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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第四章 睡神ーまどろむ神々ー

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8 再誓


 闇からするりと出でたその時、眼前の光景に、暫し言霊を失う。


 ひっそりと在るその小さな湖で、

 かつて過ごした静謐な時間を思い出したからだ。


 美しき湖面の傍らには身を横たえられるほど大きな岩。


 そこに座り、月を眺め、湖を眺めた。


 それぞれの領界が隔てられてから、来ることもなくなった場所。


 永い時の流れさえ感じさせずに、静謐と寂寥をたたえ、そこに在る。


 何も変わらないような錯覚に囚われそうになる。


 故に今も、そこに在るべき姿を探す。


 かつて、在ることが当たり前だったその姿。

 そして、永い間視ることができなかったその姿を。


 だが、かつてその岩に座り、仰ぎ視ながら自分が迎えた姿はない。


 感じるのは、弱弱しい神気(しんき)のみ。


「――」


 音を立てずに湖岸に近づく。


 湖と岩の間に身を潜めるように(うずくま)るその姿を視つけて、


(よる)……」


 思わず漏れた言霊に、はっとこちらに視線を向けるその(かんばせ)は。


 視る者を惑わすほどの美貌は些かも損なわれてはおらず。


 けれど、その眼差しは今はかつての温かさを感じることができなかった。


 想いなく目合(まぐわ)うその時、

 堪えきれぬ何かが、一瞬だけ互いの心を占める。


 その感情を何と喚べばいいのか。


夜見(よみ)……」


 自分をそう呼ぶのは、今も昔も独りだけ。


 その特別な、互いだけが喚ぶ名を、

 許したことが過ちだったと、今も思いながら抗えぬ。


 傍らに膝をつき、驚いて自分を視上げる容を視下ろした。


「夜よ、またここに来るとは――今度は何を命じられた?」


「――そなたに関係なかろう」


 視る者を惑わせる美しい容が僅かに歪む。


 蒼白に視えるのは、月明かりのせいか。


「いや、ある。かつてそなたは高天原の命によりここに来た。

 今度は伊邪那美(いざなみ)を護るように言われたか」


「そなたに関係ないと――!?」


 言霊が途切れ、ゆらりと目の前の身体が傾ぐ。


 咄嗟に己の身を支えようと岩壁に伸ばした美しい手を掴み、

 さほど強くもなく自分へと引き寄せる。


 いとも容易く、細くしなやかな身体が近づく。


「放せ!!」


 声音は鋭かったが、さほど力を入れているわけでもない自分の手を、

 振り払えぬほど月神は憔悴しているように視える。


「私の手を振り払えぬほど弱るとは……何があった?」


「放せ――」


 唇を噛みしめ、腕を振り払えぬまま、それでも抵抗して背を向ける。


 その頑なな身体を、後ろから抱きすくめる。


 恐怖に身体を強ばらせ、逃れようとする身体を、

 それでも逃さぬようにきつく抱きしめる。


「私に触れるな、放せっ!!」


「何もせぬ。そなたの陰の神気と神威が根こそぎ奪われている。

 それでは、戻ることもできまい」


「――」


 本来、男神の神気は陽であり、女神の神気は陰である。


 しかし、この月神はどちらをも併せ持つ。


 月が満ち欠けを繰り返すように、陰と陽が揺らぎながら共存する。


 女神の(はら)から産まれることなく、

 強大すぎる神威を与えられ現象した故か。


 そして自分も。


 男神でありながら、

 闇を司る故に陰陽両方の神気を操り、力とすることができる。


 造化三神と並び立つほどの神威は、しかし、闇の領域でしか現象しない。


 どちらも不完全な神。


 だからこそ、心を寄り添わせたのか。

 どちらも相容れぬとわかっていたのに。


「そなたの愛しい母上様を取り上げることはせぬ。

 高天原は、父上様をお望みなのだ」


 以前とは違う冷たい声音に、やはりとも思う。


 かつて心を寄り添わせ、友と呼んだのは、全て(いつわ)り。


 高天原の命で、自分を――黄泉国を探りに来たのだ。


 己の口からそう言ったのを聞いたのに、

 それ以外の真実など何処にもないのに、何故自分の心は足掻くのか。


 認めてしまえば、楽になれるのに。


「ならば、そなたは私の敵ではない。暫し癒えるまでこうしていろ」


「――」


 闇の主の神気と神威が陰の神気を奪われた月神に流れ込んでゆく。


 腕の中の細い身体は、陰の神気と神威が満たされても、

 身を強ばらせたままだった。


 神気が安定してようやく、腕の力を解く。


 弾かれたように離れていく温もり。


「礼など言わぬ」


 振り返らずに、そう呟く。


「礼を言われたくてしたのではない」


 応える自分の言霊にも、温もりはなかった。


「神気を削ってまで、高天原の――天照(あまてらす)の命に従うな」


 振り返った眼差しは痛みと怒りに満ちていた。


「気遣う振りなどするな!! そなたが欲しいのは母上様であろう!?」


「そうだ――留まれぬ月を欲して何になる。

 太陽を恋うて、追い払われてもなお天を巡る月が、堕ちるわけもない」


 どちらもそれ以上言霊を探せぬまま、沈黙だけが流れる。


「――」


 目の前に在った存在が応えを諦め、不意に消え失せる。


 後に残るは、静謐と寂寥のみ。


 まるで全てが儚き夢のよう。


 覚めてしまえば、何も残らない。


 それでは、駄目なのだ。


 だからこそ、伊邪那美を手に入れねばならない。

 黄泉の國産みをせねばならぬのだ。


 そのために、あらゆる手を使った。


 永き時を費やし、待った。

 そして今も、待ち続けている。


 今更、止められるはずもない。


 全ては自分の国の為。

 忘れ去られ、忌まれる死の国の為。


 死の女神となってもなお命を産み出せる太古の女神が必要なのだ。


「……」


 もう一度、夢の名残を追って天を視上げる。


 闇の中に、淡く浮かぶ欠けた月。


 どちらも満たされることはないとわかっていながら。


 それでも、美しい月を抱いていたいと願ってしまう。


「愚かな……」


 感傷を振り払い、闇へと身を滑らす。


 戻らなければならない、月明かりさえない暗闇の場所へ。


 己の在るべき黄泉の国へ――





 根の堅州国から月神が去った後、

 程なくして葺根(ふきね)宇受売(うずめ)が戻ってきた。


「どうだった?」


須勢理比売(すせりひめ)様の結界が在るため、中の様子は探れませぬが、

 建速(たけはや)様の神威は感じました。

 間違いなく祖神伊邪那岐(おやがみいざなぎ)様は中に」


「ご苦労だった」


 須勢理比売の館に目をやってから、ふと、建速は宇受売に問う。


「宇受売、お前には慎也がどう視える?

 伊邪那岐か? それとも日嗣(ひつぎ)の御子か?」


 問われて宇受売は戸惑う。


「わかりませぬ」


「わからぬ? お前がか?」


「日嗣の御子様のように感じることもあり、祖神様のように感じることもあるのです。

 似通った御方なのだろうと思うておりました」


 ふむ、と建速は首を傾げた。


「もしや伊邪那岐と伊邪那美(いざなみ)の黄泉返りが

 瓊瓊杵(ににぎ)木之花咲耶(このはなさくや)比売だったのか?」


「それはありますまい」


 葺根が否定する。


「日嗣の御子様が天降りし時は伊邪那岐様もご存命でございました」


「そうか――」


 建速には、最初から慎也と美咲が伊邪那岐と伊邪那美にしか感じられぬ故に、

 須勢理比売や建御名方(たけみなかた)事代主(ことしろぬし)

 ああも頑なに慎也を日嗣の御子と視誤るのかが不思議でならない。


 女神の末である自分と違うものを、あの神々は視ている。


 どんな手妻がそうさせるのか。


「――」


 考え込む建速だったが、

 不意に須勢理比売の結界が揺らいだのに気づいた。


「皆、気を引き締めろ。須勢理が来る」


 その言霊に、久久能智(くくのち)石楠(いわくす)は美咲を護る結界を強化した。

 先ほどのように、誰も女神に触れられぬように。


 葺根と宇受売は建速の両脇に下がり、いつでも動けるように控える。


 ふわりと、枯れた大地に降り立つのは、須勢理比売――かつての豊葦原の女王、

 そして、根の堅州国の女王であった。


 建速のように両脇に建御名方と事代主を従えて、父と娘が対峙する。


「お久しゅう、父上様。日嗣の御子を取り戻しに来られたか」


「あれは日嗣の御子ではない。祖神伊邪那岐だ。何故視誤った」


「父上様こそ、耄碌なさったか。敵を視誤るはずもない。

 あれは天孫の日嗣の御子。私から豊葦原を奪った憎き天津神。

 私はもう一度、豊葦原に返ってみせる。邪魔をするなら父上様でも許さぬ」


「だから、黄泉神や禍つ御霊と手を組んだと?」


 須勢理比売の美しい唇が、咲みの形を刻む。


「そうです。

 豊葦原を取り戻すためなら、何とでも、誰とでも手を組みましょう。

 建御名方と事代主が戻った以上、豊葦原の支配権は我らにある。

 天孫の末はすでに神ではなく、豊葦原は再び国津神の領界となった。

 豊葦原は我ら国津神の――大国主の末のものです」


 須勢理比売の手に、天之詔琴(あめののりごと)が顕れる。


 白く細い指が、弦を爪弾く。


 その響きが、

 鋭い棘のように宇受売と葺根、久久能智と石楠に苦痛を与える。


「よせ、須勢理」


 荒ぶる神の短い言霊と共に、荒ぶる神威が天之詔琴の響きを追い払う。


「つまらぬ」


 須勢理比売の手から天之詔琴が消える。


「いくら父上様とて、この国を出られてからは幾久しい。

 すでに根の堅州国は私を主とした。父上様ではなく。

 この国で私に叛いて勝てるわけがない」


「確かに、お前が根の堅州国の主。そう在るべく生まれた女神だ。

 なのに何故、そこまで根の堅州国を厭うのだ」


「私にもわからぬ。そう生まれついたのです。私こそが問いたい。

 何故、こうもこの国を厭わしく思うのか。

 何故、こうも豊葦原を恋うるのか――」


 須勢理比売は、遠い目で暗闇を視据えていた。


「だが、何故にと問うことも諦めた。

 抗えぬこの想いに、流されるまま進んでみせる。

 私の望みは、今生では、私自身が叶えてみせる。もう、待たぬ」


「――須勢理、何故、堅州国から死の気配がするのだ。

 ここは地の門を護りし国。未だ生者の国。

 それなのに何故、神々の神気を感じないのだ。

 お前と共に堅州国に神逐(かむやら)いされた国津神はどうした」


 荒ぶる神の問いかけに、須勢理比売は冷たく嗤った。


「堅州国が生者の国? 初めから、ここは生者の国などではなかった。

 ここは、死者の国。黄泉国と変わらぬ死せる神の国――」


「死せる神の国だと……」


 訝しげな荒ぶる神の声音に、須勢理比売が嗤う。


「そう、すでに、この国で生きている神は私だけ。

 他の神は皆死の眠りに就いた」


 建御名方と事代主が無事なのは、きっと人間の憑坐の中に在るからだ。


 神々は、この根の堅州国では生きられない。


 そのように、理が働いたからだ。


 唯独りの神として根の堅州国に君臨する――

 それが、この国の主として産まれながら、この国を捨てた自分への罰なのか。


 ならば、その理ごと、変えて視せよう。


「これが罰なら、もう十分に受けた。これ以上は、耐えられぬ」


「須勢理……」


 須勢理比売は、己の命をも懸けるつもりだった。


 いくらこの国の女王と言えども三柱(みはしら)貴神(うずみこ)であり、

 荒ぶる神でもある父神に容易く勝てるはずもない。


 生大刀、生弓矢、天之詔琴という神宝(かんだから)があっても、

 こちらの方が分が悪い。


 だが、ここで退くわけにはいかないのだ。


 闇の主が動くまで、時間を稼がねばならない。


 天孫の日嗣の御子さえ隠してしまえば、

 いくら荒ぶる神とてどうすることもできまい。


 さすがに黄泉国までは追っては往けぬのだから。


 ようやく還ってきた我が子に豊葦原を取り戻し、

 ともにこの病んだ国から出て往きたい。


 邪魔する者は許さない。


「父上様で在っても、許さぬ。私の邪魔はさせぬ」


 須勢理比売の神気が揺らいだ。


 神威が満ちる。


 同時に、荒ぶる神の神気も揺らぎ、神威が満ちる。



「理よ。


 根の堅州国の主たる須勢理が命ずる。


 我の望まぬ者を留めおくことは許さぬ。


 疾く去らせよ」



 闇が須勢理比売の背後から押し寄せる。



「理よ。


 我は根の堅州国に初めに足を踏み入れし祖神なり。


 理に叛くことなく暫し留めよ。


 我が望みを果たすまで」



 荒ぶる神の言霊が闇を押し留める。


 両者の神威がぶつかり合い、拮抗する。


 大気が震え、地が揺れる。


「母上!!」


「下がれ、建御名方。これは我の成すべき事」


「されど!!」


 二柱の神威は同質のもの。


 だからこそ、世界が悲鳴をあげる。


 結界の中でも、神鳴りが耳を劈く。


 それは、

 隔てられていた領界を打ち砕いた美しい神鳴りではなく、

 領界そのものをねじ曲げ、根底から揺さぶる、

 断末魔の響きを含んだ凄まじい神鳴りだった。


「建速様!!」


「俺に構うな、宇受売、葺根。結界を護れ。美咲を護るのだ」


 揺れる大地に亀裂が走る。


「建速様、母上様が!!」


 久久能智の悲鳴が上がる。


 振り返った荒ぶる神は、

 意識のない美咲の胸元の勾玉が淡く光るのをとらえた。


「戻ってくるのか――久久能智、石楠、美咲が戻るまで持ちこたえろ!!」




 一方、須勢理比売は焦りを感じていた。


 闇の主が動く気配がない。


 木之花知流比売(このはなちるひめ)は何を手間取っている?

 まさか、この期に及んで逃げたのか?


 世界を揺るがす神威は、

 何故か使えば使うほど、須勢理比売に苦痛を与える。


 この苦痛は何だ。


 この世界の理が自分を拒んでいるのか。


 そんなはずはない。


 ――これは警告なのだ。


 世界を壊すほどに抗うことを、理が拒んでいる。


 そのように永遠に自分を縛りつけるこの国が、世界が、

 厭わしくてたまらなかった。


 いっそ壊れるがいい、何もかも。


「母上様、それ以上神威を使ってはなりませぬ!! 死んでしまいます!!」


 事代主の悲痛な叫びにも、歪んだ咲みしか返せない。


「死んでも構わぬ。滅びるがいい、何もかも。

 この国に繋がるものは残らず我が消し去ってやる!!

 事代、建御名方を連れて往け。豊葦原へ戻れ!!」


「母上!?」


「須勢理、無駄だ。世界を壊しても、そなたは豊葦原には返れぬ」


 憐れむような荒ぶる神の声音。


 憐れみなど、欲しくはない。


「いいや!! 返ってみせる!!

 喩え神霊のみになっても、禍つ御霊となっても、豊葦原に返る!!」


 身体中を、苦痛が襲う。


 それでも神威を使い続ける須勢理比売に、

 荒ぶる神はそれ以上何もできない。


 その時。


「奏上致す!!」


 ふわりと虚空に浮かび上がったのは、

 巫女神である天之宇受売命(あめのうずめのみこと)


「我は天津神にして天孫の日嗣の御子の随伴神(ずいはんしん)、天之宇受売なり。


 神代にて行われた國譲りに習い、再び大国主の末に挑む!!


 返答や如何に!!」


「随伴神だと!?」


 建御名方が前に出る。


「卑怯な手で我を捕らえ、國譲りを誓わせた天津神が、今更何を申すか!?」


 天之宇受売が艶やかに咲う。


「確かに、あれは思兼の策。我は策を労すことはせぬ。

 今度は、我独りがお相手仕る。兄弟神で挑まれるがいい。

 我らの勝負で、豊葦原の支配権を決めましょうぞ。

 言霊に誓いまする」



「よかろう!! 言霊に誓う!!


 我らが勝てば、豊葦原は大国主の末のものだ!!」




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