7 遡夢
「ようやく喚んだか」
雲が太陽を遮り濃い影を造った時、その影からするりと闇の主は現れた。
「大己貴よ。そなたの願いを聞き届ける。
同胞の願いは聞き届けねばならぬ」
闇の主の神威が、海の彼方に向けて放たれる。
煌めく軌跡を追って往く闇の神威。
その闇が、消えて逝こうとする須久那毘古那の神霊を捕らえた。
同時に、己貴の神威と呪詛が神霊を追い、絡め取る。
呪詛で絡め取られた神霊を、己貴は再び黄泉から引き戻す。
闇の主は満足げに咲んだ。
「望みを果たすがいい、大己貴。全て成し終えたら、我が許へ。
黄泉国にて待つ――」
そのままするりと、闇の主は消えてしまった。
己貴はそれを視なかった。
ただ、自分が引き戻した新たな神霊を視据えていた。
それは、須久那毘古那ではなかった。
己貴とさほど変わらぬ体躯の、視目麗しい神であった。
「我を喚んだのは、そなたか?」
「ええ。私、大国主です」
「思い出せぬ。我はそなたを知っているような気がする。
そなたは、我を知っているか?」
「ええ。貴方様は大物主命。我が和魂で在らせられる」
「和魂……思い出せぬ」
遠い目をする神に、己貴は微咲む。
微咲みながら、泣いていた。
「思い出せずともよいのです。全て私が憶えております。
貴方様はただ、そこに在ってくださればよいのです」
「そうか――そなたがそう言うのであれば、それでよいのだろう」
「御諸山へ。そこが貴方様の坐する処でございます――」
そして、己貴はさらなる呪をかける。
己が神気と神威だけでなく、引き戻した大物主の神威までも糧とし、
この豊葦原に大いなる禁厭を施す。
全ては、彼の唯一の女神のために。
ただ、それだけのために。
この後、己貴は神去り、その子建御名方と事代主は天降りした日嗣の御子の随伴神――
思兼命と建御雷命の策に嵌り、封じられる。
須勢理比売と、大国主に連なる神々は
そのほとんどが根の堅州国へ神逐いされた。
しかし、天津神が豊葦原を治めたのは、ほんの一時のことであった。
天津神である天孫の日嗣の御子――瓊瓊杵命と
国津神である木之花咲耶比売命が結ばれ、その恋が悲劇の内に終わり、
瓊瓊杵命も儚くこの世を神去る。
そして、禍つ神霊の呪詛により、天孫の末は儚く散る定めとなる。
天津神に従わぬ国津神のほとんどは豊葦原に封じられ、
残された神々の末は黄泉返りを繰り返し、記憶も神威も神気も失い只人となった。
それこそが神々の黄昏――神代の終わりであったのだ。
美咲が再び目を開けると、
その手の平の上には、小さき神はいなかった。
「須久那毘古那様……?」
囁きかける声に、応えはない。
顔を上げると、
目の前には視目麗しく優しげな男神の神霊が佇んでいた。
「あなたは……」
「女神よ、このような不浄の身を曝すことをお許しください」
その神は、神霊を目に視えぬ呪詛で縛られていた。
男神が手を虚空へ翳す。
すると暗闇の中に浮かび上がる紋様で、世界は覆われていた。
呪詛の紋様は、神霊を絡み取っただけでなく、
この根の堅州国全体を包み込んでいるのだ。
蜘蛛の糸のように絡み合った呪詛の紋様――渦巻く情念。
「この紋様が、呪詛の紋様……」
「さようにございます。
私が施した呪詛が、全てを変えてしまったのです」
根の堅州国に戻った須勢理比売は、
己貴が施した呪詛に気づかぬまま、女神の命を奪い続けた。
だが、すでに死を逃れた須勢理比売に、
吸い上げた命は無用のものだった。
呪詛によって、次々と死の微睡みにつく女神達。
吸い上げた命によって、ますます力を得る呪詛。
それによって、根の堅州国自体も大きく変質する。
とうとう呪詛は絡め取られた女神達だけではなく、
この根の堅州国にいる全ての神々達の命を奪い出した。
最後に残ったのは、
呪詛に縛られぬ八上比売と呪詛の源となる須勢理比売のみ。
そして、今生ではすでに八上比売も呪詛に囚われ、
根の堅州国に生ける神は須勢理比売以外にはおらず、
死せる神が、死の微睡みの中で囚われたまま夢を視続ける。
「妻を救いたかった。ただ、それだけだったのです」
「そのための、呪詛だった――」
「ええ。そのためだけにたくさんの神々を欺き、傷つけ、利用しました。
いつもすまない気持ちでいっぱいでした。
愛おしく想うのはただ独りのみ。
そのために、愛してもおらぬ女神を娶り、抱いたことを」
「愛するのは、いつでも独りなの?」
美咲の問いに、己貴は寂しげに微咲む。
「そうです。ただ独りだけ。彼女のために、
この世界の理さえも滅ぼしてしまいたかった――」
己貴がそっと跪く。
「太古の女神よ。死を司る女神よ。
かつて國を産んだように、今度は滅ぼしてください。
貴女様にしかできませぬ。私の女神に、どうか御慈悲を」
その言霊に、美咲は戸惑う。
「伊邪那美が産んだのは豊葦原でしょう? 根の堅州国は、産んでない」
「いいえ。貴女様がお創りになられたのです。
だからこそ、貴女様にしか壊せない。
私の妻を――この国に縛られ続ける憐れな須勢理比売を解き放てるのは、
貴女様だけなのです」
己貴の言霊と共に、美咲の中に、
たくさんの想いが、強い想いが、入り込んでくる。
抗えないこの想いが、神々の微睡む夢なのだ。
美咲は夢を受け入れた。
それは、自分の想いでもあったのだ。
夢が押し寄せる――これは、須勢理比売の夢。
「須勢理比売様。何故かような処へ」
「月視じゃ。このような辛気くさい国、月視の他は何の楽しみもないであろう」
「確かに、美しい月ですが、淡く滲んで、何やら悲しげに視えます」
「月も暗闇に独りで、寂しいのであろう。
取り残された私達のようでもあるな」
「須勢理比売様……」
「先に戻るがいい。私はもう少し月を視ている。
この国で私に仇為せるものなどおらぬ」
八上比売は、躊躇うも須勢理比売の言霊に従い、頭を垂れた。
「お身体に障らぬよう、早めにお戻りくださいませ」
八上比売が静かに去っていく。
須勢理比売は不思議だった。
神逐いされてから、初めて知った、八上比売の事情。
本当は己貴の妻ではなく、その兄大穴持命の妻だとか。
正式な婚儀を上げぬまま妻となったため、
穴持が神去りし後、己貴が名ばかりの妻としたと。
兄も弟も、妻を幸せにできずに独り残して神去った。
兄弟そろって、不実な男神達だと、須勢理比売は溜息をついた。
「さようなら。己貴様。もう二度と、誰も愛しませぬ。
このように裏切られ、何もかも失うのなら、初めから愛さぬ方がよい」
立ちつくす須勢理比売。
淡く滲む月明かりだけが、女神を照らし、慰める。
須勢理比売はただ黙って、立ちつくしていた。
それは、ようやく訪れた諦めの夢だった。
夢が押し寄せる――これは、多紀理比売の夢。
「大国主様、何故逢いに来てはくだされぬのですか? 私は貴方様の妻なのです!!」
走り寄り、縋る女神を夫である大国主は振り払う。
その眼差しは、冷たく、ただ冷ややかに女神を視下ろす。
いつもそうだ。
決して自分を視つめてはくだされない。
あの嫡妻のようには。
「そなたのもとへは何度も通い、子も為した。これ以上何を望む」
「子を為すためだけに、私を妻としたのですか!?」
「――ああ、そうだ。
豊葦原を治めるために、そなたを妻とする必要があっただけだ。
それ以上を望むな。すぐに返れ。須勢理にも余計なことを吹き込むな」
「――」
屈辱に身を震わせる女神をもう一度振り払い、夫が背を向ける。
「大国主様!!」
それ以上、何度多紀理比売が呼んでも、大国主は振り返らなかった。
それは、紛う事なき怒りの夢だった。
夢が押し寄せる――これは、神屋楯比売の夢。
「お待ちしておりました、大国主様」
巫女装束の女神が、伏して大国主を迎える。
「神託を告げる巫女比売か。すまぬな、政故に、私に差し出されるとは」
大国主が小さく嗤う。
すっと、神屋楯比売が容を上げる。
美しく澄んだ瞳が神託を告げる巫女比売を視つめた。
澄んでいるのに、その瞳は昏く、絶望も湛えていた。
苦しんでいるのだと、神屋楯比売にはわかった。
国津神の頂点に立ち、国を治める大神で在らせられるのに、
何故この方は、このように寄る辺ない幼子のように憐れに視えるのだろう。
お救いしなければ。
この方を。
「いいえ。貴方様をお救けするべく遣わされたのです。
全て承知の上でございます。どうか、お望みを果たされませ」
それは、永きにわたる憐れみの夢だった。
夢が押し寄せる――これは、沼河比売の夢。
「大国主様を迎える準備は整ったの?」
「はい、比売様」
「ならば、よいわ。下がっていなさい」
側仕えの者が部屋から下がる。
ほうっと、沼河比売が息をつく。
昨夜は突然の求婚に驚いてしまってお返ししてしまったけれど、
今宵迎える手はずは整った。
歌を受け取った侍女は、とても視目麗しい、優しげな男神だと興奮していた。
しかも、この豊葦原を統べる大国主。
もちろん、この妻問いは政略であるのはわかっている。
大国主はこの高志の国を手に入れるために、自分を娶るのだ。
それでも、優しげな神と聞いて、胸が高鳴る。
たくさんいる中の妻の独りでも、大切にして頂けるのだろうか。
ならば、自分も精一杯お仕えしよう。
大国主様を対の命として、慈しみ、慈しまれ、寄り添い合っていこう。
それは、ほんの束の間の美しい夢だった。
夢が押し寄せる――これは八上比売の夢。
「己貴様、お帰りなされませ」
「八上比売――母上が世話をかけた」
「いいえ。お身体も癒えたのでお連れ致しました。では、これにて私は」
「稲羽へ戻るか」
「はい。己貴様は嫡妻様をお迎えになりました。私は己が領地へ戻ります」
「すまぬ、八上比売」
「いいえ。謝らないでくださいませ。
名ばかりではあっても、己貴様の妻と言うことで、
私は煩わされることなく今まで通り稲羽で暮らすことができます」
「兄上を、待つのか」
「……はい。私の対の命は、あの方だけです。いつまでもお待ち致します」
それは、ただ待つだけの静かな夢だった。
夢が押し寄せる――これは、櫛名田比売の夢。
初めて足を踏み入れた根の堅州国。
暗闇の国。
月明かりだけを頼りに、これから暮らすのだ。
「櫛名田。本当に俺と共に此処で過ごすつもりか?」
もう何度も繰り返された問いに、もう一度答える。
「はい。建速様の在られるところに、私も在りたいのです。
豊葦原であろうとも、根の堅州国であろうと、何も変わりはありませぬ」
愛しい夫が優しく咲う。
「愚かだな。だが、有難く思う。
お前の産む最後の子が、この根の堅州国の主となる」
この寂しいだけの国に救いを与えるのだと、建速様は仰った。
この方の夢は私の夢。
その望みを叶えてみせる。
櫛名田比売は愛しい背の君にそっと寄り添う。
それは、何処までも深い愛の夢だった。
夢が押し寄せる――これは建速須佐之男の夢。
「建速よ。そなたには大海原の支配権を与えた。何故我が命に従わぬ」
「祖神伊邪那岐よ。それは真の願いではないからだ」
「そなたの願いは何だ。何を願う」
「俺は根の堅州国へ往く。伊邪那美の想いの残る新たな国へ。
母なる伊邪那美に会わねばならん」
「そなたが何故伊邪那美を恋う」
「それは、俺が最後の貴神であるからだ。
祖神伊邪那岐の最後の嘆きから成りませる凄ぶる神だからだ」
それは、揺るぎない理を知らしめる夢だった。
夢が押し寄せる――これは、伊邪那岐の夢。
「愛しき我が那邇妹命……
そなたを子独りと引き替えに喪うとは――」
嘆く伊邪那岐の手には、今までに視たこともないような美しい十拳の剣が。
「――父上様!!」
大きく振りかぶり、伊邪那岐は目の前の産まれたばかりの神を斬った。
鮮血が飛び散る。
美しい頸が、ごろりと転がった。
その血潮から、新たな神が現象した。
女神の最後の神威か。
御刀を滴り、指の間から滴る血からさえ、成った女神。
神殺しの剣からさえも、神が成った。
「伊邪那美……」
祖神の涙からさえ、神が成りませる。
それは、理に抗えぬ嘆きの夢だった。
流れるように、様々な神代の夢が押し寄せては消えて逝く。
遡る夢を、美咲は視続ける。
そして、最後の夢が訪れる――これは、伊邪那美の夢。
暗闇の中で、女神は目を覚ます。
そこは、視渡す限りの草原だった。
大きな岩に身を預けていた女神は、ゆっくりと身を起こす。
先ほどまで、路の傍らで疲れて眠り込んでいたというのに。
広く寂しい世界が目の前に拓けている。
「此処は――」
黄泉路の半ばで、これこそが夢か。
だが、先ほどまでの微睡みの中、不可思議な夢を視た。
此処ではない、何処か別の世界の、別の時代に生きる夢だ。
そして、そこにも自分の愛しい対の命がいた。
只人として出逢い、愛し、愛された。
夢のような幸せな時間。
ただ寄り添い、空を視上げているだけで、全てが満ち足りていた。
神威も神気も――記憶さえ持たぬのに、愛おしかった。
ずっと、お傍にいたかった。
許されぬと、心の何処かではわかっていたのに。
あれは、来たる世での夢か。
ならば、ずいぶん永く待つことになりそうだ。
神去る自分は、黄泉国に降らねばならない。
先ほどまでの幸せな夢の名残が、胸の痛みを募らせる。
「ああ、愛しき我が那勢命」
愛しい背の君を恋う涙が、暗闇に染まる大地に落ちた。
すると、不思議なことに、
暗闇によって隠されていた大地が、草々が、色を取り戻した。
「なんと不思議なこと。これならば闇も怖くない。
黄泉路への旅も迷うこともあるまい」
月も滲んで、まるで別れを惜しむよう。
女神は静かに立ち上がる。
そして、歩き出した。
何度も何度も振り返りながら。
自分は夢を視続けるだろう。
愛しい背の君とともに、豊葦原で生きる夢を。
「ああ、伊邪那岐様。夢でならば咎められることもございますまい。
この身は死して、黄泉国に降ろうとも、私の想いは微睡みの中の夢となり、
貴方様を永久にお慕いし続けるでしょう」
女神の去った後に、涙が呼び水となって小さな湖ができた。
月を映すその湖は黄泉国の源泉と繋がり、闇の主の知るところともなる。
だが、この後、女神が再びそこを訪れることはなかった。
そう――永遠に。
それは、終わりを告げる別れの夢だった。
「――」
涙が落ちる音で、美咲は我に返った。
遡る夢が、真実を知らしめた。
「伊邪那岐を慕う伊邪那美の夢が、根の堅州国を創ったと言うの……」
「だからこそ、貴女様にしか終わらせられぬのです」
己貴が頷く。
たくさんの、愛を視た。
切なく、狂おしいほどの愛を。
焦がれ続ける想いを。
神代から今に至るまで。
それら全てが、伊邪那美の夢であるなら。
「では、終わらせなければ。夢に囚われ続けるたくさんの神々を……
須勢理比売を解き放たなくては」
頬を零れた涙が、胸元の勾玉に落ちた。
淡い光が美咲を包み込んだ。
夢の終わりが、近づいていた。




