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高天原異聞 ~女神の言伝~  作者: ラサ
第四章 睡神ーまどろむ神々ー

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6 禁厭 


 彼女は、知っているのだろうか。


 どれほど、自分が彼女を愛しているか。

 どれほど、彼女は自分が愛されているか。


 この想いのどれほどが、伝わっているのか。

 何を捧げれば、信じてもらえるのだろうか。


 (みこと)か。

 世界か。


 自分は、何も惜しまないだろう。


 この心を正しく伝える術が、あるものならば――





 須勢理比売を背負ったまま、己貴は地の門を越え、豊葦原へと戻った。


 目覚めた須勢理比売は、

 不思議なことに(ことわり)が襲ってきた時の記憶を失っていた。


 恐らくは恐怖のあまりに、記憶を封じたのであろうと己貴は思った。


 それでいい。

 辛い記憶など、須勢理比売には持っていて欲しくない。


 夜明けの来る豊葦原を見て喜んでいる妻を、己貴は愛しげに抱きしめる。


「己貴様、ここで、私達は生きて往くのですね」


「ああ。そなたは私の妻。豊葦原を治めるこの大国主の嫡妻――豊葦原の女王だ。

 そして、そなたと私の末が、この中つ国を永久に治めて往くのだ――」


 美しい夢だった。


 だが、生大刀と生弓矢を使い、八十神達を全て追い払い、

 この豊葦原の中つ国の継承者として名乗りを上げる頃には、

 その夢も徐々に色褪せていった。


 豊葦原に戻って以来、

 己貴はまた少しずつ虚しさが自身を蝕んでいくのを感じていた。


 堅州国で感じていたあの満ち足りた感覚は、

 根の堅州国に在ったからこそのものだったのだ。


 それを忘れさせ、癒してくれるのは須勢理比売だけ。


 彼女はまさに根の堅州国そのものなのだ。


 彼女の傍で、彼女に触れ、交合うとき、己貴はその虚無感から逃れられる。


 しかし、大国主となった己貴とその妻須勢理比売には、

 その政務で共に過ごせる時はどんどんと減っていった。


 国を治める己貴には、国津神の娘神が新たな妻として差し出されようとする。


 断り続けるのにも限度があった。


 いっそ他の誰かに國を譲り、

 須勢理比売とともに何処か遠くの誰も知らぬ処で過ごせたら。


 御大之岬(みほのみさき)で、独り佇みながら、己貴は途方に暮れていた。


 須勢理比売の傍にいたかったが、この物思いを知られるわけにはいかない。


 さりとて、離れればまたもあの虚無感がひたひたと押し寄せる。


 相反する感情に己貴は苦しんだ。


 その時、己貴は海の彼方から何かがやってくるのを捉えた。

 それは、天之羅摩船(あめのかがみのふね)だった。


「――」


 淡い光に包まれながら、船は陸へと辿り着く。


 己貴は小さな船に近づいた。


 その船に乗っていたのは、神だった。

 海の彼方から来たる神。小さき神。


 己貴は考えるより先に、両手を差し出した。


 小さき神は、ふわりとその手の中に飛び乗る。


 落とさぬように、そっと己貴は手を上げ、顔の近くへと引き寄せる。


 (いとけな)い幼子のようにも視え、

 かと思えば思慮深い青年のようにも視える不可思議な神であった。


「――貴方様は……」


「そなた、この豊葦原の中つ国を治める大国主である大己貴か?」


「はい……私が大己貴です」


 名を呼ばれ、驚く己貴に小さき神は咲う。

 その小さな手が、己貴の親指に触れた。


「そなたを救けに来た。我と共に、豊葦原を制定せよ」


「私を、救けに……?」


「そうだ」


 その小さき神に触れられた時、

 己貴は、須勢理比売の傍らにいる時のような安らぎと癒しを感じた。


 懐かしささえ感じる、美しい神だった。


「私と共に、在ってくれるのですか……嬉しゅうございます」


 己貴は泣いていた。ただただ、泣いていた。





 不意に、意識が引き戻され、

 美咲は手の平に乗っている小さき神の穏やかな眼差しに気づいた。


「……夢を、見ていました……」


 溜息のような呟きに、小さき神が切なげに頷いた。


「そう。我々は夢なのだ。儚くも過ぎ去った神々の夢。

 その微睡みが、今の堅州国を支えている」


「微睡みが――?」


「何故、根の堅州国が生まれたのか、

 それは、貴女様が返られた黄泉国とも深く関わっている」


「黄泉国と、ですか?」


「さよう。

 地の門を境に、現世(うつしよ)である豊葦原と幽世(かくしよ)である黄泉国が在る。

 それは生と死、そして、根の堅州国は生と死の狭間――微睡みの中の夢なのだ。

 根の堅州国は、死を迎えた神々の、

 そして、死者を統べる黄泉神の休まう処となるべき国のはずであった。

 己貴が神去り、天孫の日嗣の御子が豊葦原を譲り受けしとき、

 須勢理比売とともに大国主の身内はほとんどが神逐(かむやら)いされた。

 その神々の夢――死せる神々の夢――が、貴女様を喚んだのだ」


「死せる神の休まう国――死せる神々の夢――」


 美咲ははっとした。


「根の堅州国には、生きている神々はいないのですか?

 須勢理比売は? 須勢理比売の他に神逐いされたという神々は?」


「須勢理比売とその子建御名方(たけみなかた)、八重事代主の他は、生きている神はおらぬ。

 それ以外の神は――すでに死の眠りが、彼らを捕らえている。

 あれは、呪詛なのだ。

 根の堅州国に足を踏み入れた途端、貴女様を捕らえた神々の思念を覚えていよう?」


「――あの、強い想いが」


禁厭(まじない)によって、我らは自らを呪詛した。

 それは、命を懸けた禁厭であったのだ」


「何のために、そうしなければならなかったのですか?」


「それは――言霊より、確かな神言(かむごと)で確かめるがよい」


 小さき神は、寂しそうに()んだ。





 小さき神の名は、神産巣日神(かみむすひ)御子(みこ)須久那毘古那(すくなびこな)であるとわかった。


 出会ったその日から、二柱の神はともに豊葦原を治めるべく動いた。


 己貴(なむち)の左肩、そこが須久那毘古那の定位置となった。


 小さき神は賢く、己貴に様々な助言を与えてくれた。


 瞬く間に豊葦原の大半の国津神を黙らせ、従えた。


 須勢理比売は子を身籠もり、

 己貴はようやく幸せを噛みしめることが出来た。


 だが、

 ある日ふと須勢理比売に違和感を感じ、神威を使って彼女を視た。


 そして、そこに、死の影を捉えた。


 彼女の中に、死が視える――


 己貴は血の気が引いた。

 気づかれぬようその場を離れ、誰もいない自室に走った。


「……須久那、須久那!!」


 左肩に温かな神気を感じ、気づけば小さき神がちょこんと座っている。


「己貴よ、何があった」


「恐ろしいものを視た。死の影が、須勢理を捕らえている。須勢理は――死ぬのか?」


 小さき神は目を閉じたまま、暫し動かなかった。


 神威を使って、己貴が視たものを探っているのだ。


 やがて目を開けた小さき神は、ふわりと己貴の目の前に浮かぶ。


「須勢理比売は、根の堅州国の女王。

 世界が、彼女を求めている。根の堅州国が、彼女を喚んでいるのだ」


「駄目だ!! 須勢理は豊葦原の女王だ!!

 根の堅州国を厭うている。返すことなど出来ぬ」


「返さぬから、死の影が捕らえたのだろう。

 死神は豊葦原には留まれぬ。故に(ことわり)が働いたのだ」


「……須勢理を神去らせ、根の堅州国へ喚び戻すつもりなのか……」


 駄目だ。

 失えない。

 例え自身を失おうとも、彼女は失えない。


「……須勢理を、死なせはしない……」


「だが、死の影が視えたのなら、それを覆すことは容易ではない」


「死の影に、別な命をくれてやる。別な命に寄り付かせる。

 豊葦原と須勢理を、禁厭(まじない)によって結びつけてみせる」


 己貴の言霊に、小さき神が目を視張る。


「己貴、それは悪しき力だ。禁厭をかけるつもりか?

 それでは、そなたが死んでしまう」


「構わぬ」


 須勢理比売を豊葦原に留めるために、世界の理にも抗ってみせよう。


「命を懸けて、この呪詛を創り上げる」




 己貴は身重の須勢理比売をおいて、妻覓(つまま)ぎに往った。


 今までの拒絶から手の平を返したような態度を、

 国津神々は訝しんだが、それでも喜んで受け入れた。


 大国主に己の娘を嫁がせることで手に入る権力を夢想していたのだ。


 己貴の本当の目的も知らずに。


 己貴は往く先々で差し出される女神を残らず娶った。


 ただ一夜の交合(まぐわ)いで、たくさんの女神を妻とした。


 そのたくさんの女神の命を縁で結び、呪詛の紋様(もんよう)を織り交ぜる。


 命を孕む女神の神気が、神威が、ただ独りの女神へと流れ込むように。


 あらかたの国津神の娘を娶り、呪詛を創り上げると、

 己貴は須勢理比売の許へ返った。


 たくさんの女神から少しずつ奪い取った命は、

 須勢理比売へと繋ぎ合わせなければ呪として完成しない。


 愛しいただ独りの女神。


 彼女がいないのなら、

 この世には何の喜びも愛しさも感じることは出来ない。


 だからこそ、

 早くその愛しい身体を抱きしめ、交合いたい。


 禁厭によって己貴の身体も神霊も蝕まれていた。


 だが、返ってきた己貴を、

 当然の如く須勢理比売は優しく迎え入れることは出来なかった。


「他の女に触れた手で、我に触れるな!」


 泣いて拒む女神。

 誰よりも愛しい対の命。


 拒まないで欲しい。

 全ては、そなたと私のため。


 産み月近くなり、以前と違ってふくよかになっていても、

 変わらず須勢理比売は美しかった。


 背を向ける須勢理比売を後ろから抱きしめる。


「須勢理、須勢理。許してくれ。そなたと豊葦原のためなのだ。

 私が愛するのは唯独り、そなただけだ。私を信じろ。


 言霊に誓う。


 全てはそなたを愛するが故なのだ」


 何度も何度も、己貴は言霊を繰り返した。


 この心を切り開いて視せられるものなら、きっとそうしたことだろう。


「貴方様は……ずるい」


 泣いて責めても、

 そのような言霊を告げられたなら須勢理比売は拒みきれない。


 やがて須勢理比売は強く抱きしめる己貴に身を委ねた。


 抗うのを止めた須勢理比売を、己貴はその場で求めた。


 凍えた心が、身体が。

 温かな身体に触れることで癒されていく。


 後ろから抱きすくめ、温もりを確かめる。


 ようやく触れた愛しい命に歓喜と共に身を震わせる。


 飢えたように、求め、交合う。


 これだ。

 この女神だ。


 欲しいものも、奪いたいものも、ただ一つ。

 この命のみ。


「ああ……須勢理、須勢理……そなたが愛しくて堪らぬ……」


「……己、貴、様ぁ……っ!!」


 己貴の求める激しさに、須勢理比売は途中で意識を失った。


 だが、己貴は須勢理比売を求め続けた。


 意識のない須勢理比売と触れ合い続けながら、呪を描く。

 誰にも気づかれぬ、禁厭の紋様を。


 己貴の禁厭の言霊とともに、


 神気が揺らめき、

 神威が満ちる。


 女神達から奪った命を、須勢理比売へと縒り合わせる。


 愛しい女を死なせないために、他の女を犠牲にする。


 それほどに、この女神は自分の全てなのだ。


「須勢理……私には、そなたがいればいいのだ。

 そなたの願いが、私の願い。だから、私を視捨てないでくれ……」




 次々と国津神の娘神を娶った己貴は、禁厭を深めていった。


 永く苦しい年月であった。


 呪を施し、須勢理比売をこの豊葦原に留め続けるために、

 己貴は己の神気も神威も使い果たそうとしていた。


 己貴の裏切りとも視える妻覓(つまま)ぎによって、

 須勢理比売と己貴の絆は不信に絡み取られ失われようとしていた。


 それでも、己貴は未だ須勢理比売を愛していた。


 愛しげに自分を視つめた眼差しが氷のように冷ややかになっても。

 どんなに乞い願っても褥に迎え入れてもらえずとも。


 己貴には、常に須勢理比売だけが愛しかった。


 独り寝ている比売の寝所に忍んで往き、誰にも気取られぬように、

 須勢理比売自身にさえ気づかれぬように深い眠りに落としたまま、

 愛しい妻と夜明け近くまで禁厭を深めつつ、交合う。


 ずっと傍にいて抱きしめていたかったが、

 新たな呪の名残を消し去るために須勢理比売の部屋を出て、

 白みはじめた空の下、海へと歩く。


 全てが虚しかった。


 終わりのない渇望と絶望から逃れたかったが、

 成す術もなくただ歩き続けるしかなかった。


 海が視える。

 波の音が寄せては返す。


 初めて須勢理比売とこの海を見た時のようだと思った。


 海は何も変わらないのに、自分の心は何処に逝ったのだろう。


 あの時の幸福が、今はもう思い出せない。


 あの輝く希望に満ちた愛は何処に――


「己貴」


 耳元に声がして、気がつけば左肩に小さき神が座っていた。


 禁厭で蝕まれた身体も、この小さき神が傍にいてくれると癒される。


 須勢理比売同様、今はこの小さき神も

 己貴にとっては許しと癒しを与えてくれる存在だった。


「須久那……この呪は、私が神去っても続くか?」


「無理だ。そなたが死ねば、呪は保たぬ。

 豊葦原に留まるのなら、いずれ呪は消え、女神は神去る」


「根の堅州国に在れば、生きられるか?」


「根の堅州国ならば、女神は死なぬ。

 禁厭も残り、そなたが黄泉返れば、いつの日か再び、

 豊葦原に戻ることもできるやも知れぬ」


「では、私に出来ることは一つだけだな」


 命を使い果たしても、出来ぬことがある。

 愛しい女の願いを、叶えてやることが出来ぬ。


 こんなにも愛しているのに。


 己貴は己の無力さを悔やんだ。


「須久那……私は何を間違えたのだろう……?」


「間違えたのではない。正しい道など、何処にもないのだ。

 全ては己の選んだ道だ――」


 小さき神の言霊に、己貴は咲う。


 そうだ、自分で選んだのだ。

 誰の、何のせいでもない。


 己が選んでそうしたことを、何故悔やむ?


 例え時を取り戻せて同じ岐路に立とうとも、自分はこれしか選べない。

 愛しい女神のために、これより他には選べない。


 それが、己が選んだことだ。


「……そうだな。私が、私のためにしたことだ。私だけは悔やんではならぬな。

 須久那、そなたはいつも私を救ってくれる。真に有難く得難き神だ」


 ふわりと、肩に乗っていた須久那毘古那が己貴の前に浮かび上がる。


 己貴はいつものように両手を掲げ、小さき神を受け止める。


「だが、我の役目はここまで。これより後は、留まれぬ」


 静かな別れの言霊に、己貴は息を呑む。


「――禁厭のせいか?」


 小さき神は曖昧に咲った。


「そなたを導くのが我の役目であった。

 心残りもあるが、すべきことは全て果たした。戻らねばならぬ」


常世(とこよ)へ――?」


「わからぬ。そうやもしれぬ。

 我はそなたと出会う前のことはほとんど覚えておらぬのだ」


 常世とは、黄泉国のことだ。

 死者の往く国。


 この小さき神の正体を、すでに己貴は気づいていた――

 否、初めて出会った時から、わかっていたのだ。


「兄上であろう? 誰が気づかずとも、私にはわかる」


 今度は、小さき神が息を呑む。


「たくさんのことを忘れてしまった。私はそなたの兄であったのか?」


「そうだ。私の兄上だ。本当の名は大穴持命(おおなもちのみこと)

 妻は八上比売命(やがみひめのみこと)。子は御井命(みいのみこと)


 自分の名と妻である八上比売の名を言霊にのせると、

 小さき神はほうと、満足げに息をついた。


「我は、そなたの兄であったのか。ならば、この愛しさもわかる。

 己貴よ、我はそなたと共に在れて幸せであった――」


「兄上――兄上……」


「悔いなど何もない。黄泉返るその日まで。また会おうぞ、己貴」


 小さき神の小さな姿は、空に溶けるように消えていった。


 神気の名残がわずかに煌めき、海の彼方へ軌跡を描いて往く。


「ええ、兄上。許してください。このように兄上を利用する私を」


 己貴の神気が妖しく揺らめき、禍々しい神威が満ちた。



「闇の主よ、今こそ誓う。


 黄泉路へ降る兄上を再び豊葦原へ。


 神去りし後の、我の神霊をそなたに捧げる。


 黄泉神となり、冥界の死神(ししん)となろう」




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