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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第五章 闇神ーよもつ神々ー

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1 闇境


 日狭女(ひさめ)黄泉国(よもつくに)の門を開いた時、そこには、闇の(あるじ)が立っていた。


 その長く美しい黒髪から覗く(かんばせ)が、

 一瞬苦痛を堪えているようにも視えた。


「主様……?」


 闇の主が日狭女を視る。


 その足下には、

 神霊と生きた人間を憑坐とした神が意識のないまま横たわっている。


生神(いきがみ)を連れておいでになったのですか――

 門の内へ入れることはできぬのに、何故……」


 どちらも意識を失ってはいるが、神霊も憑坐も生きている。


 それでも、主が自らここまで連れてくるとは、よほどのことだ。


「中へ戻れ、日狭女」


 闇の主が隠す前に、日狭女が気づく。


「その神霊は、父上様ではありませぬか!?」


 驚きとともに日狭女が横たわる神霊に駆け寄る。


 しかし、触れる前に闇の主の腕に抱き込まれるように阻まれる。


「触れてはならぬ」


「主様、よもや、父上様を殺すおつもりですか」


 日狭女の言霊に、闇の主は美しい(かんばせ)を歪めるように咲う。


「まさか。我は黄泉大神(よもつおおかみ)

 死を統べるとはいえ、神々を殺しはせぬ。

 古の誓約に従い、伊邪那美を取り戻すだけだ」


「ですが――」


「日狭女。

 そなたが伊邪那美を恋うる様に、この黄泉国にも母神が必要なのだ。

 邪魔をしようなどとは夢思うな」


 言霊が胸を突く。


「私達は黄泉神。

 大神で在られる貴方様の邪魔をすることなどできませぬ――」


 日狭女は哀しげに呟く。


 例え母神を恋うていても、己は黄泉神なのだ。


 この国を、そしてこの国を統べる闇の主――黄泉大神を慕う心に

 (いつわ)りはないのに――未だに信じてはもらえぬのか。


「――疑ったわけではなく案じているのだ。

 そなたたちを愛しむ故だ」


 闇の主が、日狭女の頬にそっと触れる。


 冷たそうに思えるその白い指が温かいことを、

 すでに日狭女は知っている。


「私達はみな今のままで満足ですのに、

 何故貴方様はそれ以上を望むのですか」


 闇の主は日狭女に微咲む。


 その容はどこまでも美しく、どこか寂しげでもあった。


「――私が満ち足りぬからだ」


 その言霊に、思わず、日狭女の瞳から涙が零れる。


「私達闇の(しもべ)だけでは、

 貴方様を満たすことはできぬのですね……」


 それはとても、哀しいことだ。


「許せ、日狭女」


 主の美しい唇が、日狭女の額にそっと触れた。

 同時に、闇の神威が流れ込む。


 それだけで、日狭女の内の神威が満ちる。


 同時に、意識が遠ざかる。

 優しく、闇の主の神威が日狭女を闇へ押し戻す。


「そなたは、黄泉神だが、伊邪那美の子でもある。暫し離れていろ」


「――」


 闇に生まれし愛し子を最後まで突き放せない優しい方。

 それなのに。


――黄泉国で唯独りの、お可哀想な方でもあるのだ。


 日狭女は思う。


 この黄泉国を、黄泉神を、愛しむ故に、決して己を満たせずにいる。


 諦めてくだされば楽になれるのに。


 もといた場所に引き戻されながら、日狭女は抗わずに目を閉じた。







 ただひたすら、美咲は慎也を抱きしめたまま座り込んでいた。


 そうしていれば、いずれ目を覚ましてくれるかというように。


 神霊を抜き取られたというのに、

 慎也の身体はまるで眠っているかのように温かだった。


 鼓動も脈打ち、呼吸もしている。


 魂が身体になくとも、生きていられるものなのか。


 それとも、

 慎也が伊邪那岐という特別な神の神霊であるからこそなのか。


 ようやく出逢えたのに、今度は魂だけが攫われるとは、

 しかも、それが、以前自分を助けてくれた坂崎綾の仕業とは。


 何が何だかわからないまま、根の堅州国は崩壊し、

 建速の神威に護られ、美咲達は今また暗闇の中にいる。


 それは、黄泉国へ向かう路の半ばであった。


 道を塞ぐ大きな岩の前で、神々達は思案していた。


 その岩は、千引(ちびき)の岩――伊邪那岐が

 黄泉国の死の女神となった伊邪那美との別離を

 受け入れたと伝えられてきた事戸(ことど)の岩であった。


 岩の向こうに黄泉国があることはわかっているが、

 その先は岩に塞がれ全く見えない。


 建速と宇受売と葺根が岩の周囲を探っている。


 久久能智と石楠は、変わらず美咲の傍に在る。


 そして、その近くに、

 先ほどまで建御名方が憑坐としていた人間が横たわっている。


 神が降りた憑坐には、目覚めればその時の記憶はない。


 神が祓われた今、神威を使うことはもちろんできず、

 放っておくこともできないため、眠らせたまま連れてきたのだ。


 不意に、神々が新たな神気を感じた。


 神々の視線が、横たわる人間に集まる。


「――」


 建御名方が憑いていた憑坐が目を開ける。


 それは、建御名方ではなかった。


 国津神ではあるが、別の神気と神威が感じられた。


 そして、神気が違えば、顔の造作は変わらずとも、

 神格の違いによって、まるきり別人のようにも見えた。


 新たな神が、憑坐に降り、起き上がる。


「お初にお目にかかります。我は闇山津見(くらやまつみ)

 山津見の姉比売様の命により、根の堅州国を探っておりました」


 その神は、建御名方よりは年上に見えたが、

 まだ若い神のようにも感じられた。


「姉比売は、何故黄泉神の手先となった」


「あれは、姉比売様の望みしことではございませぬ!!

 姉比売様は、闇の主の策に嵌ったのでございます――」


「策に嵌ろうがどうしようが、我々の邪魔をしたことには変わりない。

 祖神伊邪那岐の神霊を闇の主に奪われたのだ」


「かの神は、日嗣の御子ではございませぬのか……?

 姉比売様は、そう申しておりました」


「違う。何故そなたたちが見誤るのかはわからんが、

 あれは祖神、伊邪那岐で在らせられる」


「失礼致しました。我らにはわからぬのです。

 違うのならば、何故、祖神様から、

 我らの敵とも言える天孫の日嗣の御子の神気と神威を感じるのか――

 姉比売様は間違いないと仰せでした。

 そして、その傍らに在らせられるのは、妹比売様だと。

 半神で在らせられた妹比売様を視誤るなど我らには及びもつかぬこと……」


「それは我らにも与り知らぬこと。

 美咲は我が祖神伊邪那美で在らせられる。

 それ故、今生にありて我が護るべき神なり」


「――我らが主がお話ししたきことがございます故、暫しお待ちを」


 闇山津見が目を閉じる。


 途端に、憑坐を包む気配が変わった。


 建御名方が憑坐としていた人間には、

 すでに闇山津見でなく、別の神が降りていた。


 神気が違う。


 それは、もっと永い時を経たように老成した、穏やかな神気であった。


 そして、強い神威を併せ持っていた。


 目を開けた新たな神は、まず荒ぶる神を視据えた。


「最後の貴神(うずみこ)にお願いしたく、やって参りました」


「禍つ御霊となった姉比売のことか」


「――さようにございます。

 あれは我が娘、木之花知流比売(このはなちるひめ)にございます」


「されば、そなたは国津神、大山津見命だ。

 豊葦原での我が妻櫛名田の祖神でも在る女神の末。我が兄でも在らせられる」


「三柱の貴神の兄とは畏れ多い。我は豊葦原の国津神に過ぎず」


 大山津見命は、一礼すると荒ぶる神の背後の美咲を視据えた。


「母上様、お懐かしゅうございます」


 不意に話しかけられ、美咲は戸惑う。


 ただ、胸の奥が懐かしさと愛おしさでざわめく。


「あ、あの――ごめんなさい。私記憶がないんです」


「存じております。父上様もでございますね。それでも、私には、わかります。

 貴女様は紛れもなく、我ら国津神の祖神で在らせられる」


 その温かな声音を、その纏う雰囲気を何処かで感じたことがあった。


「もしかして、斉藤さん、ですか……?」


「さようにございます。我は現世でも木之花知流比売の親となる人間に降りました。

 哀れな娘に寄り添い、ともに目覚め、生きて往くために。

 故に、兄弟達とともにお護りすることはできず、

 密かに母上様の近くで過ごすことしかできませなんだ」


 封じられた神々が目覚めて、

 現世に生きるためには人間の憑坐を必要とする。


 禍つ神霊となった娘のために、女神の末である大山津見命(おおやまつみのみこと)は、

 今の今まで、祖神のもとへ戻れなかった。


「憐れな娘なのです。己の半神であった妹比売を喪い、

 悪しき言霊に縛られ、禍つ神霊と成り果てました。

 それでも、我ら山津見の国津神の(さき)わいであったのです。

 あれがいなければ、我らはとうの昔に豊葦原から消え果てておりました」


 彼女の憎しみが、怒りが、哀しみが、山津見の神々を最後まで豊葦原に留めた。


 その憐れさ故に。


「どうか、我が末に御慈悲を。

 本来、禍つ神霊となるべき定めではございませんでした。

 哀しみがあれの心を惑わせてしまったのです」


「どのみち、追って往かねばならん。

 神霊を取り戻さねば、いずれこの肉体は死ぬだろう。

 現身(うつしみ)が死ねば、伊邪那岐は神去る」


「ならば、道返之大神(ちがえしのおおかみ)を喚び出しませ。

 かの神ならば、この千引の岩から先の黄泉国へ、導くこともできましょう。

 かつて、父上様がそうなさったように」


 大山津見命が跪く。


「この憑坐には、我の代わりに闇山津見が憑きます。

 どうか、お供させてくださいませ」


 大山津見命が目を閉じると、再び神気が変わる。


 憑坐の中に、再び闇山津見が戻ってきていた。


「祖神様の神霊を取り戻すべく、お供させて頂きます。

 そして、何卒、我が比売様を闇の主よりお救いください」


「よかろう。これ以上闇の主の好きにはさせん。

 姉比売も伊邪那岐も死神ではない以上、黄泉国に入ることはできぬはず。

 我らが辿り着ける場所に、きっといる」


 石楠が、慎也の身体を抱き上げる。


 美咲は立ち上がり、久久能智に護られ、千引の岩から少し離れた。


 荒ぶる神が独り進み出て千引の岩に触れる。


 宇受売と葺根がその脇に控えた。



「千引の岩に宿る道返之大神に奏上致す。


 我は三柱の貴神、建速須佐之男なり。


 降りしませ。


 そして我の願いを叶え給え」



 神気が揺らめき、神威が満ちる。

 荒ぶる神の神威に反応して、千引の岩からも神気が揺らめく。


 新たな神が降りてくるのを、美咲は感じた。


――我を喚ぶは、何故ぞ。何を望む。


 大気に響く、神の言霊は昏く、深い。


 神霊のみの神の声だ。


「祖神伊邪那岐の神霊が黄泉神に攫われた。

 それを取り戻すため、我らは黄泉路を降らねばならぬ。

 どうか我らを通してもらいたい」


――父上様が――?

  ならば、我はそなたの望みを叶えねばならぬ。

  父上様を救うべく、黄泉路を降ることを許そう。

  かつて黄泉神から豊葦原を護る為に、父上様がここに我を置いた。

  それから、一度だけ、祖神様は若き国津神とともに、

  ここを通り黄泉路を降られ、再び戻ってきた。

  そなたたちも通るがいい。父上様を救い出し、戻って参れ。


 言霊とともに、暗闇の中に神威が満ちて、輝いた。


 道を塞いでいた岩が、真ん中で裂け、静かに開いた。


 荒ぶる神が美咲を振り返る。


「美咲。慎也を取り戻しに往くぞ。今なら往ける」


 伸ばされた手を、美咲は取ることができなかった。


「美咲?」


「……だめよ……」


 己のものではない恐怖が、急に心を占める。



――あの方が往ってしまう!! 日狭女(ひさめ)、追ってちょうだい!!

  あの方を引き留めて!!



 声の限りに叫んだのに、喚んだのに、その背中は遠ざかっていく――



 この込み上げる恐怖は、溢れる絶望は――伊邪那美のものなのか?


「美咲、どうした?」


「いかがなさいました、母上様?」


 荒ぶる神と国津神の言霊にも、すでに反応はない。


 どこか虚ろに、言葉を紡ぐ。


「私は、行けない……黄泉国には、行けない。

 行ったら……戻れない――」


 美咲の身体がふわりと傾ぐ。


 荒ぶる神が咄嗟に美咲を捕まえる。


「美咲!?」


 だが、美咲の身体から力が抜けていたのは、一瞬のこと。


 すぐに、閉じられていた目が開かれ、

 荒ぶる神の腕から離れ、自分の力で身体を支えた。


 その違和感に、荒ぶる神は気づいた。


 神気が違う――神威もだ。


「――そなた、誰だ」


 美咲を視つめながら、問うた。


 美咲の中にいる神が、荒ぶる神に向かって一礼する。



「女神はお隠れになりました。代わりに、私が黄泉国へご案内致します」





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