にも視えた。


 光は揺れながら徐々に大きくなってくる。


 そして、大きくなるにつれ、それは神の姿を形取った。


 建速が美咲の身体を自分の傍らに引き寄せる。


 久久能智と石楠が慎也の身体を護る。


 黄泉路にあって、光り輝く神が近づいてくる。


「誰だ!?」


 宇受売が問う。背後には葺根がついた。


 輝く神が立ち止まる。


「我は黄泉路の道往神(みちゆきがみ)。神去りし御霊(みたま)を黄泉国へ導く神なり」


 くぐもった声が答える。


 光が淡くなり、消え去ると、杖を手にしたその姿が顕れる。


 屈強な体躯を持ったその姿は、手足が長く、均整がとれていた。


 しかし、その(かんばせ)は恐ろしい面で隠されていた。


 血のように紅く塗られたその面は、目は視開き、つり上がっている。


 口は耳元まで開き、何か悪しき言霊を叫んでいるようにも視えた。


「只の人間ではないな――その密やかな神気は。

 神が黄泉路を降るなど、絶えて久しいというのに。

 生神(いきがみ)が何故黄泉路を降る? 死神(ししん)でもあるまいに」


 面をつけて話すからか、

 響きのよい声はくぐもってしか聞こえない。


「黄泉国に攫われた祖神様の神霊を取り戻すために、

 我々は黄泉路を降らねばならぬ」


 宇受売の両手にはいつの間にか剣が握られていた。


 邪魔をするなら、この神も倒さねばならない――そう決意していた。


 だが、宇受売の剣を視ても、

 道往神は動じることも、臆することもなかった。


「そうか――では案内(あない)致そう。ついてこい」


 肩を竦め、踵を返して歩き出す神に、

 葺根が拍子抜けしたように宇受売に話しかける。


「宇受売、あれは黄泉神か?」


「そのようだが、あれは……」


 宇受売が記憶を辿るように遠い目をする。

 記憶の中の、大切なものと重ね合わせるように。


「宇受売?」


「葺根様。皆様方と一緒に、離れてついておいでなさいませ。

 私は、あの者と話さねばならぬことがあるのです」


 ふらりと、宇受売は先を往く道往神のその背を追う。


「宇受売、おい!?」


「いいのだ、葺根」


 背後からかかる声。


「建速様?」


「あれは、きっと宇受売が高天原に返らずに捜し続けた者。

 黄泉国に着くまではそっとしておけ」


「――は……。建速様がそう仰るならば」


 宇受売は先を往く神に追いつくと、杖を持つその手を掴んだ。


 背の高いその男神を視上げ、躊躇(ためら)うように問う。


「私を……憶えているか……?」


「そう言うそなたは、俺を憶えているか?」


 面の奥から漏れる声。


「俺の名を、憶えているか?」


 宇受売は、小さな声で、だが、はっきりと告げる。


神田比古(かむたひこ)……」


 道往神は、空いている手で、ゆっくりと面を取った。


 面には似つかぬ、男らしくも美しい顔立ち。


 そこに視えたのは、確かに、宇受売の視知った(かんばせ)であった。


「宇受売――久しいな」


 懐かしい咲みで、男神は微咲んだ。







「神田比古、何故――」


「待て、宇受売」


 神田比古が手を挙げ、それを留める。


「歩きながら話そうではないか。

 そなたらは、急いでいるのだろう?」


 宇受売は、咄嗟に振り返る。


 背後には、荒ぶる神らも立ち止まり、自分達と距離を置いてくれている。


 そんな彼らに一礼すると、


「わかった」


 素直に宇受売は頷いた。


 神田比古も頷き、肩まである長い杖をつきながら歩き出す。


 その横を、宇受売もついていく。


「そなたの憑坐は、顔立ちも少し似ているのだな。

 すぐにわかったぞ」


 宇受売を視下ろす神田比古の眼差しは愛しさに溢れていた。


 横から視上げる宇受売は、

 何だか、泣き出したいような気分になった。


「そなたも、変わらん」


 その眼差しを視返すのが辛くて、宇受売はやや視線を下げる。


「そういうわりには、俺にすぐに気づかなかったようだが。

 初めて逢った時とて、俺は面をつけていたのに」


「面が違うではないか。あの時は、そなたは獣の面をつけておった」


「面をつけているからこそ、すぐにそなたにはわかると思ったが――

 永い時が流れたから、仕方あるまい」


 面白そうに咲い、神田比古は先を続ける。


「何故、ここにいるのかと問うならば、簡単だ。

 神去りし後は、この黄泉路の道往神(みちゆきがみ)となった」


「――私はそなたがすぐに黄泉返ると思っていた」


 宇受売は、呟くように言った。


 そう――すぐに黄泉返ると思っていたのだ。


 だから、世界の理が代わりそれぞれの領界が隔てられても、

 随伴神達と共には高天原に返らなかった。


 神田比古が黄泉返るのを、封じられるまで、捜し、待っていた。


 それなのに、当の本人は豊葦原でもそうだったように、

 黄泉でも道往神となっていたとは。


 何だか、腹立たしくなってきた。


「私は、ずっと待っていたのだ」


 下から、自分を睨みつける宇受売に、

 神田比古は困ったような、嬉しいような、曖昧な表情をした。


「それは、悪かった。

 だが、俺は、正直そなたが待っていてくれるとは思わなかった」


「何故!?」


「誓ったではないか。最初の妻問いで。

 俺が生きている間だけ、傍にいて欲しいと。

 そう言って、渋るお前に妻になってもらったのだ。

 俺は死んだのだから、当然そなたは天に返ったと思っていた」


「神田比古……」


 その言霊は、宇受売には衝撃だった。


 確かに、妻問いでそう言われた。


 だが、夫婦となって、背の君となった男に、

 そんなにあっさりと割り切られたのだと信じられなかった。


 最後のあの時、ずっと待っていると言ったのは、

 必ず戻るから待っていろと告げたのは、

 互いの誓いは、何の意味もなかったのか。


「黄泉返りを、望まなかったのか……?」


 神田比古は驚いたように宇受売を視つめる。


「全てを忘れて? それは無理だ。俺には生きてきた記憶全てが愛おしい。

 (たと)えもう戻れぬとわかっていても、

 忘れて只人として生きていくことなどできぬ。

 そなたにはできるのか?」


「――」


 宇受売には答えようがなかった。


 自分達が死ぬなど、考えたこともなかったからだ。


 人間に神として祀られ神域に封じられはしたが、それは死ではない。


 人間には、神は殺せない。


 封じられることがあっても、死ぬことはない。


 造化三神を含む別天津神(ことあまつかみ)神代七代(かみよななよ)と言われる神々の末は

 とても強い神威を持つ神々だからだ。


 そして強き神々の末である天津神には、死は無縁のものだった。


 神は、神にしか殺せないのだ。


 そして、高天原の神は、決して互いに争わぬ。

 天の理に従うため、殺し合うほどに争う理由がないのである。


 だが、豊葦原は違う。


 弱き神々は、死を迎える。

 美しき国を争い、殺し合う。


 天津神が視過ごしてはおけぬほどに。



 豊葦原にあっては、神々さえも殺し合い、死んでいく。

 高天原にあっては、神々は争わず、死ぬことはない。



 天と地は、神々の末でありながら既に別の理の中に在る。


 天津神と国津神は死によって永遠に隔てられてしまったのだ。


 それは、祖神伊邪那美の呪いか。


 初めて死を迎え、天を追われ、死の女神となった母神の想いが、

 恋しい子らを黄泉へと引き寄せるのか。


「私を許さずともよい……」


 その言霊に、神田比古は眉根を寄せる。


「何故そのようなことを言う? 俺はそなたを恨んだことはない。

 そなたが俺に許されぬほどの何をした?」


「――」


 神田比古は、自分のせいで死んだのだ――宇受売はそう言えなかった。


 だが、宇受売の表情から心を読んだように神田比古は頭を振る。


「俺が死んだのはそなたのせいではない。俺の甘さが死を招いたのだ」


「だが――」


 豊葦原を奪いに来た天津神の随伴神に心奪われたと

 神田比古をよく思わぬ国津神によって海に引き込まれ、殺された。


 天孫の日嗣の御子が豊葦原を統治するのを、

 国を奪われたと思う神もいたことは事実なのだ。


 宇受売にはわからなかった。


 もともと豊葦原は、

 天津神である伊邪那岐と伊邪那美が産んだものだ。


 そこにいる神々も、もとは天津神だったのだ。


 豊葦原を愛し、そこに住まうのはいい。

 誰でも思うところで暮らせばいい。


 だが、天孫の日嗣の御子は國産みの女神の末であり、

 正当な豊葦原の後継者なのだ。


 何故、奪われたと思うのだろう。


 豊葦原は国津神のものではない。

 人間のものでもない。


 彼らは争うことなく統治することはできない。


 血を流さねば、殺し合わねば、豊葦原に君臨できない。


 だからこそ、認めることができない。


 だからこそ、豊葦原は、

 高天原に在らせられる女神の末のものなのだ。


 揺るぐことなく。

 紛うことなく。


 それが、天の理だった。


「宇受売。俺は幸せだった。

 共に在れた日々は短かったが、悔いなどない」


 その言霊は、(いつわ)りなく響いた。


「得難き天女を得たのだ。俺ほど幸福な国津神もおるまいよ」


「神田比古――私も幸せだった。どんなに短くとも、

 共に在った日々を忘れることなどできなかった」


 それでもと、宇受売は思う。


 神田比古の妻問いを受けなければ、彼は神去ることはなかったのだ。


 あの日、神田比古をおいて日嗣の御子のもとへ往かねば。

 日嗣の御子が、嫡妻を冷たく追い返さなければ。

 嫡妻が、産褥で神去ることがなければ。


 もっと早く、神田比古のもとへ戻っていれば――


 神田比古を喪ってから、

 宇受売は豊葦原を彷徨いながら問い続けた。


 全てが、宇受売の中で未だに後悔として燻っている。


「――」


 そっと、宇受売は神田比古の腕に触れた。


 死神で在っても、温もりは変わらない。


 視返す眼差しも。

 微咲みも。

 その心も。


 それでも、なぜだかひどく、互いが遠くに感じられた。


 それほどの時が過ぎ逝きたのだと、宇受売はまた泣きたくなった。





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