9 神願
「建御名方!?」
荒ぶる神と須勢理比売の神威が、誓約によって霧散する。
神鳴りが止み、にわかに静寂が戻る。
荒ぶる神の神気が静かに消え――
須勢理比売の怒りに揺らめく神気だけが、そこに在る。
建御名方の言霊がそれ以上の父娘神の神威を消し去り、
新たな誓約による神威が発言する。
建御名方と事代主、宇受売の神気が揺らぎ、神威が満ちている。
「母上、誓約は成されたのです。ここは、私と事代主にお任せください」
「ならぬ!!」
建御名方が、母神の手を取る。
「もとより豊葦原を奪われたのは、私の至らなさ故。
どうか、私に再び豊葦原を取り戻す機会をお与えください。
でなければ、どうして豊葦原に戻れましょう。
御案じ召さるな。
かつて父上様がこの生大刀と生弓矢で豊葦原を平定したように、
私と事代主が豊葦原を取り戻して視せます。
母上にも祖神様にも手出し無用。これは、天津神と国津神の勝負故に」
「よかろう。俺も須勢理も手を出さぬ」
「父上様!!」
「須勢理、誓約は成された。我ら神々は言霊に縛られる。
抗うことなどできぬ。
宇受売、独りで構わんのだな」
「もとより、國譲りは私が天照様に命じられしこと――
私の成すべきことでございました。手出しご無用。
神代で成すべきであったことを今日終わらせねばなりませぬ」
建御名方が生大刀を、事代主が生弓矢を構え、宇受売に対峙する。
虚空に浮かぶ、三柱の神。
神気が溢れんばかりに輝きを放つ。
「建御雷がおらぬからとて、油断されるな」
交差させた宇受売の手に美しい二振りの剣が顕れる。
事代主が矢を放つ。
それが、始まりの合図だった。
三柱の神の神気が三様に揺らめき、
国津神と天津神の神威が拮抗しながら満ちる。
事代主が次々と神威を込めた矢を番え、放つ。
身を交わす宇受売の剣がそれらを悉く薙ぎ払う。
合間に建御名方が斬りかかる。
息をつく暇もない。
しかし、
宇受売は片方の剣で生大刀を交わし、もう片方で生弓矢を交わす。
その所作は恐ろしいほど素早く、目を奪うほど優雅に動く。
さながら、舞うが如きに。
美しき巫女神は、
兄弟神を相手にしても何ら臆することなく剣を交える。
「久久能智、石楠、下がっていろ」
神々の勝負を視上げる荒ぶる神が、振り返らずに言う。
傍らの葺根が、不安げに虚空で戦う宇受売を視ている。
「建速様、宇受売に国津神を二柱も相手にせよとは、少々……」
「案ずるな」
荒ぶる神が不敵に咲う。
「常に随伴神の先陣をきるのが宇受売なのは、あやつが一番強いからだ」
神気が流星のように煌めき、流れる。
宇受売の動きに翻弄され、建御名方の息が上がる。
事代主の弓も、神威を込めているのに
容易く弾かれ、かすりもしない。
「兄上!?」
事代主の叫びに、建御名方は宇受売の剣に気づく。
宇受売の攻撃を交わした建御名方が、事代主の傍らに、跳びすさる。
「――」
宇受売が狙い澄ましたように、両者の懐まで跳び込む。
「!?」
建御名方の生大刀が事代主を庇い、
自分達に振り下ろされた宇受売の剣を両方受け止める。
そのまま、剣を左から右へと払い、
同時に宇受売をも引き離そうとした。
宇受売はその動きに逆らわなかった。
剣を手放す。
そのまま、
くるりと回転しながら建御名方と事代主の頭上を跳び越え、
背後に回り、兄弟神の首を押さえ込んだ。
「建御名方!! 事代!!」
須勢理比売の悲鳴にも似た叫びが空気を震わせる。
兄弟神の手から生大刀と生弓矢が落ちる。
宇受売の神威が放たれる。
「!?」
引きずり出されるような感覚が兄弟神を襲う。
錯覚ではない。
実際に、天之宇受売の放った神威は
憑坐から神霊を引き離そうとしていた。
二柱の神は己の持てる神威の全てで抵抗した。
神気が揺らめく。
神威がぶつかり合い、捩れ、弾ける。
だが、抵抗する兄弟神よりも、宇受売は強かった。
宇受売の神威が、兄弟神の神威を押し退け、神霊を捕まえた。
「うああぁぁぁぁぁ――――――!!」
兄神の抵抗が、叫びと共に大気を震わす。
「建御名方!? 事代主!!」
宇受売が両手に神霊を捕まえたまま手を引く。
輝くばかりの美しい神霊が、憑坐の身体から抜き取られた。
抜け殻となった憑坐の身体が、ゆっくりと地に足を着ける。
そのまま、憑坐の人間が倒れる。
兄弟神の神霊も、抗うことなく、
宇受売の神威によって陽炎のように揺らめき、そこに在る。
勝負はついた。
神霊は宇受売の神威により憑坐から祓われ、戻ることが叶わない。
頼りなげに揺らめく神気と陽炎のような姿が辛うじて残るのみ。
宇受売が神霊を封じる言霊を唱えた。
事代主の神霊が、一層頼りなげに揺らめき。
消え去る前に、一度だけ愛しげに須勢理比売を視た。
唇が動いたがどんな言霊を発したのかは、
須勢理比売にはついぞわからなかった。
「建御名方……事代……」
建御名方は、残る神威を振り絞り、
須勢理比売の目の前まで降りてきて、言霊を発した。
――母上、神代でも、今生でも、ご期待に背きしこと申し訳ございませぬ……
「何を言う!? そなたは、私の唯一の希望であった!!
いつでも、どんなときでも!!」
――もはやご期待に添えぬこと、お許しください
それでも、その容は解き放たれたように穏やかだ。
「辛かったか……? 私の願いは、そなたには重荷だったか……?」
――いいえ、母上の喜びが私の喜びでした。
それを叶えることが、どうして辛くありましょう?
辛かったのは、苦しかったのは、私がそれに視合う器ではなかったこと。
最後まで、母上に豊葦原を取り戻してやれなかったことでございます……
再び宇受売の言霊が響く。
陽炎のように揺らめいて、神霊が消えて逝く。
須勢理比売に残ったのは、僅かな神気の名残だけ。
それさえも、消え去る。
「建御名方……建御名方……」
須勢理比売の瞳から、涙が留まることなく溢れる。
「須勢理、終わりだ」
静かな荒ぶる神の言霊に、須勢理比売が切れるほどに唇を噛みしめた。
「いいや、まだだ――私が在る限り、天津神になぞ豊葦原を渡しはせぬ!!」
「須勢理、誓約は果たされたのだ」
「父上様にはわからぬ、私の気持ちなど!!」
美しい容を哀しみと怒りに染める須勢理比売を、
荒ぶる神は憐れむように視つめる。
「ああ、わからん。
お前はいつも己の望みをはき違えるからな。
手に入らぬものを欲しがり、本当に欲しいものを視逃す。
お前の世界はもともとここなのだ。
黙って己貴を婿とし、根の堅州国を統治すればよかったものを。
豊葦原を欲しがり、そうして全てを喪ったではないか。
何故悟らんのだ」
「私の世界!? こんなおぞましい国が!?
父上様だとて豊葦原にいるではありませんか?
何故私は駄目なのですか!?
兄上や姉上さえ豊葦原に在らせられるのに。
何故私だけがこんな場所で我慢せねばならぬのですか!?」
美しい世界。
美しい豊葦原。
そこで暮らしたいと望んで何が悪い。
「父上様の母君とてそうであろう!?
黄泉国が厭わしくてならぬから逃げたのだろう!!
豊葦原が愛しくてならぬから、返りたいと願ったのだろう!?
何故私は――私だけが、許されぬのだ!?」
太古の女神は護られ、愛され、豊葦原に留まっている。
何故自分は駄目なのだ。
返りたいと願っては駄目なのか。
あの美しい世界に。
彩やかな豊葦原に。
唯一変わらずに在り続け、己を慰めてくれるものを求めて何が悪い。
「それでも許されぬのならば――私を殺してください。
これ以上生きながらえるのは耐えられませぬ」
もっと早くこうしていればよかったのだ。
愚かな夢を視た。
愛しい者と豊葦原で生きる夢を。
神代で夫を喪ったように、今生でさえ息子を喪った。
豊葦原も取り戻せない。
自分にはもう何もない。
所詮、叶うはずもないものを。
それでも望んだ報いか。
「よかろう。
己貴亡き今、そなたにとって豊葦原しか執着するものがないというなら、
今、此の時、此処で、俺が終わりにしてやろう――」
荒ぶる神が振り払った手の中に、美しい剣が顕れる。
須勢理比売は目を閉じた。
荒ぶる神の美しい神気の揺らぎを感じる。
猛々しい神威も。
終わりの時を、須勢理比売は待った。
世界を劈く恐ろしい神鳴りが、美咲にも聞こえた。
「この音は――」
「理が悲鳴を上げているのです。須勢理と父神が戦っています」
根の堅州国に異変が起きている。
世界を壊すほどの神威が発現している。
「このままでは、須勢理が世界を壊してしまう。
それでは、駄目なのです。
貴女様が終わらせてくれなければ、
須勢理を――神々を、この呪縛から解き放てない」
己貴の姿が、一層かすむ。
「己貴様!?」
「女神よ。國産みの力を持つ生と死の神威をお使いください。
根の堅州国に終焉を――我らの永き苦しみに、終わりを――」
己貴の神霊が消えた。
暗闇に独り、取り残される。
それ以上、誰を呼んでも、返答はなかった。
「どうすればいいの……」
美咲にはわからなかった。
記憶も神威もない自分に、何ができる――?
一人では夢から覚めることもできない。
「――」
その時、美咲は気づいた。
そう――一人では、だめなのだ。
自分は――自分達は、一人では何もできない。
二つで一つ。
それが、神代から決められた約束だったのだから。
それを覆すことは、誰にも、何にもできない。
「だって、逢いたいのは、恋しいのは、いつでも一人だけだもの……」
不意に、風が取り巻く。
勾玉が淡い光を放つ。
喚んでくれと、希うように。
美咲は、その願いに応えた。
「志那都比古――あの人を連れてきて。
現世と幽世の境目、
伊邪那美が創りだした夢の中へ、愛しい人を喚び寄せて」
風は、その願いに応えた。
渦巻く風の中に、不意に慎也が現れる。
「美咲さん!?」
「慎也くん!!」
駆け寄って、互いを抱きしめる。
だが、それだけでは足りなかった。
唇が重なり、強く、深く、互いを呑み込むように求め合う。
魂同士だからなのか、触れ合うだけで歓喜が押し寄せる。
荒い息のもと、慎也がようやく唇を放す。
「美咲さん、何か変だ――これ以上すると、止められなくなる」
「止めないで。八尋殿の時みたいに、最後まで――」
美咲の言葉を待てずに、慎也は再び、噛みつくようにくちづけた。
程なく、二人は一つになる。
神霊で交合う――
それが、世界にどのような作用を及ぼすのかはわからなかった。
だが、今、この時、此処でなければだめなような気がした。
甘く揺さぶられて、堪えきれずに涙が溢れた。
押し寄せる魂の震えに、抑えきれずに泣く。
こんなふうに、前も暗闇の中で抱き合ったような気がする。
だが、その時は、
満ちた月が、瞬く星が、そよぐ風が、美しい世界が、
自分達を視護っていた。
それは、命を産み出したことを言祝ぐ美しい交合いだった。
今、自分達は何を産み出そうとしているのか。
生か。
死か。
遠くから、美しい神鳴りが聞こえる。
世界を震わす弔いの鐘のように、寄せては返し、鳴り響く。
何かが終わる。
新たな何かを産み出すために。
その痛みに、喪失に、美咲は満たされると同時に泣いた。
恋しい人に抱かれているのに、その喜びに終わりが来たことを哀しんだ。
全てが終わり、八尋殿での時のように、美しい神鳴りが鳴り響いた。
だが、あの時のように動けなくなることはなく、ただ鳴り響く神鳴りに、
美咲は自分の視ている夢の終わりを悟った。
「神鳴りがする――」
自分を抱きしめて放さない慎也が、ぽつりと呟いた。
「夢の終わりよ。もうすぐ、根の堅州国が消え去る。
これは、伊邪那美の視ている夢だから」
「伊邪那美の夢――?」
「ええ。伊邪那岐を恋う伊邪那美の夢。
だから、須勢理比売はあんなにも豊葦原に帰りたいと願うのよ。
伊邪那美の意志を受け継ぐ根の堅州国の女王が、
豊葦原を恋うるのは当たり前のことなの。
それが、伊邪那美の願いだから」
哀れな須勢理比売。
自分のものではない妄執とも言える郷愁によって、全てを喪った。
彼女を――微睡む神々を、解き放たなくてはならない。
美咲は少しだけ身体を離して、慎也の頬を両手で引き寄せくちづけた。
驚いたように目を見張る慎也が愛おしかった。
「慎也くん、もうすぐ、逢えるわ。もう少しだけ待ってて」
「眠り姫みたいに待ってる。
今みたいに美咲さんからキスしてくれたら、すぐに目を覚ますよ」
慎也が嬉しそうに笑う。
美咲も、笑い返した。
「――わかった」
慎也の姿が風にかき消されるように消えた。
同時に、美咲の意識も、風に攫われるようにその場から連れ去られた。




