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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第四章 睡神ーまどろむ神々ー

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40/55

10 潰執


「母上様――?」


 懐かしく、愛しい神気を俄に感じ、黄泉日狭女(よもつひさめ)は振り返る。


 だが、それは遠く、霞のように消え失せる。


 先ほどから、黄泉国の奥深くにも響くこの幽かな神鳴りと

 祖神伊邪那美の気配とには関わりがあるのか。


 神鳴りは、産みの力を持つ祖神――


 伊邪那岐と伊邪那美しか、今はもう起こせないはず。


 まさか、戻ってくるのか。

 あんなにも厭うていたこの黄泉国へ。


 それは、もしや闇の主の仕業か。

 望まぬ帰還を果たすのか。


「ああ、母上様――」


 闇の中で現象した自分には、この国以外のことは何一つわからない。


 それでも、予感がする。


 何かが起こる。


 もどかしい思いで、日狭女は黄泉国の門へと向かった。






 美咲が目を開けると、自分を覗き込んでいる莉子と美里の顔が見えた。


「母上様!!」


 自分の身体に戻ってきた。


 自分を覗き込んでいるのは、

 莉子と美里の中にいる国津神の久久能智(くくのち)鳥之石楠船(とりのいわくすぶね)


 建速(たけはや)の神威が大気を震わせている。


 その神威が向かう先が須勢理比売であるのに気づき、

 飛び起きるなり、美咲は叫んだ。


「だめよ、建速!!」


「!?」


 突然かかった声に、荒ぶる神が驚くが、遅かった。


 神威は放たれた。


 凄まじい勢いで須勢理比売に向かっていく。


 須勢理比売は動かない。


 目を閉じて、父神の神威が自分を殺してくれるのを待っていた。


「須勢理比売!!」


 だが。

 放たれた荒ぶる神の神威を、別の神威が受け止めた――




「――」


 荒ぶる神の神威が自分に向かってくるのを、

 目を閉じていても須勢理比売は感じた。


 だが、何故かそれは自分には届かなかった。


 自分を喚ぶ誰かの声がしたが、それ以外、どんな音もしない。


 そっと、目を開ける。


 自分の前に、両手を広げて庇うように立つ男の背中が視えた。


「……」


 有り得ない。


 荒ぶる神の神威を、事代主(ことしろぬし)が受け止めるなど、

 そんなことが出来ようはずもない。


「事代……?」


 須勢理比売は呆然とその名を呼んだ。


 だが、返る言霊はない。


「――」


 神気の揺らめきはない。

 事代主の神威も感じない。


 当然だ、事代主は封じられたはずだ。


 残っているのは、憑坐(よりまし)となったただの、人間のはず。


 それなのに、記憶も持たぬ只人が何故自分を護るのだ。


 この人間は――誰だ(・・)


 まさか――



「……己貴、様……?」



 愛しい女神の呼びかけに。


 失われた神気が揺らめき、神威が満ちる。


 それは、事代主の神気ではない。

 それは、事代主の神威でもない。


 それは正しく、(あやま)たず――女神の対の命のもの。


「……あ……あぁ……」


 振り返らない男神。


 荒ぶる神の神威を、神去ったはずの、もういないはずの夫が、

 よりによって今、自分を死から阻むのか。


 だが、荒ぶる神の神威には到底及ばぬ。

 受け止めたことこそが奇蹟。


 荒ぶる神の神威がついに己貴の神威を弾き飛ばした。






「!?」


 衝撃が胸を貫き、鮮血が飛び散った。


 胸を射抜いた神威を背後にいる須勢理比売まで射抜かぬよう、

 己の身体で留めるのがやっとだった。


「……己貴、様……?」


 背後からの言霊に、うっすらと、己貴は(わら)った。


 その声音で、名を喚ばれたのはいつ以来だろう。


 その(かんばせ)を視て、愛しげに自分を喚ぶ妻の声を、もう一度聞きたい。


 ゆっくりと、己貴は振り返った。


「須勢理……」


 言霊にのせられた甘美な響き。


 愛しい者の名を喚べる幸福に、己貴はつかの間我を忘れた。


 艶やかな髪とその容は、神代と何も変わらずに美しい――

 否、逢えなかった永い月日を経て一層美しく愛しく想う。


 今も昔も、自分を惹きつけて止まぬ、唯独りの女神。


 事代主の憑坐(よりまし)となってもなお――憑坐となったからこそ、

 ともに在れた喜びをこの身体全てが感じていた。


 黄泉返ったがゆえに只人となり、神霊は封じられ、神代の記憶すらなくとも。


 この時を、ずっと待っていた。

 この喜びの前には、痛みさえも霞むだろう。




 荒ぶる神の神威が己貴の身体を貫き、

 己貴の神霊を縛る呪詛がその神威に絡みつく。


 恐ろしい勢いで呪詛の紋様が荒ぶる神の神威を取り込み、

 呪詛の媒体である己貴の傷ついた身体を修復しようとする。


 神を滅ぼそうとする神威と変質した禁厭の呪詛が、己貴の神霊を苛む。


「――」


 己貴ががくりと膝をつく。


「己貴様!!」


 美咲が叫んだ。


 俯いたまま、己貴が問う。


「女神よ、終わりですか……」


「終わりです。根の堅州国は、今日、この時、滅びます」


「ありがとうございます。この時を、ずっと待っていました……」


 その時、須勢理比売は初めて気づいた。


 己貴を蝕む呪詛を。

 自分を縛りつける呪詛を。

 根の堅州国さえ変えてしまった、世界を覆い尽くす呪詛の紋様を。


「この呪詛は……」


「私が施した……そなたを生かすため、豊葦原に留めるために。

 根の堅州国を出ては生きられぬとわかってから、

 少しでも永くそなたを留めおくために」


 呪詛の紋様に気づいたことで、

 須勢理比売の中に呪詛から流れ込む命が感じられた。


 これは、己貴の命。

 同時に、死の眠りに就いた、神々の命でもあった。


 この呪詛は、神々の命を吸い摂り、自分へと流れ込んでくる。


 だから、己貴は神去ったのか。

 だから、根の堅州国に神逐(かむやら)いされた神々は、死の眠りに就いたのか。

 だから、この根の堅州国で生きられる神は、自分しかいないのか。


「私の、ため……?」


 須勢理比売の膝ががくりと落ちた。


 目の前の、黄泉返りした夫の語る言霊が、真実であるとわかってしまった。


「そうだ。いつでも、そなたのためだった。

 あの日、初めて目合ったあの日から、私はそなたのためなら何でもした。

 根の堅州国を出たのも、豊葦原を治めたのも、全てそなたのためだった」


 愛しげに、己貴は手を伸ばし、須勢理比売に触れようとする。


「たくさんの妻を得たが、それは、そなたを救う禁厭を施すためだった。

 そなたがそれを信じられずにいたこともわかっていた。

 最後には、触れさせてもくれなくなった。

 それでも、信じて欲しかった……」


 蒼白な容が、信じられぬように自分を視つめていた。


 己が罪を犯したことはわかっている。


 それでも、そうしても構わぬほどに愛したのは唯独りだけ。


「須勢理、そなたの願いなら、全て叶えてやる。

 そのためだけに黄泉返ったのだ。

 未だ豊葦原が欲しいのか? ならば、何としても叶えてやる。

 荒ぶる神を再び敵にしても、そうしてやる。

 そなたの望みを私に言ってくれ」


 愛おしい妻の頬に触れようと伸ばした手が、白くなよやかな手に遮られる。


「何もいらぬ……」


 静かな拒絶に、己貴の容が歪む。


 自分を許せぬ妻の心が、この魂を切り刻んでいくようだ。


「須勢理……」


 縋るように喚びかけ、だが、それ以上の言霊を探せない。


 美しい妻の瞳から、ほろりと涙が零れた。


 それすらも愛おしい。


 さらなる拒絶の言霊を、己貴は覚悟した。


 だが。


「貴方様以外、何もいらぬ……」


 望外の願いに、己貴は目を視張った。


 ああ。


 その言霊のなんと甘美なこと。

 その声音のなんと艶美なこと。


 魂を震わせるその一言を聞くためだけに、

 今日この時まで待っていたのかもしれない。


 愛しい妻の細い身体をかき抱き、強く強く抱きしめる。


「須勢理……須勢理……私もそなた以外いらぬ。

 私の望みはいつでも一つだけ――そなただけだ」


 己貴を苛んでいた荒ぶる神の神威が不意に流れを変え、

 須勢理比売をも貫いた。


「!!」


「須勢理!?」


 美しい唇から、血が流れた。


 己貴は荒ぶる神の神威から須勢理比売を引き離そうとした。

 けれど、須勢理比売がそれを留める。


 流れを変えたのは、須勢理比売自身。


 荒ぶる神の神威が呪詛を次々と打ち消していく。

 流れ込む命が、凄まじい速さで消えて逝く。


 世界を覆う呪詛の紋様が綻びて往くのは、誰の目にも明らかとなった。


 神々の命と共に呪詛が消えて逝く――同時にそれは、根の堅州国の崩壊でもあった。


「これでよい……独りになるのは、もう嫌……今度こそ、離さないで」


 須勢理比売の手が、己貴の頬を引き寄せる。


「須勢理……」


 その眼差しは、かつてのように愛しさで満ち溢れていた。


 最後の紋様が打ち砕かれ、消えて逝くのと同時に、

 二柱の神の胸を貫く荒ぶる神の神威が目映いほどの光を放った。


 暗闇の国が真昼の如く照らし出された。


 須勢理比売と己貴は、互いを視つめて微咲(ほほえ)んだ。


 全てが満ち足りていた。



永遠(とわ)に、貴方様は私の(つい)(みこと)……」


「永遠に、そなたは私の対の命――須勢理、そなただけだ。いつでも」



 抱き合う神々は、そのまま封じられた。

 永久(とこしえ)に離れることなく――それこそが互いの願いだった。







 光の柱に包まれた己貴と須勢理比売。


 それを、不意に暗闇が呑み込む。


「!!」


「建速様、闇の気配が!!」


 咄嗟に荒ぶる神が美咲を引き寄せ、護るように抱きしめる。


 光の柱は闇に呑み込まれ、その姿を消していく。


 すぐ近くで、美しい声が響いた。


「大己貴はすでに黄泉神となった。封じられるべき処は黄泉国なり」


 美咲は、その声音にぞくりと総毛立った。


 この声を、どこかで聞いたような気がした。


「荒ぶる神よ。礼を言う。黄泉国に新たな神が増えた。

 須勢理比売は丁重にもてなす故、案ずるな」


「須勢理も己貴も、そなたの手駒にはならんぞ」


「待てばよい。封じられた神々はいずれ目覚める。

 我は待てる。そなたが待つよりももっと永くな」


 光の柱は闇に呑まれたまま、姿を消した。


 同時に、神鳴りが響いた。


 大気が震え、大地が揺れる。


 根の堅州国の女王が消えたことで、理が悲鳴を上げる。



 世界が滅びる――



「建速、慎也くんは――!?」


「須勢理の館だ。往くぞ、美咲!!」


 荒ぶる神が美咲を抱きしめると同時に、神威を使った。


 瞬き一つの間で、美咲は館の中にいた。


 目の前には、横たわる慎也がいる。


「美咲。急いで慎也を起こせ。すぐに出るぞ」


「慎也くん!!」


 大地が揺れる中、駆け寄って膝をつくと、慎也の頬に触れ、温かさを確かめる。


 胸が規則正しく上下している。


 眠る慎也に、美咲はそっとくちづけた。


 すると、慎也の身体がぴくりと震え、目蓋を開ける。


 美咲に焦点が合うと、慎也はいつものように嬉しそうに微笑った。


「美咲さん、これは、夢じゃないよね」


「夢じゃないわ。これが現実よ」


 実際に離れていたのは一日にも満たないのに、

 夢の中を旅してきた美咲には、とても永く感じられた。


 慎也が身体を起こす。


「やっと逢えたね」


「うん。一緒に帰りましょう」


 美咲が伸ばした手を慎也が掴んだその時。


 慎也の背後から禍々しい神気が感じられた。


「!!」


 咄嗟に、慎也が美咲を自分から突き飛ばす。


「美咲!!」


 倒れかかる美咲を後ろから抱きとめたのは荒ぶる神だった。


 慎也の身体が黒い陽炎にも似た禍つ霊に包まれる。


「慎也くん!?」


 苦しげに喉元を抑える慎也。


 陽炎が慎也の身体から神霊を包み込み、引きずり出した。


 慎也の身体が崩れ落ちる。


 建速を振り払い、慎也に駆け寄り、美咲はその身体を抱きしめる。


 陽炎に包まれた慎也の神霊を捕まえているのは――

 暗闇に染まった衣と裳を身に纏った、長い髪の女だった。


 その顔を、美咲は知っていた。


「あ、綾さん!?」


 坂崎綾(さかざきあや)――そう名乗った女は、

 今は仄暗い神気に身を包み、禍つ神霊としてそこに在る。


 虚ろな眼差しは、美咲を視てはいない。


木之花知流比売(このはなちるひめ)様!?」


 美咲の背後で、宇受売が叫んだ。


 比売神の虚ろな目が、一度閉じられ、もう一度開く。


「!?」


「お前は、比売神ではない――闇の主!?」


 宇受売の叫びに、美しい唇が咲みの形をとった。


 開いた瞳は、美しい琥珀色だった。


「伊邪那美よ。伊邪那岐の神霊は頂いて往く。

 取り戻したくば、今度はそなたが追ってくるがいい。黄泉国へ」


 比売神の美しい唇から、闇の主の声音が響く。


 比売神は愛しそうに慎也の神霊を抱いていた。


 その姿が闇へと消えていく。


 ようやく逢えたのに。

 また手の届かないところへ往ってしまう。


「いや……」


 抜け殻となった慎也の身体を抱きしめ、美咲は叫ぶ。


「連れていかないでっ!! 返して!!」


 涙にけむる視界の中、慎也の神霊は、今度は黄泉国へと連れ去られた――






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